✴ハウスの概要✴
ヒストリックハウス名:Claydon House(クレイドン ハウス)
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
チャールズ1世の王旗旗手の子孫、“いい人”エドマンド・バーニー一は、“いい人”すぎてあらゆる詐欺にあい、借金地獄で国外逃亡へ
バーニー家は、1463年にクレイドンに領地と館をもっていましたが、代々、アシュリッジのペンドレーに居住していました。チャールズ1世の忠臣、エドマンド・バーニー(1596-1642)が、バーニー家の当主として初めてクレイドンに住みました。エドマンドは、チャールズ1世の皇太子時代から側近として仕え、チャールズが戴冠してからは、近衛隊長及び枢密院のメンバーに任命されて、宮廷の主要メンバーとなりました。
一方、エドマンドは、地元チッピングウイッカム選出の下院議員でもありました。エドマンドは忠臣でしたが、チャールズの気まぐれな政治姿勢には反対票を投じ、王が国民と融和しつつ、時代を切り抜けていくことを臣下として切に望んでいました。
議会派と王党派の争い(清教徒革命)となると、エドマンドは王に付き添い、王の身の危険が予想された1639年のスコットランド行軍では、エドマンドの護衛のおかげでチャールズ1世は無事に帰還することができました。このことで絶大な信頼を得たエドマンドは、チャールズ1世から、名誉あるノッティンガム連隊の王旗旗手に任命されます。そして1642年10月23日エッジヒルの戦いでは、軍の先頭に立ち、軍全体の士気を最高潮に盛り上げて突き進み、名誉の中、戦死します。亡くなったあとも、その手は王旗をどうやっても離さなかったため、腕を切り落とし、腕と共に王旗は、持ち帰られました。
エドマンドの墓には、その腕だけが、今も埋葬されています。
エドマンドの功績で、息子のラルフ・バーニー(1613-1696)は初代男爵になります。ラルフの息子ジョン・バーニー(1640-1717)は、貿易ビジネスで大きな成功をおさめ、初代伯爵となります。この頃までにバーニー家は、結婚、ビジネスの成功、領地からの収入で莫大な富をもつ一族となっていました。
しかし、その息子ラルフ・バーニー(1683-1752)は、人を疑うことを知らない底抜けに“いい人”といわれる人物でした。莫大になった資産を、新しいハウスの建築につぎ込み、そのハウスの建築工事で詐欺にあい、加えて多くの投資案件で詐欺にあい、または失敗し、先代たちが築いた財産を使い果たし、借金まみれとなってしまいます。挙句の果てには、借金取りから逃れるために、1784年から4年程の間、フランスで逃亡生活を送っていました。信託団の努力により、負債の返済計画の目鼻立ちがついてから、ラルフはおそるおそるクレイドンに戻ります。なんとか気を取り直して、地元選出議員への立候補を決め、クレイドンのホールで朝食会を慎ましやかに開きました。
豪華なホールやボールルーム(大宴会室)のある新しいクレイドンハウスを建ててから、唯一この朝食会が、人々をハウスへ招いた機会でした。その後まもなく、1791年にラルフは78歳でロンドンにて死亡。
クレイドンハウスは、姪のメアリーが相続します。メアリーは、ラルフが建てた館の実に3分の2以上を壊し減築。メアリーはこの家に住むことなく、独身で子供がおらず、このあとクレイドンはメアリーの異父姉妹の家系へ引き継がれます。家系は変わりますが、メアリーの遺言により、クレイドンに住む者は、バーニーを名乗るようになります。
ヘンリー・バーニー(1801-1894)がクレイドンの当主であったとき、2度目の妻フランシスの妹がクリミア戦争で知られるフローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)で、クレイドンにたびたび滞在しました。
1956年にクレイドンのハウスとパークランドの一部がナショナル・トラストに寄贈されましたが、バーニーファミリーは、クレイドンの東棟に現在も住み続け、領地はバーニー家によって運営されています。
