✴ハウスの概要✴
ヒストリックハウス名:Linlithgow Palace(リンリスゴーパレス)
所在地域:スコットランド、リンリスゴー
スコットランド王家の別邸、メアリー・オブ・スコッツ生誕の地
スコットランド王、デイビッド1世(1124-1153)の時代から、リンリスゴーに王家の館がありました。次の王マルコム4世(1153-1165)、ウィリアム1世(1165-1214)の時代もリンリスゴーの記録があります。イングランド王エドワード1世(1239-1307,在位1272-1307)は、リンリスゴーを、スターリング城(スコットランド王家の本拠地)攻撃の拠点として、スコットランド征服を図り、1302年~3年にかけてエドワードのプランのもと、リンリスゴーは木造の要塞として大幅に増強されます。エドワード1世の死後、エドワード2世は1310年10月リンリスゴーに1週間滞在し、スターリングを攻めますが、スコットランド王ロバート1世(1274-1329,在位1306-29)に惨敗し、1313年、ロバートはリンリスゴーを取り戻しました。
スコットランド王ジェイムズ1世(1394-1437,在位1406-37)はイングランドでの18年に渡る人質生活中(厚遇されていました)、宮殿が王の権威を高めるために、いかに重要であるかを実感し、スコットランドに帰ってから、各宮殿の整備強化にとりかかります。1425年から改築・修繕を開始し、1429年にはランス大司教を迎えておもてなしができるまでに、整います。1437年の王の死まで改築は続けられましたが、王の死で工事は休止します。
孫のジェイムズ4世(1473-1513、在位1488-1513)は、リンリスゴーにかぎらず、ホリールード、ロスセーと他の城も改築・修繕・内装整備を精力的に行います。ジェイムズはヘンリー7世の娘マーガレット・チューダー(1489-1541)と1503年に結婚しますが、10年後ノーザンバーランドで暗殺されてしまいます。そんなことを想像もしないマーガレットはリンリスゴーの北西棟の小さな部屋で窓の外を見つめて、夫の帰りをずっと待っていたそうです。そして、まだ1歳のジェイムズ5世をスコットランドに残してマーガレットは、イングランドに連れ戻されます。
幼くして王位についたジェイムズ5世(1512-1542、在位1513-1542)は、1528年16歳になると、スターリング、リンリスゴー、ホリールード、フォークランドの城の修繕・整備を始め、その当時流行の内装で城を、当世風に装飾しました。フランスから嫁いできたジェイムズ5世の2番目の妻、マリー・ドゥ・ロレーヌは、リンリスゴーを「実家の城と同じくらい、とても素敵な場所」と褒めています。ジェイムズ5世は、コートヤードに噴水をつくり、特別な日には、噴水から赤ワインが流れ出ていました。
マリー・ドゥ・ロレーヌは、1542年12月8日、リンリスゴーでメアリー・オブ・スコッツを出産しますが、イングランドによる誘拐をおそれた母親は、赤ちゃんメアリーと共に、7か月後スターリング城へ移ります。(後述、マリー・ドゥ・ロレーヌの独り言をご一読ください)その後、メアリーがリンリスゴーに戻るのは、約25年後1567年4月23日。メアリーは生誕の城、リンリスゴーで一夜を過ごし、その翌日エディンバラへ出発したところで、ボスウェル伯に捕らえられてしまいます。
リンリスゴーでは、議会が開かれる、王族が滞在する、等、時々使用されてはいましたが、年月の経過とともに、建物は老朽化し、傷みがかなり激しくなっていきます。
ジェイムズ6世(イギリス王としてはジェイムズ1世)(1566-1625, スコットランド王在位1567-1625、イングランド王在位1603-1625))の時代、1607年に北棟の天井と壁が崩落します。1618年、ジェイムズ6世の命により、北棟の修復が始まり6年かけて完成します。
しかし、修復された北棟をジェイムズが訪れることは、ありませんでした。
チャールズ1世(1600-1649,在位1625-1649)は、1633年7月1日にリンリスゴーに一泊。これが、現役君主がリンリスゴーに宿泊する最後となりました。
1745年頃「小僭称者」として知られるチャールズ・エドワード・スチュアート(ジェイムズ2世の孫,1720-88)が、スチュアート朝主権奪還のためにリンリスゴーからエディンバラに向かいました。このときは、若くハンサムなプリンスを見ようと、たくさんの人がリンリスゴーの町に集まりました。
