✴ハウスの概要✴

ヒストリックハウス名:Oxburgh Hall (オクスバラホール)

所在地域:イギリス、Norfolk(ノーフォーク)

1482年に建てられてから530年以上、べディングフィールド家の館。代々、カトリック信仰、王室派。中世そのままの堀がある外観、中世に王族が宿泊した部屋、そこは中世。

オクスバラとは、牡牛の保護区域という意味だそうです。記録を遡るとエドワード1世の最高判事だったトマス・ド・ウェイランドがオクスバラを所有していましたが、職権乱用で私腹をこやしていたことが明るみにでて、財産を没収されました。しかしオクスバラだけは妻名義で所有していたため、没収をまぬがれました。1434年にはトマス・トゥデンハムに持ち主が変わりますが、トゥデンハムはエドワード4世への謀反の疑いで死刑になり、姉のマーガレットが相続します。マーガレットは15世紀初めにエドマンド・べディングフィールドと結婚していて、ここからオクスバラはべディングフィールド家の地となります。

 

1482年にエドマンドとマーガレットの孫のエドマンドが現在のオクスバラの館を建設しました。バラ戦争で、エドワード4世を援軍したエドマンドは高い評価を得て、建物に銃眼をつけるライセンスをエドワード4世から受け、またその当時、王室の建物にしか用いなかった高級レンガで建物を建てます。エドマンドは1483年のリチャード3世の戴冠に際して、バース騎士団に叙任されました。ヘンリー7世の時代になってからも、彼は王に忠誠を尽くし、ヘンリー7世はオクスバラを母マーガレット・ボーフォートと王妃エリザベス・オブ・ヨークを連れて訪問しています。このとき、ヘンリー7世と王妃が滞在した部屋は、”The King’s room “,”The Queen’s Room “として、残されています。二つの部屋は上階にあり部屋へつながる螺旋階段は、狭く勾配がきつく、現代の階段とは全く違います。

 

エドマンドの3男のエドマンドは1540年に60歳でオクスバラを相続します。このエドマンドはヘンリー8世の最初の妻である、キャサリン・オブ・アラゴンの執事でした。ヘンリー8世がアンと結婚してから、キャサリンの執事及び会計官になり、キャサリンの幽閉を見守りそして葬儀を執り行ったのもエドマンドでした。

 

エドマンドの息子のヘンリーの時代に、べディングフィールド家は時代の波に翻弄されます。メアリー女王の宮廷ではカトリック派として大活躍だったヘンリーですが、エリザベス1世の時代になり、公職追放、重税で惨憺たる生活に追い込まれます。いつ処刑されるか薄氷の日々を過ごす中、重税に苦しみ、オクスバラの館を修繕することもできず、結果としてオクスバラは16世紀の造りのまま、代々残存されていくことになります。

このあと、チャールズ1世の即位で平和な日々が訪れ、果樹園、散歩道をつくり、建物も修繕し、白鳥を掘で飼い始めました。しかしピューリタン革命のときに、議会派に占拠され、館は略奪され破壊され燃やされたところもあり、散々な目にあいました。チャールズ2世の王政復帰に伴い、べディングフィールド家は王室への変わらぬ忠誠を認められ、男爵の位を与えられますが、館の損害賠償は特にありませんでした。

 

その後、1862年に相続した第6代男爵ヘンリーが、妻オーガスタと共に、オクスバラを愛し、館を改修し整えました。今の館は、彼の改修のおかげで姿を保っているといえるようです。彼らの娘のマチルダは、オクスバラを水彩で描き、その絵により当時の館の様子がよくわかります。

 

オクスバラはまるで映画のセットのように、現代とはかけはなれた存在です。館を囲む堀、堀に優雅に浮かぶ真っ白な白鳥たち、銃眼が設けられたゲートタワー、堀を渡る橋、狭い螺旋階段、重厚な家具の数々。苦労の時代が続き、館をアップデートできなかったことで、館のつくりが大きく変わることはありませんでしたが、グレートホールだけは時代に合わないという判断だったのか、1775年に第4代男爵によって取り壊され、サウスコリドアが建てられました。その他の造りは、ほぼ中世のまま残っているようです。インテリアや絵画も全体的に抑えたトーンで、カトリックの一族が迫害の中、耐え忍んできた歴史がにじみ出ているようです。

 

メアリー・オブ・スコッツとハードウィックのベスの二人による刺繍の大作マリアン・ハンギングスと呼ばれる、大きな刺繍作品の展示があります。ベスはメアリーが軟禁されている間(オクスバラでの軟禁ではありません)の話し相手で、この作品を見ると一緒に刺繍をした時間も相当長かったようです。刺繍をしながら、どんなおしゃべりをしていたのでしょうか。