✴ダリアの訪問✴
地味な館に、地味な入口・・・というのが、着いてすぐの印象。
入ると、がらんとした何もないただ、広い部屋に不釣り合いな立派すぎるというか、凝りに凝った鳥の彫刻・・・こういった彫刻は、“いい人”エドマンド・バーニーの時代にライトフットという建築家(訴訟でもめ、投資でもめる相手)によるものです。後年、これらの凝った彫刻をみるたびに、エドマンドは、さぞ苦々しい思いにかられたことでしょう。
細かい細工がされた天井の石膏装飾。
階段から臨む天窓。
ハウスの隣にある一家の教会。王旗旗手のエドマンドの腕も、ここに眠ります。
この東棟は、もともとの建物の3分の一にすぎません。
ハウスの前に広がるバーニー家の領地。
一階は、がらんとしていましたが、2階のナイチンゲールが滞在した部屋は当時の家具が、
配置されていて、ナイチンゲールがくつろいでいた様子が想像できました。非公開部分に現在も、バーニー一族が住まれていて、公開されているのは、ほんの一部分でした。
ボランティアの方によると、イギリス女優ヘレナ・ボナム・カーターは、バーニー家の親族だそうです。ということは、ナイチンゲールともどこかで繋がっているのですね。
カフェは、ブルーがアクセントに使われたシンプルで落ち着く空間でした。
✴フランシスの独り言✴
フランシス・パーセノピー(1819-1890)はハリー・バーニー第2代男爵(1801-1894)の二度目の妻。フローレンス・ナイチンゲールの一つ違いの姉。裕福な家庭で、幼少の頃は、姉妹で数種類の語学に始まり、心理学・経済学なども含む幅広い豊かな教育を受けました。フランシスは、クレイドンの館を愛し、バーニー家の文書を整理し、「バーニー家の記憶」という本にまとめ、出版しました。
(1880年の独り言、フランシス61歳クレイドンにて)
ハリー(夫)はすっかりこの頃、老け込んでしまって・・・もう79歳になるものね、仕方ないわね。60代のときはクレイドンの内装の陣頭指揮をとっていたけれど、最近では、クレイドンへの意欲も下がってしまって。
ある程度、内装が整ってよかったわ。この歴史あるクレイドン。私たちは、バーニー家の直系子孫ではないけれど、縁あって、こうやって館に住む身になり、バーニーを名乗っているのだから、その責任を果たし、次の世代につないでいかないと。
家具や肖像画は、殆ど売却されてしまっていて、機会あるごとに、オークションで買い戻してはいるものの、なかなか難しいわね・・・17世紀のものを探すのは・・・
でも文書が、すばらしくたくさん残っていることが救いだわ。これらの文書からは、ご先祖様それぞれの息遣いが聞こえるようだもの。
特に王旗旗手のエドマンド・バーニー、その長男のラルフ、三男のエドマンド、この3人の手紙のやりとりを読んでいると、彼らの志の高さ、家族を思いやる優しさに、200年以上たった今でも、心を打たれて涙ぐんでしまう。
父エドマンドと三男エドマンドは、王党派、長男ラルフは議会派、自分に正直に家族内でも
違う側についているのに、憎み合うことなく、お互いを尊重して、父は息子たちを、息子たちは父を気遣って・・・こんな手紙を書き合える家族って、素晴らしい。手紙を書くこと自体がリスクになりうる時代だったのに。
この手紙を読んでから、私は、ますますこのクレイドンが好きになり、私にできることはできるだけしたいと思うようになったわ。
妹のフローレンス(ナイチンゲール)は、すでに世界的な有名人になっているから・・・最初は、彼女が看護師になると言い出した時は、全力で反対したけど・・・彼女の功績は、いまや否定しがたいものになったわ・・・彼女がクレイドンにたびたび来て滞在している、ということもクレイドンの歴史の一部になるでしょう。
バーニー家の記録を編纂して、残すこと、これは、私に与えられた使命だわ。必ずやり遂げましょう!
※歴史的史実をベースに創作したフィクションです。
参考資料:「Claydon House」National Trust