ヒストリックハウス名:Compton Castle(コンプトンカースル)

所在地域:イギリス、デボン

アメリカ植民地の開祖、ギルバート一族が今も住む

✴ダリアの訪問・一言感想✴

まるで石棺のようなカースルが、忽然と森の中に現れました。中世というよりも古代から、ずっと建っているような、遺跡のような風格・・・。右側は改修中で、足場が組んでありその姿を見ることは、できません。

今もギルバート一族が住むこのハウス、公開されている部屋は、ほんの一部です。

防衛壁から、入るゲート。

オールドキッチン

銃眼がある壁

ガーデンへの入り口

ハウスは中世そのままですが、ガーデンは、1950年頃から整備されたということで、

現代的な雰囲気です。こじんまりとして、すぐに一回りできますが、各所にベンチが置かれ、

座って、さまざまな角度から、美しい庭を眺められるように工夫されています。

ハンフリー(下記インサイト参照)のニューファンドランドにおける

初の英国植民地設立を記念した天球儀。ラベンダーと調和しています。

ガーデンのアルコーブ

このハウスは、1785年にギルバート一族が一度売却したものの、1931年にギルバート一族の子孫、ウォルター・ラレイ・ギルバートが買い戻し、1951年に子孫が住み続けられることを条件にナショナル・トラストに譲渡されました。ハウスの中にはいると、なんとなくアットホームな雰囲気が感じられるのは、ご家族の暮らしが、まだそこにあるからかもしれません。(2019年8月下旬訪問)

✴ダリアのインサイト✴

~アメリカ植民地の開祖、ハンフリー~

ギルバート一族は、ウィリアム征服王と一緒にフランスからやってきました。ウィリアム征服王にコンプトンカースル周辺の土地を与えられてから、フランスの襲撃が、いつきてもおかしくないこの地で、代々継承されてきました。コンプトンカースルは、襲撃に備え、高い防御壁を備えた防衛拠点として、整備されていきました。

ハンフリー・ギルバート卿(1539-1583)は、母方の叔母がエリザベス王女(のちのエリザベス1世)の家庭教師ということから、子供時代にエリザベス王女と引き合わされました。ハンサムで活き活きとしたハンフリーにエリザベスは当初、好感を持つものの、よく会って話すようになると、あまりの野心の強さに嫌気がさしてきます。アン・ブーリンの娘で微妙な立場であったエリザベスは、幼い頃から、野心ある人物には、警戒心をもたずにはいられなかったのです。

勇敢で戦略に優れたハンフリーは、1570年にアイルランドを鎮圧し、叙爵されます。この功績をもとにハンフリーは、エリザベスの忠臣と認められます。ハンフリーは、かねてから新天地アメリカの英国植民地化に、なみなみならぬ熱意をもっており、エリザベスを説得しつづけます。しかし、その頃、エリザベスの頭に、植民地構想などという考えは、かけらもなく、英国国内の宗教問題やスペインとの争いという日々の問題が最優先でした。国外に植民地をもつことのメリットなど、夢想以外のなにものでもなく、イメージすらできなかったものの、まだ少年だったころから知っている、そしていまでは実績ある騎士となったハンフリーが、エリザベスの大英帝国構想を熱く語るのは、決して嫌なことではありませんでした。

新天地アメリカに英国植民地をつくり、そこから大量の金や宝石を掘り出し、世界一富んだ国となれば、スペインやローマ教皇、フランスなどは黙るしかない・・・というのは、悪い話ではなく・・・ただ、エリザベスはその新天地開拓の冒険に、財政援助をする気はなく、開拓にでかけるライセンスを与えます。

女王からライセンスを得たハンフリーは、意気揚々と航海の準備をし、1578年9月26日アメリカへ向けて出発するものの、天候が悪く、途中で食糧が尽き、船員の反乱がおこり、引き返します。

しかし、そこであきらめるハンフリーではなく、新天地での広大な土地付与を条件にして資金集めを行います。このときは、エリザベスもハンフリーの熱意と情熱に心をうたれ、またスペインの植民地情報(スペインはこの頃、南米を幅広く植民地化)などを得て、イメージできるようになったことから、ハンフリーに財政援助をします。

そのときエリザベスが、ハンフリーに贈ったものは、“29個のダイヤモンドがついた金のアンカーのセット”で、この贈り物の威力で、ハンフリーの計画に“箔”がつき、出資者が相次ぎ、長期の航海・開拓にでかけるだけの十分な資金を得ました。

そして、再び1583年6月11日に出発。ハンフリーは44歳になっていました。今回は、大西洋の航海に熟練したポルトガル人船長サイモン・フェルナンデスを雇い、ベテランスタッフも同時に雇い入れ、航海は順調に進みました。

8月3日ハンフリーが狙っていたニューファンドランドのセント・ジョンに、ヨーロッパ人として初めて上陸し、ただちに、ここを「英国の地」と宣言します。ニューファンドランドは、漁業の拠点としては申し分なく、鳥類も多く生息できる土地であることから生活の地としては、十分でした。しかし、“金”や鉱物資源という一攫千金を狙っていた船長以下船員たちは、全く満足せず、ハンフリーに南下を迫ります。

ところが、南下する途中8月29日主船が座礁し、航海を続けることができなくなり、小さな護衛船2隻でのイギリスへの帰国を余儀なくされます。この帰国航海の途中、あと少しでイギリスというアゾレス諸島近くの海で、嵐にあい、船は沈没し、ハンフリーは海に沈み、彼の野望はここで終わりとなったのでした。

ウィリアム・コンカーと一緒にやってきて以来、ハンフリーの祖先は、“守り”の人たちで、コンプトンカースルの防御を固め、デボンでの地盤を固めることに心血を注いできました。

しかし、このハンフリーの時代から、気運は一転します。ハンフリーの父親違いの兄弟ウォルター・レイ卿(1554-1618)もアメリカ植民地の創始拠点ロノークを開拓、ハンフリーの長男ジョン・ギルバート(1575-1608)はギアナを探検、ハンフリーの次男レイ・ギルバート(1634死亡)は、北米最初の永久拠点となったジェームズタウンを創設し、大英帝国の基盤を築いた人物が、コンプトンハウスから続いて登場したのです。

コンプトンカースルは、デボンにひっそりと“過去の遺物”のように佇んでいますが、大英帝国繁栄への歩みは、このハウスからその第一歩が始まったのでした。

※史実に基づいた筆者の考察です。

参考資料:「Compton Castle」 National Trust