 

ホームコバートと呼ばれる敷地内の森に向かう散歩道を歩いていくと、飼育されている牛たちがよってきます。そして、ふと振り返ると、周りの風景に見事に調和したオクスバラの館が遠くに見え、まるでそこは中世なのです。森を周回し、戻ってくると散歩道はマイ・レディズ・ウッドと呼ばれる林に続きます。この林の中には、小さな小屋があり、座って休めるようになっています。小屋のすぐそばに、小さな小川が流れていて、その涼しい音に癒されます。

 

✴べディングフィールド卿ヘンリーの独り言✴

ヘンリーはヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世の4人の国王に仕え、時代に翻弄される人生を送りました。

 

1576年のある日(ヘンリー65歳)

オクスバラの冬は寒い・・・暖炉をもっと大きくしたいが、いまはとても無理・・・税金の支払い、次の期限ももうすぐだ、どうやって払ったらいいのか。家畜も全て売り払ってしまって、しかし、なんとかしないと、土地の没収だけは避けたい。メアリー女王から頂いた銀のワインクーラーを売り払って、あとは・・・。

 

私の人生のピークは、メアリー女王が即位したころだったなあ。

 

女王が即位したころは、宮廷内は異様な雰囲気だったが。エドワードは病弱だったとはいえ、あんなに若くして亡くなるとは皆思ってなかったから。あれは、やはり誰かの陰謀だろうな、いまとなってはもうわからないが。メアリーはキャサリン王妃(キャサリン・オブ・アラゴン、ヘンリー8世の最初の妻、メアリーの母)の慈愛の情は全く引き継がなかったのか、とにかく母親の仇をうつ、または自分のこれまでの冷遇へ恨みを晴らす、その勢いがすごかったからなあ。あんなに次々とアングリカンやプロテスタントの人たちを火あぶりで処刑して・・・、火あぶりなんてこの時代にやることじゃないと思うけど、女王にそんなことは言えないし。

たまたま、わが一族がカトリック信仰だったから、メアリー女王のカトリック政治に合って、あの時はよかったが、はっきりいってメアリー女王は人々を処刑しすぎだよ。ヘンリー王(ヘンリー8世)もなにかといえば、すぐに斬首して・・・野蛮な処刑はもうやめにしてほしいよ。神が望んでおられることとは、とても思えない。

ノーザンプトン(伯爵)はジェーン(・グレイ)を担ぎ出して、全くあのときは、信じられなかった。ジェーンを女王にしようなんて、どう考えても無理があるし、第一ジェーンも気の毒だった。しかし、ジェーンも若いのに頑固でカトリックへ改宗さえすれば、生き延びられたものを・・・あの若さで斬首とは、神も哀れに思っていることだろう。

でも、ジェーンには気の毒だが、あの事件は、私には追い風だったことは間違いない。

私が、140の騎馬兵を連れて、メアリー女王をお守りしてフラムリンガム城まで安全にお連れできたことは、本当によかった。情緒不安定気味で怒りっぽい女王も、あの時ばかりは、ヘンリー、よく送り届けてくれました、と冷静に褒めてくれて・・・あんなことを言われると、ほろりときて、よし、頑張ってこの女王に誠心誠意お仕えしようという気になるじゃないか。

そのあと、タワーロンドンの長官にまで昇進して、宮廷でも一目をおかれるようになって。

あの頃の私は、まさに“女王の側近”だったなあ。オクスバラに帰ることもあまりなくて、いつ呼び出されても応じられるようにホワイトホールやハンプトンコートに自分の部屋もあったし。

・・・それが、エリザベスが女王になってから、このざまだ・・・・、エリザベスを幽閉していたときに確かに私は見張り役だった。でも、それは役職だったからであって、私の意思でそうしたわけじゃない。それに、エリザベスを気の毒だと私も思い、年が近い友人を呼びよせてやったり、本を手配してやったり、軟禁とはいえ、できるだけ好きなように過ごせるようにしてやった。それなのに、エリザベスは私から地位をうばって、宮廷から追放して、なにも宮廷から追放しなくても・・・。カトリックでも宮廷でポジションもらっている人だっているじゃないか。カトリックは禁止という方針を打ち出しているわけでもないし。なぜ私ばかり、こんな目に・・・。税金も他の人の2倍って、払えないよ。命があるだけ、感謝しなさいという雰囲気、エリザベスはだしているけど。だから、最近はずっとオクスバラだ。ホワイトホールが懐かしい、ロンドンが懐かしい。オクスバラは最近、雨漏りがひどい・・・しかし、修繕する予算がない・・・。

※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。

 

参考資料:「Oxburgh Hall」National Trust 「英国王室史話 上下」中央文庫