✴ハウスの概要✴

ヒストリックハウス名:Kedleston Hall(ケドルストンホール)

所在地域:イギリス、ダービーシャー

ローマ風の壮麗なマーブルホールに驚かされる、カーゾン一族の館

カーゾン一族の祖先は、ウィリアム征服王がイギリスにやってきた頃に、同じくノルマンディーからやってきて、1150年頃からケドルストンを拠点にし、16世紀半ばからは、地域代表の議員となり、影響力を増しました。

カーゾン一族は1641年に男爵となりましたが、小規模な館で代々暮らしていました。1719年に第2代男爵ジョンが建て替えを考え、ジョン・ギブスに相談し、1726年にすばらしいプランが造られましたが、ジョンが翌年、落馬事故で死亡してしまったため、プランが実行されることはありませんでした。第4代伯爵は、12,000ポンドという高額の年収があったのにもかかわらず、古く小さな先祖代々の家で暮らすのに満足していました。

第5代男爵ナサニエルは、父親と違い、館の新築に、並々ならぬ野心をもっていました。彼は、ジョージ3世を忠実にサポートし、政治面でも活躍したので、スカースデール卿という新しい爵位を手にいれました。ナサニエルは、相続前から庭に手をいれ、絵画を収集し、理想の館を建てる準備を着々と進めていました。1758年に父親が81歳で死亡すると、早速、館の新築にとりかかります。

ナサニエルが理想としたのは、初代レスター伯が建てたノーフォークのホーカムホールでした。ホーカムの建築家ブレティンガムは、ホーカムとよく似たパラディオ風の中央棟から4つのウィングがカーブした廊下で繋がる建物をデザインします。

しかし、建築半ばで、ナサニエルは、スコットランドの建築家で、“ローマのボブ”とあだ名をつけられたロバート・アダムを紹介されます。アダムは、パラディオ様式からさらにイタリアの古典を追求した様式を得意としていて、ナサニエルの趣向にぴったりだったのです。アダムは、ブレティンガムの設計を基本に、北正面と南正面に劇的なポーティコを付け加え、館をさらにローマ古典風に仕上げました。南正面の4本の円柱を配した造りは、ローマのコンスタンティン帝の凱旋門と酷似しています。

ナサニエルの長男、第2代スカースデール卿が1804年に相続するも、賭博の借金で資産の多くを失います。息子の第3代ナサニエルが1837年に相続しますが、彼は結婚しなかったので、牧師をしていた異母弟のアルフレッドの次男アルフレッドが、図らずも第4代スカースデール卿になりました。アルフレッドは、倹約家で館や生活に、お金をかけることを嫌い、息子の嫁は、彼のことを日記に「13世紀の遺物」と表現し「荒廃していく部屋の数々を、満足気にながめている」と書いています。

しかし、アルフレッドは倹約と領地運営の見直しで、負債で大変だったカーゾン家の経済を立て直し、息子への相続のときには富裕な領地として受け渡したことから、カーゾン一族の中で、尊敬される存在となりました。

息子のジョージ・カーゾンは、ケドルストンで育ち、カルカッタのイギリス政府の建物がケドルストンに似せて建てられたことを少年の頃に知り、インド総督を目指します。イートン校、オックスフォードのベイリャル・カレッジで学んだ後、極東の国々を旅し、東洋の国々について執筆するなどして認められ、1898年39歳の若さでインド総督に任命されます。エドワード7世のインド皇帝即位を祝うデリー・ダーバー(インドにおける即位式)は、彼の統治期間に行われ、カーゾンが隅々まで指示命令し、華燭の典となりました。しかし、残念ながらエドワード7世は出席せず、弟のコノート公が代理出席しています。

カーゾンは、インド軍編成について、キッチナー卿と意見が合わず1905年にインド総督を退任しました。このあと、首相を目指しますが、スタンリー・ボールドウィンの就任により、その夢は破れます。しかしカーゾンは、国への貢献を認められ、侯爵の位を与えられました。

カーゾンは、インドにおいてもタージマハルをはじめとした歴史的建築物の改修保存に尽力し、イギリスにおいてもリンカーンシャーのタッターソール城、サセックスのボディアム城を私費で購入し、後年、ナショナルトラストへ遺贈しています。

1916年57歳のときに父親の死亡により、ついにケドルストンを相続します。彼は内装を修繕し、電気を全館に引き、15のバスルームを新設しました。カーゾンには息子がいなかったので、甥のリチャードが相続し1977年まで静かにケドルストンで暮らします。このリチャードの3女ジュリアとジョージ・スタンリー・スミスの次女が、現在日本で、京都大原に住みハーブの活動をしている、ベニシア・スタンリー・スミスさんです。

