✴ハウスの概要✴

ヒストリックハウス名:Castle Howard(カースル・ハワード)

所在地域:イギリス、ヨークシャー

イギリス筆頭公爵ノーフォーク公爵の分家カーライル伯爵家のハウス。劇作家ジョン・ヴァンブラが最初に手がけた壮麗で、なぜか東西ウィングがアンバランスなハウス。

 

 

ハワード一族は、リチャード三世を支援してノーフォーク公爵位を受け、ヘンリー8世の時代にスコットランド軍を撃退するなどの功績があり、王家の最側近として活躍していました。しかし、第4代公爵トマス・ハワードはメアリー・オブ・スコッツと結婚しようとしていた罪で、エリザベス女王により大逆罪で処刑されてしまいます。処刑されたトマスの3男のウィリアムの曾孫、チャールズ・ウィリアムは清教徒革命の際、最初は議会派でしたが、クロムウェルの死後、王党派に転じ投獄されたため、王政復古時にカーライル伯爵を叙爵されます。チャールズの孫、第3代伯爵チャールズ・ハワードがカースル・ハワードの建設を創めます。

 

第3代カーライル伯は、キット・キャッツクラブの交友仲間で劇作家として活躍していたジョン・ヴァンブラに白羽の矢をたて、ハウスのデザインと建築を依頼します。ヴァンブラは建築の経験が全くなかったのにかかわらず、カーライル伯の信頼を勝ち取り、以後彼が1726年に62歳で死ぬまで27年間、カースル・ハワードの建築を主導することになります。(後述、ヴァンブラの独り言をご一読ください。)

 

カーライル伯は、46歳で早々と政治活動から引退し、自らの時間と資金をカースル・ハワードにつぎ込みますが、途中から建物よりも風景庭園に関心が変わり、西ウィングの建設は未着手のまま頓挫。西ウィングが無いアンバランスな状態で、まずヴァンブラが1726年に62歳で死亡、そしてカーライル伯は1738年に69歳で死亡します。次の世代を嘆かせたのは、東ウィングと西ウィングを左右対称とするヴァンブラの案にカーライル伯が同意せず、東西のウィングを違うデザインで建てる、大方の人から見れば奇妙なプランを次世代に残したことです。

 

第4代伯爵ヘンリーは、妻に先立たれ、3人の息子たちが若くして全員死んでしまったことで伯爵家の継続の危機に立たされました。しかし1743年に詩人バイロンの大叔母であるイザベラ・バイロンと結婚し、男子相続人と4人の娘を得たことで、伯爵家は無事に引き継がれました。ヘンリーの時代、西ウィングは、義理の息子トーマス・ロビンソンのデザインで建て始められたものの、1階(日本の2階)は未完成でロングギャラリーの屋根は無く、グランドフロア―(日本の1階)の内装も着手されていませんでした。

 

第5代伯爵フレデリックは、父が54歳のときの子供であったことから、1748年まだ10歳の時に父が亡くなり、伯爵位を継ぎます。成人してからは、北米担当大臣など、政府の数々の要職を務めます。彼の時代に、チャールズ・タットハムにより1811年頃にロングギャラリーなどの内装が10年越しで仕上がり、カースル・ハワードは110年あまりをかけてようやく完成しました。

 

1825年にフレデリックは死亡し、息子のジョージが第6代伯爵になります。ジョージは1801年に有名な第5代デボンシャー公爵夫人ジョージアナ(参考映画:「ある公爵夫人の生涯」キーラ・ナイトレイ主演)の長女のジョージアナ・キャベンディッシュと結婚しました。二人は12人の子供を得て、この子供たちがそれぞれ、上位貴族たちと結婚し、ホイッグの縁戚を飛躍的に拡げました。トーリー党の政治家で、二度首相を務めたロバート・ピールは、「ホイッグのやつら、みんな従弟同士だ!」と苦々しく言っています。

 

このあと、第7代伯爵は長男のジョージ、第8代伯爵はその弟のジョージ・アンソニーが引き継ぎますが、二人には跡継ぎがおらず、甥のジョージが1920年に第9代伯爵となります。第9代カーライル伯ジョージは、カースル・ハワードに住む最後のカーライル伯爵となりました。ジョージは才能ある画家で、ウィリアム・モリスやエドワード・バーン・ジョーンズと交遊がありました。1865年に彼は、ロザリンド・スタンリーと結婚します。ロザリンドは才覚ある女性で、領地とハウスの管理を自ら行い、ジョージの芸術活動を全面的にサポートしますが、同時に禁酒運動家、女性権利運動家でもあり、のちにはアイルランドの自治法案を巡ってジョージと意見が対立し、一緒に過ごすことは少なくなりました。1921年のロザリンドの死後、カーライル伯位ともう一つの家ナワースは、長男のチャールズ・ジェームスが引き継ぎ、残りの資産は生きていた子供たちが引き継ぎました。カースル・ハワードは長女のメアリーが受け継ぎますが、メアリーから弟のジェフリー・ハワードに受け渡されます。

 

ジェフリーの死後、カースル・ハワードは信託によって管理されていましたが、息子のジョージ・ハワードが第二次世界大戦から負傷して戻ったときに、また住むことを決断します。

1940年にカースル・ハワードは火災がおき、ドームが焼け落ち、ロングギャラリーもひどい状態になっていましたが、ジョージの大改修によりハウスは息を吹き返し、1952年にハウスは一般公開されます。彼の死後、ハウスはファミリーメンバーによる信託団体によって運営され毎年20万人が訪れています。

