✴ハウスの概要✴

ヒストリックハウス名:Little Moreton Hall(リトルモートンホール)

所在地域:イギリス、チェシャ―

イギリス最古ともいわれるハーフティンバーの家。500年にわたり、モートン一族が所有していました。

古英語で“沼地の農場”を意味する“モートン”という名前をもつモートン一族は、1348年にペストの大流行によって手放された土地を買い、ヘンリー8世の教会破壊のときにも土地購入を進めて領地を拡大し、リトルモートンホールを建築するだけの財力を蓄え、16世紀中盤には、1360エーカーの地主になっていました。

初代ウィリアム・モートン(誕生不明-1526)を含めて第2代ウィリアム・モートン(1510-1563),ジョン・モートン(1541-1598)、第3代ウィリアム・モートン(1574-1564)の4世代150年にわたり、リトルモートンホールの建築は続きました。

貴族ではないものの、広大な領地からの安定した収入で、ジョンの時代までは余裕のある生活をおくっていたモートン一家でしたが、第3代ウィリアム・モートンの時代に親戚や家族の重すぎる経済的支援、清教徒革命によるウィリアムの逮捕、議会軍の逗留により、モートン家は、多額の負債を抱え困窮します。第3代ウィリアムは現在の価値で60万ポンド以上の負債を残して死亡します。その後、リトルモートンホールに住んでいた子供たちは次々に寿命を迎え、家は貸家となります。(後述、ウィリアムの独り言をご一読ください。)

貸家のテナント、デールファミリーは、1880年~1955年の70年間、リトルモートンホールをモートン一族そして、後年はナショナルトラストから借りていました。トマスとアンの夫婦と14人の子供たちは、ハウスでティールームも開いていました。

その間、修道女エリザベス・モートン(1821-1912)が、強い使命感のもとハウスの修繕を行い、その後、従弟で司祭のチャールズ・トーマス・アブラハム(1858-1945)にエリザベスからの依頼のもと、ハウスは相続されます。エリザベスは相続の唯一の条件を、「決してハウスを売却しないこと」と、しています。

チャールズは当初、熟練大工や建築家に頼み、ハウスの修繕を進めますが、将来を考え、1938年にナショナルトラストに譲渡しています。家が建てられてから、ハウスがモートン一族の手を離れたのは、これが初めてのことでした。

✴ダリアの訪問✴

抜けるような青空の4月の日に、リトルモートンホールを訪れました。

目の前に現れたリトルモートンホールは、どことなく歪んでいて、青空の中に描かれた“絵”をみているようでした。堀を渡り、門楼を通り抜けるとこじんまりしたコートヤード。

中世の服装のボランティアの方々が行き来しています。ガイドツアーに参加し、150年かけて建てられたことや、ガラスが中世ではとても貴重だったこと。大きなガラスを作る技術はまだ無く、小さなガラスを枠にいれてつないでいくことで、窓をつくっていたことや、各部屋のエピソードを丁寧に説明してもらいました。

グレートホールの天井は高く、フレームが見事に組まれています。

グレートホールのテーブル。これはモートン一族が使っていたもので、全員このテーブルについて食事などをしていたとのこと。

グレートホールの一角にあるベイウィンドウのコーナー。コートヤードを臨む。

こんなコーナーが家にあったらいいですね。

リトルパーラー、偶然に発見された壁画。女性が外で沐浴していて、男性に見られてしまう・・・お話しが描かれているそうです。

エリザベス一世から、許可を得て彫刻した王家の紋章。

グレートチェンバーの彫刻。

中性の服装が展示されています。

ロングギャラリーの床は、傾いています。

ロングギャラリーから見るコートヤード。

エリザベス時代風に整えられたノットガーデン。

チューダー風のベンチコーナー。ベンチの下で鴨が一休みしていました。

迷路のような造りのハーフティンバーの家は、窓ガラスの模様や、柱のすみに凝った細工がしてあり、家を建てたウィリアム達のこだわりを感じます。中世の大工たちは、全体像をあまり考えることなく、施主の希望のままに増築をしていったとのことですが、梁の組み方や、木材の選び方は、現代の観点からしても秀逸だそうです。クレーンや機械がないなかで、500年も持ちこたえてきた木造の家。そのクラフトマンシップに深い敬意を感じます。

✴ウィリアム・モートンの独り言✴

第3代ウィリアム・モートンの独り言。

(1650年の独り言、ウィリアム76歳、リトルモートンホールにて)

ロングギャラリーの床を張り替えなければいけないが、それより先にグレートホールの床もなんとかしなければ・・・リトルモートンの相次ぐ修繕で、気が狂いそうだ!

この家に生まれた者の、責務とはいえ・・・息子に引き継げないこの辛さ。

エドワード(長男)のケンブリッジ入学が決まった頃が、我が家がいちばん良かったころだったなあ。そのわずか1年後に、ケンブリッジから退学通告がきて・・・勉学せずに、パブに行って遊んでばかりか、泥酔して教授になぐりかかるという、とんでもない行動にでたとか。ショックというより、わが息子が情けなくて、涙がでたよ。

そのあと、ロンドンに行っても職にもつかず、いつまでたっても自立できず、家にくれば、「自分に投資してくれ」とか訳わからんことばかり言いおって・・・

ウィリアム(次男)は、海にでるとかいって、ちっとも家に帰ってこん。いまごろ、アメリカにでも行っておるのかの・・・

エドワード(3男)がオックスフォードで修士号をとったときは、頼りはエドワードだ!と思ったが、あいつは、仕事を見つけられなかった・・・人望がないというか、やる気がないというか、待っとったって職は向こうからやってこんよ・・・自分から探しにいかんと・・・

ピーター(4男)も、フィリップ(5男)も仕事を見つけられず、5人の息子たちが、だれも頼りにならん。4人は家に帰ってきて、言われたことを申し訳程度にするだけで、すぐにどこかへ行ってしまって、ろくに働かん。

収入がないから、いつまでも奴らを私が養って・・・

私の兄弟までが私を頼って、リトルモートンに住みだしたから、常に大所帯で

食事だけでも大変だ。

わしが、70すぎてやっと、ちょこちょこ、アルバイトみたいな仕事にやつらつきはじめたが、経済的にはまったく頼りにならなかった。

議会派がのしあがってきて、私が逮捕されたときも、やつらは全く使いものにならず、

議会派に手を回すとか、議員に状況を聞くとか、気が利いたことは、一切できなかった。

5人の息子たちよ・・・

リトルモートンを売り払うことだけは、したくない。それは先祖たちへの裏切りになる。

しかし、借金をどう返せばいいのか・・・ほとんどのものは売り払ってしまった。

リトルモートンの床のゆがみを見て、でるのはため息だけだ・・・。

※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。

参考資料:「Little Moreton Hall」 National Trust