✴ハウスの概要✴
ヒストリックハウス名:Woolsthorpe Manor(ウールソープマナー)
所在地域:イギリス、リンカーンシャー
アイザック・ニュートンが生まれ、さまざまな実験を行った家です。この家の庭でリンゴが落ちるのをみて、重力の考え方のヒントを得ました。
ニュートンの祖父ロバート・ニュートンは、牧羊業で成功し、1623年にウールソープの家を購入しました。この家には、“領主”という社会的タイトルが付随していて、家を購入すると同時にその社会的タイトルも持ち主のものになりました。この家を購入することにより、ロバートは社会的タイトルも同時に得ることができました。ロバートは生まれた息子にアイザックと名付けました。アイザックは、1642年にジェントリーの娘、ハンナ・アシュコフと結婚し、さらにニュートン家の社会的地位は安定したものとなりました。
しかし、アイザックは6か月後に、妊娠中のハンナを残し死亡、その年1642年のクリスマスの日に、アイザック・ニュートンが生まれましたが、とても小さな未熟児でした。あまりに小さいので、クォートポットにすっぽり入ってしまうくらいだった、といわれ、誰もニュートンが成長できるとは思いませんでした。(クォートは約1.13リットル)
皆の予想に反して、ニュートンは順調に成長していきました。ニュートンが3歳のとき、母ハンナは牧師と再婚し、ニュートンとハンナの母をウールソープに残し、嫁ぎ先のノースウィットハムへ行ってしまいます。現代では、残酷に思えますが、ニュートンがウールソープに住み続けることにより、“領主”の地位を保ち続けることができるので、その当時としては、ごく普通の判断でした。
子供時代のニュートンについては、後述“アイザックの独り言”をご一読ください。
ハンナの再婚相手は、ニュートンが11歳のときに死亡し、母と3人の異父兄弟がウールソープに戻ってきます。この頃から、ニュートンはウールソープを離れ、グランサムのキングス・スクールで寄宿します。母、ハンナはニュートンを家に呼び戻そうとしますが、ニュートンは18歳までキングス・スクールで学びました。
18歳になり、ニュートンは1661年6月5日ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへの入学を許可されます。1663年頃までニュートンは数学を探求していましたが、偶発的なアプローチがまとまった結果につながらず、学位を得ることに苦労していましたが、1665年の春、やっとのことで学位を得ます。
しかし、この頃、死の病ペストが大流行し、ロンドンで7万人の死者をだします。ケンブリッジ大学もしばらく閉鎖となり、ニュートンは、ウールソープに戻ります。1665年から1666年の間、ニュートンは、ウールソープで数学の流率法の理論を確立、またプリズムの実験をし、ニュートン力学の3つの法則、重力を研究しています。
ウールソープの果樹園にある、リンゴの木から、リンゴがポトリと落ちるのをみて、
重力の考え方のヒントを得ました。
のちに、ニュートンは、ウールソープで過ごした頃が、最も充実して科学を探求できた期間だったと回顧しています。
1667年にニュートンはケンブリッジに戻り、修士の学位を授与され、その後トリニティ・カレッジのフェローに選ばれ、その2年後に数学の教授に抜擢されます。その後、反射式望遠鏡の発明が認められ、1672年にロイヤル・ソサエティのメンバーに選ばれます。
1679年にニュートンは、病気の母を看病するためにウールソープに戻り、母を看取ります。
この頃、ニュートンは、数学者ライプニッツや科学者ロバート・フックと長年に渡る学術的ではあるが、辛辣で激しい論争に嫌気がさし、社交を嫌う孤立した存在となっていきました。
しかし天文学者エドマンド・ハーレーの勧めで、これまでの実験や研究をまとめた「プリンシピア」を出版すると、彼は時代を代表する偉大な科学者として、広く認められるようになりました。ニュートンは名声が上がるにつれ、ロンドンで過ごす時間が多くなり、ロンドンへ引っ越します。偉大な科学者として認められてからは、ロイヤルミント(造幣局)の総責任者、1703年にはロイヤル・ソサエティの総裁となり、この地位は終身のものとされました。1704年に2冊目の「オプティクス」を出版すると、アン女王よりナイトの称号を受け、1727年3月20日84歳で没後、偉人としてウェストミンスターアベイに埋葬されました。
