ヒストリックハウス名:Renishaw Hall (レニシャウ・ホール)
訪問:2019年10月25日

所在地域:イギリス、ダービーシャー
George Sitwell ジョージ・シットウェル(1860-1943)
レニシャウは、16世紀から現在までシットウェル一族のハウスです。しかし、所有者は長きに渡りイギリス王室。エリザベス一世からヴィクトリア女王の時代まで、ずっと王室から借りていました。ヴィクトリア女王の時代に、12年に渡る交渉を経て、やっとレニシャウは、シットウェル家の所有となります。

シットウェル一族は、公爵、伯爵といった有力上位貴族では、ありませんが、16世紀から現在に渡るまで、さまざまな角度から王室を、微に入り細に渡り、サポートしてきています。
その中でも、ジョージ・シットウェル第4代準男爵(1860-1943)は、81年間ずっと準男爵位にあり、王室の裏舞台で、王族を陰から支えた人物です。
ジョージは、2歳の時に、父親 が42歳の若さでガンで亡くなり、男爵位を継ぎます。大叔父(祖母スーザンの弟)は、ヴィクトリア女王(1819-1901)に見込まれてカンタベリー大司教になったアーチボルド・テイト(1811-1882)で、この大叔父に関係して、王室との縁が幼少の頃より深まっていきます。
レニシャウで育ち、イートン校、オックスフォード大学と典型的な上流階級子弟教育コースを進んだジョージは、身長180センチを超える、ハンサムで歴史・文学が好きなインテリな青年に成長します。ジョージは、舞踏会で、レディ・アイダ・デニソン(1869-1937)と出会い、お互いに一目ぼれ。出会って2か月で結婚(1886)し、レニシャウで新婚生活をスタートしますが、2人は、殆どの時間をレニシャウではなく、ロンドンで過ごすことになります。
アイダは、伯爵の娘で、社交界の花でした。アイダのいとこの1人は、皇太子エドワード(のちのエドワード7世、1841-1910)の愛人としてよく知られるウォーリック伯爵夫人デイジー、また皇太子エドワードの売春宿訪問の罪の身代わりとなったサマセット卿もアイダのいとこでした。そして、皇太子エドワードの次男ジョージ(1865-1936、のちのジョージ5世)の妻となったメアリー・オブ・テック(1867-1953、結婚1893年、のちのメアリー王妃)の幼馴染でもあったことから、アイダとの結婚後、急速に王室との付き合いが親密になります。
そうしたことから、アイダと、ジョージは、皇太子エドワードの裏舞台に欠かせない、いわば信頼される“スタッフ”のような役割になっていきます。ウォーリック伯爵夫人デイジーに続いて、皇太子エドワードの愛人となったのは、アリス・ケッペル(1868-1947)です。アリスは、皇太子より27歳年下でしたが、皇太子の絶大な信頼を得ていました。
アイダとジョージは、皇太子の妻アレグザンドラ(当サイト、サンドリンガムをご参照ください。)を尊敬してやまず、一点の曇りもない忠義をもっていました。しかし、一方、アイダがアリス・ケッペルと同年代で気が合うことから、エドワードとアリスの連絡役のような役目をいつの間にか、担うようになってしまいます。
皇太子が参加する狩猟パーティや舞踏会には、必ずといっていいほど、アイダは随行を求められ、また社交的なアイダはその要請に応じることを、無上の喜びとしていました。
しかし、アイダは、その随行にふさわしい服装や持物、ギフトを自分が満足いくよう整えるために、無頓着に借金を重ね、気づいたときには、それはジョージの返済能力を超えていました。
1901年、ヴィクトリア女王が亡くなり、エドワード7世の時代になると、ヴィクトリア時代の質素倹約の時流が、豪華奔放のエドワーディアンの気風へと変わります。そして、アイダの宮廷での存在感は、ますます増し、アイダの奔放な借金は留まることを知らず、ジョージは、アイダの借金の肩代わりをすることを、ついに放棄します。
そして、ジョージは、宮廷でアイダと共に、皇太子の便利屋のように扱われることに、だんだん嫌気がさしてきて、狩猟パーティなどに誘われても、なにかと理由をつけて参加を辞退します。
もともと、歴史や文学など、インテリジェントな性向をもつジョージには、賭博や狩猟、飲食に異常な執念をもつエドワード7世とは、相いれないものがあり、とても尊敬の念を抱くことは、できませんでした。
ジョージは、ついに王室から距離を置くことを決め、1909年イタリアはフィレンチェ郊外に、瀟洒な館を購入し移住します。レニシャウは、長男のオズバートに任せ、それ以降、殆どレニシャウに戻ることはありませんでした。
1910年にエドワード7世が亡くなり、ジョージ5世の時代となると、王室では、これまでの享楽的な雰囲気が無くなります。アイダは、借金に追われて返済できなかったことから、監獄に何度も入れられ、社交界での居場所もなくなり、夫のいるイタリアに移り住みます。
アイダは、1937年に68歳で死亡。ジョージは、そのあと1人、イタリアそしてスイスで6年間を過ごします。アイダが亡くなる前後から、ジョージは、イタリアに移住してきていた元エドワード7世の愛人、アリス・ケッペルと親交を温めます。その親交は、友人の域を超え、晩年、ジョージは、「最も美しい女性は、アリス・ケッペルだ。」と書き残しています。(参考:アリス・ケッペルは、現チャールズ皇太子の二度目の妻カミラの曾祖母にあたります。)
ジョージは、1943年7月9日、83歳で死亡、準男爵の地位にあった期間は、実に81年89日で、イギリスで爵位にあった期間が最も長い1人とされます。
インテリジェントで清廉な性格でありながらも、王室の裏方としてさまざまな隠密行動をとり、妻の借金に愛想をつかし、国王の愛人に密に心を寄せ・・・華やかでありながらも、気を使う疲れるばかりだった日々のようにも想像できます。
レニシャウという、広大な美しい館がありながらも、イタリアへ行ってしまったジョージ。
「税対策さ」と言っていたそうですが、イングランドでの気遣いから、解放されたジョージ。イタリアでは、幸福な日々を送り、レニシャウを懐かしむことは、ありませんでした。
参考:「Royalty & Renishaw2012」

