✴ハウスの概要✴
ヒストリックハウス名:Knebworth(ネブワース)
所在地域:イギリス、Hertfordshire(ハートフォードシャー)
エドワード証誓王(ウィリアム一世イングランド征服前のサクソンの王)は、ネブワースを戦士アスチルに与えますが、その後ウィリアム一世が没収し、彼の閣僚であるユード・フィッツジェラルドに与えます。ネブワースは、1085年のドームズデイブックでは、丘の上の村を意味する“シェネプワード”と記載されていました。その後、所有者が多数変わり、ヘンリー6世の財務官であつた、ジョン・ホフト卿の所有となり、ジョンの娘のアグネスがロバート・ド・リットンと結婚し、リットン家とネブワースの歴史が始まります。
1490年2月17日にアグネスとロバートの孫のロバート・リットン卿が、義理の兄から
800ポンドでネブワースを買い取りました。ロバートはヘンリー7世と共に、ボスワースの戦いで戦った忠臣で、宮廷で王室財務官を務めていました。
1500年頃、ロバートはゲートハウスと、中庭を囲む四角形の館を建てます。この館をベースに、各世代の当主は、それぞれの好みに応じて、装飾を加えたり、壊したり、また別の装飾を加えたりと、館を改修しますが、建物全体の印象を変えてしまうような改修は19世紀までありませんでした。1571年には、エリザベス一世が4日間、ここに滞在した記録があります。その貢献が報われ、その当時の当主ローランド卿は、女王の楽隊のキャプテンを務めています。
18世紀には、“豪奢でおもてなしにあふれ、お手本のようなカントリーハウス”とある著作家は、ネブワースを表現しています。
1813年にエリザベス・ブルワー・リットン夫人は、館は“古めかしく、大きすぎる”として、中世からのゲートハウスを含む4角形の3方向を壊しました。そして残った建物を拡張し、レンガの上に白漆喰を重ねた外観としました。エリザベスの息子で、有名な小説家であるエドワード・ブルワー・リットンが1843年に相続し、さらにドーム、尖塔、ガーゴイル、ステンドグラスを付け加え、館の現在の姿になりました。(白漆喰は現在では取り去られています)
エドワードは、その当時、英国で最も著名な作家で、代表作には、「ポンペイ最後の日」があります。また、「リシュリューあるいは謀略」の中の表現、「ペンは剣より強し」は、日本でもよく知られています。妻のロジーナとは、恋愛結婚ですが、のちにこの結婚は崩壊、惨憺たる状況となります。この後の「ロジーナの独り言」をご一読ください。
1881年に、エドワードの息子、ロバート、初代リットン伯爵(インド総督、フランス大使などを務めたことで叙爵)が、建築家ジョン・リーに依頼し、建物に3つめの階を付け足しました。第二代伯爵ビクターと妻パメラは、これまでのゴシック様式はものものしく、古めかしい、として、建築家エドウィン・ルトインのもと、1908年頃からさらなる改修がなされました。ビクターは女性の権利活動家であり、インド総督も務めた政治家でした。満州事変のリットン調査団の団長を務めたことで、日本でも知られています。
しかし、1940年頃には、二度の世界大戦、大恐慌、そして重税、ビクターの二人の息子の若年での死により、リットン家によるハウスの維持は財政的に難しい状況となっていました。
ビクターの娘、ハーマイオニーと夫キャメロン・キム・コブホルドは、1950年、館の南端に入居し、夏の週末に館を公開することを決めました。公開のために、館の中のいろいろなものを売却し、急ぎ改修工事がなされました。しかし、長期的に館を保持していくためには、もっと大規模な改修であることが必要であることがわかり、1960年の中盤に、キムとハーマイオニーは、、財団等による運営を必要と感じ始めます。
ビクターの時代に、すでにナショナル・トラストに運営について相談しましたが、館の状態がよくない、という理由で断られていました。
ウーバン、ロングリートなどのように、カントリーハウスのレジャーランド化を成功させた前例に倣い、次の世代のデビッド・リットン・コボルは妻チェルシーとともに、ハイウェイ沿いに新たなエントランスを造り、8,000人だった入場者を12万人まで一気に増加させます。また、ロックコンサートの会場として、パークを提供することにより、大成功をおさめます。
1984年には非営利団体ネブワース教育保存財団を設立し、こののち、財団がハウスを所有することとなりました。2000年からは二人の息子、ヘンリー・リットン・コボルドが財団によりハウスを運営しています。
ネブワースを訪れた日は、3月のシーズンオープン初日でした。(冬の間は閉館)といってもまだ冬の終わりの頃。ハウスは、ツアーによる見学のみで、ツアーの開始時間より少し前に行くと、まだ私一人。ハウスに入ってすぐのベンチで待っていると、スタッフの方が、「まだ寒いわね、ここはすき間風がひどいから」といって、多分中世からそのままの、木の大きな入口のドアを指さしました。ドアと床の間には、5センチほどもすき間が。長い間に、木が摩耗してしまったのか、縮んでしまったのか。そして、でも「こんなものがあるのよ」といって、おそらくすき間をふさぐために作られたクッションを置きました。そして、また「冬の間は、あちこちすきま風で、ひどく寒いのよ~」とスタッフの方がおしえてくれました。この館の中に、ファミリーはお住まいだそうですが、電力には限りがあるので、随分と寒いとのこと。