皆が大きく成長できると思わなかった未熟児の赤ちゃんは、立派に成功し長寿を全うしたのです。
ニュートンは結婚もせず、子供もいなかったため、死後、ウールソープは、アイザックの叔父ロバートの玄孫のジョン・ニュートンが相続しました。しかし、ジョンは浪費家で相続した資産をすぐに使い果たし、ニュートンの死後わずか6年後に、ウールソープをトーマス・アルコックに売却。間もなく、アルコックはエドマント・ターナーへ売却。ターナーの賃借人の農夫ウーラートンファミリーがこの後、200年ほど住み続けました。1942年にロイヤル・ソサエティがピルグリム・トラストの協力のもとターナーより買取り、ロイヤル・ソサエティは、イギリスの偉大な科学者の足跡が恒久的に保存されるように、ナショナル・トラストに寄贈しました。
✴ダリアの訪問✴
ニュートンが重力の発想を得たというリンゴの木の子孫の木が、果樹園にあり、リンゴをたくさん実らせていました。
以前、イギリスのコテージで休暇を過ごしていたとき、庭にリンゴの木があり、ポトリ、ポトリとリンゴが音をたてて、草の上に落ちるのをみて、「ニュートンが見た光景・・・」と思ったことを思い出しました。リンゴの木は低木で、リンゴが落ちるまさにその瞬間がわかりやすいというか・・・そしてリンゴは、次々におちるので、ずっと落ちるのを見ていられるというか・・・まさにその木の子孫がここに育っているのです。
ウールソープの家は、本当に素朴で、質素な家。狭い階段など、夜、暗いときはとても危険そう・・・。ニュートンがプリズムの実験をした2階の部屋は、実験当時のように窓が再現されています。素朴ながらも、温かな雰囲気が漂っていて・・・きっと階段の下から、
「アイザック!ごはんができているわよ~」などと、お母さんがニュートンに声をかけていたことでしょう。
家は質素ですが、土地はなかなか広く、厩や別棟が立ち並びます。“領主”タイトルがついていた家だけのことはあります。
別棟では、ニュートンが確立した理論を実験する子供向けのワークショップが行われていました。ニュートンの家で、ニュートンの理論を実験するなんて、心躍ります。
偉大な科学者になる前のニュートンが、この素朴な家で、実験を繰り返し、思想を深めていた、その当時に静かに思いを寄せることができる、そんな小雨の日の訪問でした。
✴アイザックの独り言✴
(1653年3月の独り言、アイザック10歳、ウールソープにて)
なぜ、影ができるのだろう?太陽がでると、明るい部分と暗い部分ができる。すべて明るくならないのはなぜだろうか。暗い部分ができるから、日時計をつくれる。日時計がつくる影は、太陽が時間とともに位置が変わると、変わるから。でも、不思議だ・・・・
いまは、羊の出産の時期で、子羊が産まれ続けるので、忙しくてたまらない。子羊が産まれると、からだをきれいにしてやるのが、僕の仕事になっているけれど、正直いって、こんな仕事はやりたくない、ほかにもっとやりたいことがある。
製粉機の模型がまだ作りかけで、風の力で動かせるのがもう少しで、できるのに・・・羊の出産ばかりで、いやになっちゃうよ・・・水時計だって、もっと正確なのを創りたいのだけれど・・・
模型をつくるのは、楽しいな。どんどん工夫して、模型が思ったように動くと、わくわくする。羊の世話なんて、ぼくは好きじゃない。水や風の力で、ミルを早く回せるようにするほうが、ずっとおもしろい。
光や陰の変化を観察していると時間を忘れる・・・それでよく、おばあちゃんには怒られちゃうんだ・・・でも、光には、なんかすごい秘密が隠されているような気がする・・・
※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。
参考資料:「Woolsthorpe Manor」 National Trust