✴ハウスの概要✴
ヒストリックハウス名:Belton House(ベルトンハウス)
所在地域:イギリス、リンカーンシャー
美麗な外観、内装の美しさ、ガーデンの端正さから「パーフェクトカントリーハウス」と呼ばれたこともあるハウス。
初代リチャード・ブラウンローは宮廷で大法官の職を務め、年収6,000ポンド(現在の1,800万ポンド)という高収入を得ていました。リチャードは得た収入でリンカーンシャーの土地をどんどん購入し、実に収入の三分の二を土地購入に充てたといわれます。リチャードは短気で怒りっぽい性格だったため、土地の売り主ともめごとになることも多く、地元ではあまり評判のよい人物ではなかったようです。1609年にリチャードは4,000ポンド(現在の約1,140万ポンド)でベルトンの土地を購入しました。
リチャードの長男は若年で死亡したため、次男のアンソニーがベルトンを継承しますが、のちにアンソニーからジョンに名前を変えます。のちに継承した甥のジョンがヤング・ジョン, アンソニーはオールド・ジョンと呼ばれるようになります。ヤング・ジョンは、建築デザイナーのウィリアム・ウィンデ、マスターメイソン(建築家)のウィリアム・スタントンに頼んでベルトンを建設します。スタントンは彫刻家でしたが、オールド・ジョンが頼んだ彫刻作品の出来がよかったことから、家の建設を頼むまでになったようです。
スタントンは、その当時ロンドンで最も洗練されているとされたロジャー・プラットが手がけたクラレンドンハウスから強く影響を受けてベルトンを建築し、そのスタイルはそっくりでしたが、お手本となったクラレンドンハウスは17年間しか存在せず取り壊されてしまいました。
1684年初頭にベルトンの建設が始まり、マーブルホールなど4つの部屋を中心として、左右対称で造られました。ヤング・ジョンと妻のレディ・ブラウンローは室内装飾・内装にもこだわり、そのこだわりは、グリーンダマスク・ドローイングルーム、ホワイトギルドクローゼット、スコッチプラッド・ルームといった部屋の名前にも反映されています。
ウィリアム3世はベルトンを訪れ、上機嫌で大量に飲んで食べて過ごしたという記録があります。ベルトンの館を建てたヤング・ジョンは、美麗なカントリーハウスを建て、ガーデンを造り、パークランド(人工的に整えた自然のように見える広い敷地)を造り、地域の行政に関わり、下院議員になり、王をベルトンに迎えてもてなした、ということで典型的なカントリージェントルマンがやることは全てやったといわれますが、狩猟のアクシデントで39歳の若さで亡くなります。
ベルトンは弟のウィリアムに相続されますが4年後に死亡、ウィリアムの長男ジョンが1702年に相続します。ジョンは、ヤング・ジョンの娘、エレノアと結婚していました。その後、ジョンの年長の甥、ジョン・カストに相続されますが、ジョンはロンドンの政界で下院議員としてとても活躍しますが、ジョージ3世時代の激動の政府の仕事に追われ、激務で疲れ果て、1770年に51歳でなくなります。彼の墓には、尋常ではない仕事の疲れにより死亡と書かれているそうです。今の言葉でいうと過労死となるかもしれません。そのような忙しさだったため、ジョン・カストはベルトンには何の足跡も残さないまま、息子のブラウンロー・カストに相続されます。
ブラウンローは、ジョン・カストが当主だった間に、傷んでしまった館を改修し、その当時、引く手あまたの人気デザイナー、ジェームス・ワットに装飾を依頼し館の外観を大胆に変えます。キューポラ、手すりを屋根から外し、屋根をウェストモーランドのスレート葺きにし、窓の形も変えました。
ブラウンローの息子、ジョン・カストは初代伯爵となり、イタリアンガーデンにオランジェリー(温室)を造り、醸造所や鍛冶場を造りました。伯爵の死後、ベルトンは11歳の孫息子ジョン・ウィリアム・カストに相続されますが、相続人がいないまま25歳で死亡したため、弟のアデルバートに相続されます。第3代伯爵アデルバートは、“アディ―”と呼ばれ、海外での経験豊富で、背が高くハンサムな軍人でした。アディーはベルトンをヤング・ジョンの時代のデザインに戻すことにこだわり、ジェームス・ワットが行った改修を元へ戻す改修を行います。
アディ―から相続したのは、年下の従弟のアデルバート・シュールズベリー・クッケン・クラスト、相続することを全く予想していなかったアデルバートは、ベルトンを“晴天の霹靂”という感じで、54歳で驚きの相続をします。わずか6年後死亡し、息子のベルグリン・アルバート・クラストが1927年に相続します。