ネブワースは、館内は撮影禁止。武器をたくさん見せつける大階段、おどろおどろしい雰囲気のエドワードの書斎、夫人の性格まで伝わってきそうなブルワー夫人(1813年から当主)のゴールドと白で豪華ながら上品に仕上げられたベッドルームなど、インパクトのある部屋があり、写真を撮れないのが残念でした。
中世の趣や装飾がそのままの、北に面した暗くて寒いステート・ドローイングルームは、石造りの建物の中、日光が入る大きな窓もなく、虎の頭つきの敷物や、立派な紋章の彫刻で埋め尽くされた天井と暖炉、代々の当主や家族たちの暗い色調の肖像画が無数にかかる壁・・・など数百年のリットン家の栄光と尊厳が感じられる、このハウスを代表する部屋でした。
そしてツアー中に感じる館全体のその「寒さ」といったら・・・、ここで、私は「寒さ」にも種類があるのではないかと思ったのです。そこにあるのは、「中世の寒さ」。ネブワースの館の中の空気は、石壁によって外部から閉ざされ、電気やガスの暖房によって決して温められることがない空気、その寒さで、私はまるで自分が中世に来ている心持になったのでした。
✴ロジーナの独り言✴
ロジーナ・ブルワー・リットンは作家、女性権利運動家。
ネブワースの当主(1843~1873)で著名な作家及び政治家のエドワード・ブルワー・リットンの妻。
(1835年頃の独り言、ロジーナ40歳)
お義母さんの趣味の悪いことといったら、このうえないわね。ベッドの天蓋をゴールドのシルクで覆うなんて、前時代の成り上がりが好むテイスト。いつまでも、中世の貴族趣味から抜けられない人が多いと、この国もいつか革命が起きるのではないかしら。そのお義母さんのいいなりになっているエド(エドワード)、あんな情けない男だとは、結婚前にはわからなかったわ。結婚前は、まるで詩人で・・・私を月の神のディアナにたとえた詩が送られてきたときには、心から幸せを感じたものだわ。まあ、いまでもエドは小説を、書いているけど・・・結婚前に作ってくれた詩を読み返すと、あの頃は、いったい何だったのかしらと、自分でも理解できないわ。
自分勝手で、独善的。小説を書くことと、ロンドンにいって他の政治家とおしゃべりすること、お義母さんの機嫌をとることしか、考えていなくて、私や子供たちの幸せなんて、まったく頭にないエド。
それに、あの書斎の気味の悪さったら・・・ガイコツなんて、置いて・・・あの長いパイプも妙よ。
あんな1メートルもあるパイプでタバコを吸うなんて、自分は、なにか特別だと思っている証拠だわ。自分は特別だということを、自分で確認したいのね・・・でなきゃ、あんな馬鹿みたいなパイプ吸う必要ないもの。見るたびに腹が立つわ。
この無用に大きな、石棺みたいな家に住んで、ネブワースがなんだっていうのよ、ここにくる客達ったら、男性ばかりが偉そうにして、女性を大切にするふりして、政治の話をしようとすると、あからさまに嫌な顔して、まるで女性の意見には、価値が無いって、言わんばかり。
・・・この家のご自慢のドローイングルーム、寒くて入れやしない。先祖代々の肖像画や、遠縁がテューダーにいたからって、天井にバラの模様とかあって、あの部屋、いかにも“立派”ってしつらえてあるけど、だからどうだっていうのかしら、だだっ広い部屋に、暖炉が一つしかないものだから、結局寒いからって、だれも入らないし、お客様も、あの部屋に案内されたら体調壊すからって、入るのを嫌がるようになってしまって。エリザベス一世が来たっていうけど、250年くらい前の話しよね。
女性に意見を言わせない、女性を社会に参加させない、そんな今の世の中は、絶対に間違っているわ。そしてその間違いの最大の根源が、アッパークラスの男たちよ。
この問題を、私が、はっきり書いて、出版するわ。そして、女性に気付かせるの。なにが、間違っているかを。知らないから、間違った社会であることが、わからないのよ。知れば、皆、行動にでるはずよ。そうよ、まずは、行動が大切よ。行動あるのみ。石を投げることを
もっとあちこちで、やるべきだわ。
金色のカーテンをベッドにかけて喜んでいる前時代の遺物のお義母さんや、自分のことしか頭にないエドのような大航海時代の生き残りのような奴らも、気づくべきだわ、今のこんな社会は間違っていると。
~独り言のその後~
エドワードとロジーナは1836年に離婚、1839年にロジーナは小説「Cheveley 」を出版。ネブワースを「Grimstone」という名前で描写し、小説内で夫を非難、この小説はベストセラーとなります。後にエドワードの政治集会で、夫を罵倒する、エドワードの小説が演劇になりヴィクトリア女王が臨席しているときに、女王にオレンジを投げるなどして、過激な行動をとったため、一時、精神病院に収監されますが、すぐに釈放。生涯、女性の権利を主張する運動家として活動します。しかしリットン家では忌み嫌われ、エドワードは、ウェストミンスター寺院に埋葬される一方、ロジーナは無名墓地に埋葬されます。しかし、時が経ち、1995年に玄孫により墓碑が建てられ、時代を代表する意見をもった女性として肖像画もネブワースに飾られるようになりました。
※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。
参考資料:「Knebworth House」 Knebworth House