 

 

 

✴ダリアの訪問✴

カースル・ハワードは、イギリスのカントリーハウスの中でも、同じくジョン・ヴァンブラによるブレナム・パレスと並んで最も壮麗といわれますが、ヨークシャーにあるので、気軽に行ける距離ではなく、ずっと訪れたいという思いが募っていました。

 

訪れたのは、ぬけるような青空の春の日。

ブレナム・パレスに似たつくりのエントランスエリアから、ハウスへと歩いていくと、

大規模なハウスの側面が現れ、ウェストウィングから中に入ります。

グレートホールのドームは、イギリスの個人の家では初めて導入されて、ヴァンブラの最も創意的な工夫のようです。壁からドームに向かって、色鮮やかに神話をモチーフにした絵が描かれていますが、その中でもドームにむかって展開していくギリシャ神話のパエトンのストーリーは、そこに立つと、自然にドームに注目させるように仕向けられており、劇作家だったヴァンブラの手法にさすが~と拍手を送りたくなりました。

 

私が好きなのは、ギリシャ風の彫刻が並ぶ“アンティーク・パサージュ”。似た雰囲気のパサージュ(廊下)が、ウィルトシャーのウィルトン・ハウスにもありましたが、カースル・ハワードの少し修道院風の抑えた造りは、歩く人の気持ちを落ち着けます。さらに次に現れるグレートホールの驚きをさらに盛り立てる役目もしているのでした。

 

「ブライヅヘッドふたたび」という原作をもとにした映画(映画邦題は「情愛と友情」)とドラマが作られていますが、両方ともにロケ地は、このカースル・ハワードです。映画の中で、重要なシーンである、ガーデンにあるアトラスの噴水は、映画よりも遥かに迫力があり、この圧倒的な存在感は来ないとわからない・・・と胸にくるものがありました。

 

映画にでてくるチャペル。ステンドグラスは、ウィリアム・モリスのデザイン。

庭から臨む少し遠いところに、モーソリアムと呼ばれる霊廟があり、ここに第3代伯爵以降のハワード一族の方々が埋葬されています。その姿は神秘的に美しく、ホレス・ウォルポールは“生きたまま、ここに埋葬されてもいい!”と評しています。

 

カースル・ハワードに情熱を傾けた第3代伯爵は、モーソリアムから日々ハウスを訪れる人々を見て、満足していることでしょう。

 

✴ジョン・ヴァンブラの独り言✴

 

ジョン・ヴァンブラは革新的な考えの持ち主とされ、ジェームズ2世を追いやりウィリアム3世を王位につけた黒幕の1人ともいわれます。王政復古をパロディ仕立てにした人気の劇作家は、時代の人。ロンドンのサロン“キット・キャット・クラブ”の主要メンバーでした。

 

(1723年頃の独り言、ヴァンブラ59歳、カースル・ハワードにて)

 

思い出せば、カーライル伯にカースル・ハワードの相談を受けたのは、もうかれこれ20年以上前だ・・・時代の寵児といわれた私は、あのころ、社交界で注目の的。この世の中は、自分中心に回っているって感じがしたものだ。キット・キャットクラブで、毎晩のように

華やかな時間を過ごすのは、実に楽しかった。

 

そんなとき、カーライル伯が、ハウスの建築の話をもってきて・・・私は、彼の、これまでイングランドにない芸術的で神秘的なハウスを建てたい、という熱い想いを聞いているうちに、これは私が引き受けて、彼の熱望を形にしていくしかない、という確信を固めていったのだった・・・私は建築家などでは・・・なかった・・・小さなコテージですら建てたことなどない・・・しかし、私はドラマという精神的建築物で人々を熱狂させてきた、今度は、地上における建築物で人々を熱狂させるのだ、この話を実現できるのは、私しかいない、と確信したのだ。

 

そしてカーライル伯は、私が語るハウスへの劇場的なアプローチを聞いて、私に任せると言ってきたのだ。

 

イーストウィングを建て、グレートホールを造りおえた頃が、絶頂の気分だった。中央においたドームは、まるでサンピエトロ寺院を想わせて・・・現生にいるのか、それとも天国に近いところにいるのか、人々を蒙昧とした気分にさせる圧倒的な迫力を醸し出すことができたのだ・・・

 

まさか、その後、カーライル伯の気持ちが、風景庭園に移ってしまうとは・・・どんなに頼んでもウェストウィングの建築に、取り掛からせてもらえず、霊廟を作り、神殿をつくり、池をつくり・・・庭園の仕事も、勿論それなりにやり甲斐はあったが…

 

ウェストウィングがなければ、ただ奇妙な見苦しいハウスだ。北側のハウスの景観など、ぞっとする代物だ。これだけこだわって、南側・北側とそれぞれ、最高の職人が、冠飾りや帯装飾の石膏彫りをほどこして、ファサードそのものが芸術品として仕上げられているのに、

西ウィングが建てられないなんて、なんてこった・・・ああ・・・こんな奇妙なハウスが

私の作品と呼ばれるなんて・・・絶望的だ・・・。

 

(独り言その後)

ヴァンブラがシンメトリーにデザインした西ウィングは、結局ヴァンブラが亡くなっても建てられることはなく、19世紀初頭にヴァンブラのデザインとは異なるトーマス・ロビンソンのデザインで仕上げられ、左右は非対称の独特のスタイルに仕上げられ、当時の当主第5代カーライル伯だけでなく人々の不評をかう残念な結果となりました。

 

※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。

 

参考資料:「Castle Howard」 Castle Howard