ヒストリックハウス名:Antony(アントニー)
所在地域:イギリス、コーンウォール
ペンテワン石の美しい風情

✴ダリアの訪問・一言感想✴
フェリーで、ティマ―川を渡り、トアポイントで上陸し、しばらく走って到着。
小雨が降る、どんよりとした曇り空。雨で鮮やかさが増した木立の中に現れたのは、
風情に満ちたグレイッシュカラー。ペンテワン石で造られた、均整がとれたその姿は、
上品さが静かに伝わってくる佇まいです。
ここは、15世紀初頭から600年あまり、ずっと、コーンウォールで指折りのカリュー一族の館です。
南側正面

ポーティコは、少々バランスを欠く印象。

ホール

家じゅうに先祖の肖像画が、所狭しとかけられている。
ダイニング・ルーム

サルーン

タペストリー・ルーム

椅子がかわいい

ライブラリー

書架の上にも、肖像画がずらりと。
階段の壁にも肖像画が、すきまを惜しんで架けられている。

古くは、スチュアート派。チャールズ一世の肖像画が今もかかる。

北側のメイン・ローン、リンハー川を臨む。雨にぬれた緑が美しく、いつまでも眺めていたい。

サマー・ガーデン

帽子?のかたちに整えてある。どんよりと曇る小雨の日で、殆ど人気がなく、ガーデンもひっそりと。アントニーの美しさを、独り占めできた贅沢な訪問でした。

✴ダリアのインサイト
アントニーの歴史を紐解くと、「誰にも“予想”できないことばかり」でした。
現在のアントニーの館を建てた第5代カリュー男爵ウィリアム(1689-1744)は、父親第3代カリュー男爵ジョンが54歳のときに3度目の妻との間に、生まれた次男でした。最初と2度目の結婚では、娘しか生まれず、3度目の結婚で、待望の嫡子、長男リチャードが生まれました。
しかし、1692年ジョンの死後、リチャードは、8歳で第4代男爵となったものの、成年(21歳)を待たずに1703年に19歳の若さで死亡。誰も予想していなかった5歳下のウィリアムが14歳で爵位と領地を相続します。ウィリアムは、大人になったら司祭にでもなろうかな・・・とぼんやり考えていたら、全く予想外に男爵となってしまったのです。
カリュー一族は、チャールズ1世から男爵位を受け、スチュワート王家に臣従する立場でありながら、ウィリアムの祖父、第2代カリュー男爵アレクサンダー(1608-1644)は、清教徒革命で議会派の立場をとり、タワー・ロンドンで処刑されます。叔父のジョンも清教徒革命で同じく議会派で、1660年に処刑されています。
男爵位をうけた次の世代は、王に背いた罪で、兄弟そろって斬首とは・・・誰が想像できたでしょうか。
そんなことで、カリュー一族は、清教徒革命の嵐に飲み込まれそうになっていたのですが、
ウィリアムの父ジョンは、王家への忠誠を誓い、またコーンウォールの親戚たちの協力もあって、なんとかコーンウォールの議員として議席を確保したのでした。
ウィリアムは、1710年に成年(21歳)に達すると同時に、アントニーの当主になりました。
しかし、今度は、別の時代の波がやってきて、1714年に王家がハノーヴァー家になると、
スチュアート王家への忠誠が、今度は裏目にでて、ジャコバイト(スコットランド支持)の疑いをかけられ、1715年、プリマス要塞の牢獄へ収監されてしまいます。1年後に保釈されたものの、もはや議会や国政での活躍は望めません。
王家に忠誠を尽くしてきたことが裏目になって、投獄とは・・・全く予想ができなかったことでしょう・・・。
保釈されてしばらくした1718年、妻のアン・コベントリーの父親の伯爵が死亡。唯一の子供であったアンは、爵位は継げないものの、資産を承継します。ウィリアムは妻の資産で、富裕となり、アントニーの建設を決めます。
アンと結婚した当時は、まだ父親の伯爵にこれから男子が生まれる可能性もあり、そうなれば、アンの資産承継は、限りなくゼロに近いものだったのでした。
小規模なチューダー朝の古いハウスは、全て壊し、コーンウォール特産のペンテワンストーンを使った左右対称にこだわったデザインを、ウィリアム自らがデザイン。そのイメージの源泉は、チャールズ2世がピカデリーに建てたクラレンドン・ハウスでした。
時代に翻弄されながらも、ウィリアムの心のよりどころは、コーンウォールという地でした。
海が開けて、温かく、開放的な空気が漂うアントニー。
時代は変わり、政治は変わり、自分たちへの人々の態度も変わる・・・
しかし、ここコーンウォールの美しいペンテワン石で建てた館は、いつまでも変わらず、その美しい姿を、ここに保ってくれているだろう。それが、ウィリアムの心をとてもとても
安堵させ、他のすべてのことは、微小なことと、思えてくるのでした。

参考資料:「Antony」National Trust