✴ハウスの概要✴
ヒストリックハウス名:Wimpole Hall(ウィンポールホール)
所在地域:イギリス、Cambridgeshire(ケンブリッジシャー)
広大なランドスケープガーデンに、シンメトリーで美麗な邸宅が佇む。17世紀初頭から6つの一族が次々に住み、それぞれの当主の館への情熱の跡が、其処ここに。
ウィンポールは、ロンドンとヨークを結ぶ古代の道のすぐそばに位置することから、ローマ時代にすでに重要な土地とみなされていました。
カンタベリー大司教であり、オックスフォード大学のオールソウルズカレッジを創立したヘンリー・チシェレーが1428年にこの土地の所有者となり、その後1635年にトーマス・チシェレーが館の建築を始めました。しかし、このころピューリタン革命がはじまり、王党派のトーマスはオックスフォードに移り、王を支援し、しばし館の建築は中断します。
チャールズ2世の王政復古によりトーマスのキャリアも花開き、王の側近として活躍します。1650年後半にウィンポールの館も完成していました。しかし、1686年にチシェリー家は財政難で、ウィンポールを売却せざるおえなくなり、トーマスのビジネスパートナーの一人だったジョン・カトラ―卿に売却します。カトラ―には息子がおらず、一人娘のエリザベスが相続します。エリザベスは、新王ウィリアム3世の側近の一人であった第2代ラドナー伯爵チャールズと結婚していました。この結婚にはジョンは反対していましたが、死の床で娘の結婚と相続に同意しました。
チャールズはウィンポールの開発に並々ならぬ意欲を持っており、家から見渡す限り、つまり20マイル(約32キロ)四方を風景庭園としました。同時代の人は、“20マイルも庭に必要か?”と皮肉をこめていっています。庭のみならず、家も野心的に増築し、西側にグレートオランジェリー(温室、現在は無い)を建て、東側に使用人棟を建てました。このような開発を行っているうちに、財政状況が悪化し、売却せざる負えなくなります。
1710年に初代ニューカースル公爵ジョン・ホールズが購入しますが、乗馬事故が原因で翌年に死亡し、一人娘のヘンリエッタ・キャベンディッシュが相続します。ヘンリエッタは1713年に初代オックスフォード伯ロバートの息子、エドワード・ハーレイ卿とウィンポールで結婚します。貴族同士の結婚でありながら、招待客は殆どおらず、飾りつけもない、地味な結婚式でした。オックスフォード伯ロバートは、アン女王の宮廷で権力を思いのままにふるっていましたが、それを快く思わない人たちが多くいて、アン女王が死の床につくとともに、ロバートは政敵たちに仕組まれて1714年に大反逆罪で逮捕され、タワーロンドンに収監されてしまいます。ウィンポールは、ロバートの権力によって華やかな館になるはずでしたが、この逮捕・収監で一転、政治や社交とは程遠い館となってしまったのでした。
エドワードは、ヘンリエッタと結婚する前から、ウィンポールを“学びの館”にしようと壮大な構想をもっていました。というのも、エドワードは熱心かつ本格的な本の収集家で、自分の本のコレクションの司書には、アングロサクソン研究者のハンフリー・ワンレーを採用していました。
建築家、ジェームズ・ギブスに壮大なライブラリーの増築を任せ、西側に5つの部屋がある本専用棟を建てます。1717年9月には本は、12,000冊になっていました。一方、エドワードはガーデンデザイナー、チャールズ・ブリッジマンにデザインを頼み、館の南側に大きく伸びるグレートサウスアベニューが造られます。チャペルも造られ、この時代にウィンポールの館は大きく変わりました。1724年には父ロバートが死亡し、エドワードが第二代オックスフォード伯となります。
1730年頃に増築や庭の開発は、ほぼ終わりましたが、同時に財政難に陥り、1739年11月4日に売却します。買主はホイッグ党の成功者の一人、ハードウィック男爵でした。5万冊になっていた本は1740年夏至までに契約によって、全て運び出され、その後、本のコレクションは1744年に夫人により、わずか13,000ポンドで売却されてしまいます。これらの本の一部は、後に、大英図書館のベースとなります。
ウィンポールには、1740年初代ハードウィック男爵フィリップの一家が入居します。その後155年間、5代にわたりハードウィック男爵の一族が住み続けます。第3代ハードウィック伯フィリップは、イタリアで建築家ジョン・ソーンと出会い、ウィンポールを華麗に変身させました。
第5代ハードウィック男爵チャーリーは、プリンス・オブ・ウェールズの取り巻きの一人でしたが、伝説になるほど競馬の勝負に弱く、ウィンポールを相続してからわずか15年で30万ポンドの巨額の負債を負い、ウィンポールを売却せざるおえなくなります。