ペルグリンは皇太子エドワードの親友の1人で、皇太子エドワードは、何度もベルトンを訪れて楽しい時間を過ごしました。しかし、エドワードの恋人であり後に夫人になるシンプソン夫人がベルトンを訪れたという記録はないようです。ペルグリンは、皇太子とシンプソン夫人の結婚や退位に深く関わったとされ、ジョージ6世即位のあとは、王室への出入り禁止扱いとなってしまいます。詳しくは、後述の“ペルグリンの独り言”をご一読ください。
ペルグリンは、1978年に死亡、その6年後に息子エドワードがベルトンをナショナル・トラストに譲渡しました。
ベルトンを訪れた時、「美意識にあふれた館」という表現が自然に浮かびました。室内装飾、とくに天井やコーニスに石膏で細やかな装飾細工が見事にされていて、その装飾を一つ一つじっくりみていたら、時間がいくらあっても足りないくらいです。木を細かく彫刻した花綱飾り(おそらくギボンによる作品、現時点では作者不明とのこと)が、肖像画の周りを飾っているなど、他のハウスでは見られないような凝った装飾が見られます。ハウスの部屋はどれも見応えたっぷり。ああ、この窓から、エドワード(8世)は景色を見たのかな~などと思いながら各部屋を、ゆったり見ていくのがおすすめです。
訪れた9月は、花々が美しく、オランジュリー(温室)の前に広がるイタリアンガーデンの花壇の眺めは、ひとつの芸術品といってもよいものでした。ハウスの中の凝った装飾を見たあとに、青空のもと花々が咲き乱れるガーデンを歩くと、美しいものに囲まれている満足感で全身が満たされたような気分になりました。
✴ペルグリンの独り言✴
ペルグリン・アルバート・クラストは第6代男爵でベルトンの当主。皇太子エドワードの側近で親友の1人。皇太子エドワードは、後のエドワード8世。エドワード8世は1936年1月20日に即位するもシンプソン夫人と結婚するため戴冠をせずに同年12月11日に退位し、翌年ウィンザー公爵となり5月4日にシンプソン夫人と結婚。
(1937年6月頃の独り言、ペルグリン37歳)
私は、エドワード(8世)とシンプソン夫人の恋愛をとりもとうとしたことは、一度もない。
それどころか、エドワードのシンプソン夫人への気持ちをさますよう、手をつくしたのだ。だから、退位騒動がはじまったとき、これはよくない、まず二人に物理的距離を置くのが一番だと思って、シンプソン夫人をカンヌに連れて行ったのだ。それなのに・・・エリザベス(ジョージ6世の妻)といったら、まるで私が、シンプソン夫人をかくまって、エドワードとの仲を取り持っているような妄想にとらわれて。そんなわけないじゃないか!
私だって、エドワードには王室がハッピーになるような相手と結婚して、国民に文句をいわれない王として在位してほしかった。エドワードの幸せのためにも、私自身のためにも。
エドワードが皇太子のころはよかった・・・エドワードがベルトンに来ると心から開放感を感じて、楽しんでいるのがよくわかって・・・よくイタリアンガーデンを一緒に散歩したものだ。フィッシングロッジは、エドワードが気に入っていて、何をするでもなく、ロッジで
池を眺めて、とりとめもない話をよくしたものだ・・・。
エドワードが王になってからは・・・親友からの流れで、私は侍従になり・・・バッキンガム宮殿にいつもいなければいけなくなった・・・特に望んだわけではないのに・・・親友とはいえ、相手は王・・・気を使ってばかりだったな・・・
シンプソン夫人が毎日のように訪問してきては、私に、あれこれ上から目線で指示されて、あれはいやだったな・・・
しかし、シンプソン夫人がどういう女性であれ、問題はエドワード。なぜ、生まれ持った責任を放棄するのか、そんな無責任な人間の在り方が、全く理解できない。全ての問題は、彼の意識の低さ、インテグリティの無さにつきる。育った環境に難があったのかもしれないが、視野があまりにも狭すぎる。
ほとほとエドワードの自分勝手に嫌気がさして、先月のエドワードとシンプソン夫人の結婚式にはとても出る気にならなかった。イギリスでの自分のこれからを考えてというよりも、エドワードに嫌気がさしたのだ。そしたら、エドワードとシンプソン夫人は私のことを、裏切り者のように言って縁を切るだと・・・冗談じゃない。裏切ったのではなくて、これ以上、馬鹿げたやつらに付き合えないからだ。
・・・エリザベスとバーティ(ジョージ6世)は、予告もなく、私を王室出入り禁止にして、全く噴飯ものだ。王室のために、私は動いてやったのに・・・それが、こんな結果になってしまい、怒りというより、自分に悲哀を感じる・・・
王室とも、政治とも縁が切れて、もう、ロンドンに行く用事も仕事もなくなった。これからはベルトンでひっそりと暮らすことになるな。ベルトンの運営も、赤字になる一方で・・・頭が痛い。
※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。
参考資料:「Belton House」Belton House、「イングランドのお屋敷」マール社