1746年1月31日カンバーランド公(ジョージ2世の3男)が、小僭称者チャールズを攻撃するため1万人の政府軍を連れてリンリスゴーに到着、投宿。翌朝、軍が出発するときに、リンリスゴーに火を放ち、リンリスゴーは焼け落ち、王室の館の役目を終えました。
現在は、石壁を残す廃墟となっています。
✴ダリアの訪問✴
スコットランドの王家の別荘、メアリー・オブ・スコッツ生誕の地ということで、訪れるのを楽しみにしていたお城。
ジェイムズ5世のために造られた正門には、4つのパネルがつけられています。これらは
ジェイムズ5世の王位を権威づけるもので、イングランドのガーダー騎士団、スコットランドのシッスル騎士団、バーガンディの黄金フリース、フランスのセント・マイケルの紋章です。
東棟には、ジェイムズ1世の勝利記念ゲート。昔日には、ここに吊り下げ橋がありました。
バービカンが豪華な印象です。
部屋はそれぞれ広々としていて、中世の時代を想像するのが楽しい。
石壁は、こんなに重厚。
ジェイムズ4世の妻、マーガレット・チューダー、ジェイムズ5世の妻、メアリー・オブ・ギースは、リンリスゴーで出産しています。リンリスゴーが静かで空気がきれいなことを二人は、とても気に入っていたそうです。
城の南には、湖があり、白鳥がいました。
プリンスやプリンセスが生まれ、喜びに包まれた時があったリンリスゴー。過去があって今がある、当たり前のことを、この廃墟全体から語りかけられている・・・気がしたのでした。
✴マリー・ドゥ・ロレーヌの独り言✴
マリー・ドゥ・ロレーヌ(1515-1560,1538年結婚)は、ジェイムズ5世(1512-1542、在位1513-1542)の2番目の妻(最初の妻マドレーヌ・ドゥ・ヴァロアとは1537年1月1日に結婚するも半年後に病没)で、メアリー・オブ・スコッツの母。
(1543年3月の独り言、マリー27歳、リンリスゴーにて)
リンリスゴーの冬は寒い・・・暖炉はフランスに比べてとても大きいけれど、それでも暖炉の傍を離れるのに勇気がいるくらい。
メアリー(メアリー・オブ・スコッツ)も3か月になって、ようやく首がすわって・・・かわいらしいわ。でも、彼女はすでに、女王なのよね。こんなに小さな体だけど。(メアリーが生まれた6日後にジェイムズ5世が死亡したため)
女王様を抱いているなんて、身が引き締まる思いだわ。なんとしてでも、メアリーを無事に育てなくては。守らなくては。
イングランドのヘンリー8世・・・まったく不気味な男。あいつのおかげで、ジェイムズは死んでしまったようなものよ。(ジェイムズ5世はヘンリー8世との対決に関する心労で死去といわれている。30歳で死亡。)
大体、何人と結婚するつもりなの・・・ヘンリー8世(この時点で、5人目の妻を処刑しており、6人目の妻キャサリン・パーとの結婚前)って異常よね。妻を斬首したあと、すぐに次の結婚をして・・・人間とは思えないわ。ローマ教皇様と縁を切るとか、ありえないから。
あいつ、メアリーとエドワード(1537-1553、のちのエドワード6世、在位1547-1553)を婚約させるつもりでしょうけど、そんなこと絶対にさせないわ。メアリーは、正当なイングランドの王位継承者(メアリーの祖母は、ヘンリー8世の姉マーガレット・チューダー)でもあるのだから、メアリー自身の権利でスコットランド女王、イングランド女王になるべきなのよ。それができる正統な女王なのだから!
エドワードは病弱だそうだし、他の2人の女子(メアリーとエリザベス、二人共ののちにイングランド女王)は、継承権をはく奪されたのだから、エドワードに何かあったら、メアリーがスコットランド、イングランド両方の女王となるわけよ。
ああ、メアリーを何としても守らないと。
リンリスゴーは、空気がきれいで、緑も多く、人々も和やかで・・・インテリアも素敵で。とても心がなごむけれど、ここは攻め込まれやすいから・・・やはりスターリング城に移らないと不安ね・・・
春になって、少し暖かくなったら、メアリーを連れてスターリングに移ることにしましょう。
※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。
参考資料:「Linlithgow Palace」Historic Scotland「スコットランド王室史話」大修館書店