1894年から第7代クリフデン子爵ジェラルド・エイガー・ロバーツの所有となり、1939年からはバンブリッジ夫妻が所有します。バンブリッジ大尉が亡くなってからは、未亡人バンブリッジ夫人が一人で、この広大な屋敷に使用人と共に1976年に亡くなるまで住んでいました。バンブリッジ夫人は、ラドヤード・キプリングの娘で、キプリングの残した死後の印税を含む資産は、ウィンポールに芸術品を呼び戻すのに役立ちました。夫人の死後は、現在ナショナル・トラストが運営管理しています。
建物の中は、ジョン・ソーンの傑作イエロードローイングルーム、ブックルーム、サルーンと上品で落ち着いた、しかしとても豪華な部屋が続きます。天井が見事な館内チャペルは、代々の所有者の魂の迫力を感じる部屋です。グランドフロア―のサルーンから臨む庭の風景は、素晴らしくこの部屋で朝から夕方まで、一日でいいから過ごしてみたいと思いました。アフタヌーンティーをしながら・・・。庭園は、牛や羊が放し飼いされているフィールドをぬけ、湖を渡って、丘をのぼるとゴシックフォリーが、寂しげに建っています。風景に趣を加えるためにわざわざ造られた“廃墟”なので、そこに侘しさなどは感じられず、うまく造ったなあ、という感じでした。大きな牛たちを刺激しないように、フィールドを抜けるのはちょっとスリリング。赤い服は着ないほうが良いかもしれません。
✴建築家ジョン・ソーンの独り言✴
ジョン・ソーンは、第3代ハードウィック伯爵フィリップのもとで、イエロードローイングルーム等を新設する改築を行った建築家。後にバンク・オブ・イングランドなどを建築し、高名に。
1790年8月頃のジョンの独り言(ジョン37歳)
ウィンポールは、このプランが出来上がるときには、国を代表する建築物になるはずだ。
フィリップが、私にウィンポールを任せてくれたことは、まさに神の恩恵といえる。
ウィンポールの時代遅れな、カビが生えるような空気感を、私のデザインは、全く違うものに変えるのだ。あの、ジメジメした、中世の暗い部屋の続きは・・・もう無くなるのだ。
中世のデザインなど、もう過去の遺物。
部屋には光が必要だ。そして風景を見渡せることだ。今のウィンポールにはそのどちらもがない。ドローイングルーム(居間)を、屋敷の真ん中に造ることで、ウィンポールはまさにそこに明るいローマを、感じられるようになるだろう。
フィリップと私がローマにいたころの、あの眩しい太陽の光。ローマのあの褐色の壁が放つ陽気・・・ヴィラ マダマ(ローマ郊外の館、ラファエロがデザイン)は素晴らしかった、あのようなデザインをウィンポールの館の中に再現したい。ドームだ、ドームが要だ。ドームを真ん中にしたドローイングルーム、そして光が拡がるように、両側に袖部屋をつけよう。そして、壁は光を増幅するイエローでなくてはならない。部屋は、イエロードローイングルームと名付けよう!壁の切替しにはアラベスク模様をあしらって、あの頃発掘されたローマ様式を、再現しよう。なんて、すばらしいアイデアだ!
ドームの内側には、植物のレリーフをつけて、よりローマらしくなるようにしよう。
ウィンポールの庭も、ぜひ私に任せてほしいものだ。ケイパビリティ(ブラウン)の庭はもう過去だ。ケイパが有能なビジネスマンだったことは・・・認める。巧みなセールストークで、あちこちにランドスケープガーデンを造って・・・ランドスケープガーデンほど、造りやすい庭はないし、ここイングランドの地形にもあう。しかしだぞ、“ストーリー”という要素がランドスケープガーデンには無い。粗野な庭の時代は、もう終わりだ!私は庭にも新時代を呼び込みたい!
小さな造りの洗練されたファームハウスを並べて、まるでそこに村があるようにして、そこにはフィリップ達が、お茶を飲めるようなティーハウスを造ろう。そう、ヘメル(フィリップがウィンポールを相続前に住んでいた家)のストロベリーハウスのように。ハウスの中は、まるで農家にいるような気持ちになれるよう、木材のみで装飾しよう。そして、窓を開けると、ハウスが遠くから臨める角度に窓はつけよう。そこに、ハウスを遠くから眺めて、違う感情を持つ・・・というストーリーが生まれるのだ!
ああ!素晴らしい!
アイデアは次から次へとでてくる。ウィンポールは私に、私の才能を形にする、またとない機会を与えてくれている。
※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。
参考資料:「Wimpole Hall」National Trust