ヒストリックハウス名:Montacute House(モンタキュートハウス)

所在地域:イギリス、サマセット

エリザベス1世の地味な廷臣が建てた

✴ダリアの訪問・一言感想✴

宿泊していたパブから歩いていける距離なので、フットパスを歩いて近くまでいったものの、モンタキュートハウスのパークランドの入り口を見逃してしまい、車道を少し歩いて、

ガーデンから入ることになりました。だいぶ迷ったな~という感じで到着。

エリザベス一世時代の外観で、屋根やところどころに配されている曲線が、ハウスに優しげなフェミニンな表情を与えています。

イーストコート

イーストエントランス

パーラーの暖炉

ライブラリー、すき間風よけのドアとパネリング、「Hoc Age 」とはラテン語で、「Do it 」

の意味。座って本ばかり読んでいないで、行動せよ、というメッセージのようです。

ライブラリーの紋章いりステンドグラスが美しい。

クリムゾンベッドルーム。ベッドの彫刻が精密。

ウェストエントランス

ロード・カーゾン(当サイト、ケドルストンホール参照)は、ここをリースし、別邸としていました(1913-1925)。彼の本拠地であるダービーシャーより幾分、明るく温かい、サマセットの別邸。カーゾンはこの館の内装を愛人の小説家エレノア・グエンと共に仕上げたといわれます。二人が、あれこれ内装についてなごやかに話し合っている姿が、そこにあるような、少しロマンチックな雰囲気が中にはありました。

✴ダリアのインサイト✴

~エリザベス1世の地味臣、努力で建てる~

モンタキュートを建てたのは、エドワード・フェリプス(156?-1614)で、それ以降1931年まで約330年フェリプス一家が代々、継承しました。(1931年に旅行代理店トーマスクックのアーネスト・クックが購入し、ナショナル・トラストに寄贈)

エドワードは、曾祖父、祖父、父を引き継いで、その当時の君主に仕え、モンタキュート周辺の地域を、管理し、徴税をしてきました。代々、フェリプス家は質素な家風で、小規模なマナーハウスに住んでいました。しかし、エドワードは、エリザベス1世の時代に、ウィリアム・セシル(エリザベス1世の国王秘書長官)にその実直な働きが認められ、1584年念願の国会議員となります。議員となった今、収入も大幅に増え、その地位にふさわしいカントリーハウスを持たなければ・・・という義務感に近い高揚した気持ちで、モンタキュートハウスを1595年から建て始めます。時代の先端をいくシンメトリーで、ふんだんにガラス窓をあしらったデザインは、その当時、最も贅沢で、おしゃれ、いわば富裕のシンボルでした。

この時代、エリザベス1世の周りには、レスター伯ロバート・ダドリー(1532?-1588)など、エリザベスと親密な仲になって、政治に関与する人物がいましたが、エドワードはその対極で、できるだけエリザベス1世には近づかず、顔も見られないようにしていました。エドワードは、エリザベスが、ハンサム・甘言好きで、まずは外見で人を判断することを直感的に感じていました。エドワードは、どちらかというと地味な風貌で、エリザベスを喜ばせるような気の利いたことを言える才能もなく・・・エリザベスに声でもかけられては、大変!と怯えていました。

そんなエドワードですが、ウィリアム・セシルに認められたことが功を奏し、議会での地位は順調に上がり、1603年ジェームズ1世の即位後は、ナイトに叙爵されます。その後ジェームズ1世に認められ、1608年にはMaster of Rolls (最高裁副判事)になり、議会での中心的な存在となります。

この頃のモンタキュートは、その当時の最も贅沢な家具、調度品、美術品がおかれ、多くの人が出入りする賑やかな館でした。しかし、エドワードの死後、エドワードを超える子孫は現れず、ハウス内のものは売却され、18世紀初頭にいったん、財政状況は改善するものの、それでもエドワードの時代を超える栄華は訪れず、モンタキュートの中は、閑散としたまま時代は過ぎていきました。

ここに住む子孫たちは、エドワードの成功談を代々、偉大な祖先あり、という誇りをもって語り継いできました。ジェームズ1世の信頼厚く、このモンタキュートを建てた偉大な祖先、エドワード。

モンタキュートの館の前、イーストコートに立つと、400年前のエドワードの気持ちの高揚誇り、満足、そして子孫たちの畏敬の気持ちがひとつとなって、そこに静かに佇んでいるのでした。

※史実に基づいた筆者の考察です。

参考資料:「Montacute House」 National Trust