その後、リチャードの従弟のフランシスが相続し、ナショナルトラストへ寄贈、フランシスの息子は2000年に爵位を継ぎ、現在もケドルストンのファミリー棟に住み続けています。

✴ダリアの訪問✴

ケドルストンを訪れたのは、ダービーシャーらしい肌寒い小雨の日、パーキングから歩いていくと、ローマ神殿風のポーティコがある壮大な館が、威風堂々と緑の風景の中に、現れました。本来、お客様はパラディオ風の階段を上って、1階(日本の2階)にあるマーブルホールにまず入るのですが、現在のビジター順路は、グランドフロア―(日本の1階)の暗い入口から入り、1階(日本の2階)へと上がります。

1階へ上がり、マーブルホールに一歩踏み入れると、その豪華さに圧倒され、唖然とします。

なぜ・・・家の中にこんなホールが必要なのか・・・

この家は、建てられた当初から一般のビジターを受け入れて、収集した絵画や部屋の内装を

見せていました。カントリーハウスの目的は、富と財力、知力、センスの良さなどなどを

訪問客にこれでもかと、アピールすることだったそうですが、まさにマーブルホールは、その目的にかなっています。

メイン棟から、カーブを描く廊下でつないだウィングを4つ建てるはずでしたが、2つ建てたところで、財政的に頓挫してしまい、残りの2つのウィングは建てられずじまい、というのにも、豪華絢爛なメイン棟を見るうちに、妙に納得しました。

地下には、インドから持ち帰ったさまざまな物品がありますが、その中で、ひときわ目立っていたのが、1903年のデリー・ダーバーで、カーゾン夫人が着用した“ピーコックドレス”です。孔雀の羽があしらわれた豪華なドレスは、いまでも十分に美しく、170センチをこえる夫人はこのドレスを堂々と着こなされていたとのことです。

カーゾン一族の歴史のように、華やかだけれど、どこか、うら淋しい・・・そんな印象が残るケドルストンでした。

✴ジョージ・カーゾンの独り言✴

(1923年の独り言、カーゾン64歳、別邸モンタキュートにて)

最近は、“電話”というものを皆、有難がって使っているが、あんなもの無いほうがよい。

遠くから人を呼び出すなんて、無粋だ。用事があるのなら、手紙をきちんと書いたうえで、

相手を訪問して、顔を見て話をするべきだ。顔を見ないで、話をするなんて、失礼極まりない、ジェントルマンのすることではない。

建築には、様式美が大切なように、会話には礼儀が大切なのだ。それを、ないがしろにする電話なんてものは、全くあきれる。

それにしても、インドから帰ってきて、もう18年も経つ・・・まるで昨日のことのように

インドでの日々を思い出す。デリー・ダーバーは、私の人生の中で、もっとも華やかだった日だなあ、国王が来てくださらなかったのだけが、いまでも残念で仕方がないが・・・

あの、華やかな花火と、象のパレード、きらびやかな民族衣装での踊りの列・・・大成功といっていいだろう。

私は、オックスフォードの同級生たちに、いろいろバカにされたけれど、あいつらも、いまは私に一目をおいているに違いない。私のことをうたったこんなのもあったな・・・

私の名前はジョージ・ネサニアル・カーゾン

私は、最も優れた人間だ

私の頬はピンク色、私の髪はきまっている

週に1度は、ブレナムでディナーさ。

ふん、私があまりにパーフェクトなので、あいつら、こんなうたで、私をバカにしていたけど、私は、もうすぐ首相になるかもしれんからな・・・

国王だって、わかっているはずだ、この難しい時勢を取り仕切れるのは、私しかいないことを・・・

さきほど、使者がきて、明日バッキンガム宮殿に来いとのことだ。

明日、国王にお会いしたら、きっと首相に指名してくださるはずだ。そうすれば、私は、真に国のために尽くせる。偉大な帝国の首相として、国王と国民のために残りの人生を捧げるのだ!

(独り言、その後)

カーゾンは、国王の謁見で、首相への任命ではなく、侯爵位の叙爵を知らされました。カーゾンはケドルストンのカーゾン侯爵および伯爵、そしてスカースデール男爵となったのです。カーゾンがロンドンに着くと、首相にはスタンリー・ボールドウィンが任命された、と知らされたのでした。

※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。

参考資料:「Kedoleston Hall」 National Trust