ヒストリックハウス名:Charlecote Park (チャールコート・パーク)

所在地域:イギリス、ウォーリックシャー
訪問:2019年10月29日

Mary Elizabeth Lucy メアリー・エリザベス・ルーシー(1803-1889)
チャールコートは、12世紀から現在に至るまで、ルーシー一族の館です。19世紀の当主、ジョージ・ルーシー(1789-1845)は、16世紀にエリザベス1世がケニルワースを訪れた帰り道にチャールコートを訪れたことに、大変なプライドをもっていて、エリザベス1世時代の建築様式にこだわって、中世からの館を19世紀に、エリザベス様式に建て替えました。
ジョージは、12世紀からのルーシー家の直系子孫ではありません。それゆえに、といえると思いますが、ジョージは一族の系譜に大変なプライドをもっていました。そのプライドは、紋章を人に見せつける、という形になって現れ、館のありとあらゆる人目につくところ(ダイニングルームの外に面したガラス窓など)に、祖先のあらゆるメンバーの紋章をステンドグラスに刻み込みました。そのステンドグラスも、紋章ステンドグラスの当時の権威で、ジョージ4世の紋章ステンドグラスも担当するトマス・ウィルメント(1786-1871)に長年にわたり、任せていました。
このように、“こだわる男”ジョージの妻が、メアリー・エリザベス・ルーシーです。
メアリーは、ウェールズの準男爵のお嬢様として生まれ、快活、陽気で、いたずら好き。
楽しく、豊かな、何の苦労もない子供時代を、ウェールズの館ボドエルイザン(Boddlewyddan)で、姉妹たちと送っていました。20歳のとき、34歳のジョージに見初められ、泣くほど嫌であったのですが(他に意中の青年がいたが、両方の親に結婚を反対され、大陸へ留学中)、父親の指示に逆らえず、失意のうちに結婚します。その後、実に66年間、86歳で亡くなるまで、チャールコートで生活しました。
メアリーは、孫娘たちに読ませるために、自分の子供時代から老年の日々の出来事を手記にまとめ、のちに曾孫の嫁が注釈をつけて、出版します。この「チャールコートの貴婦人」(Mistress of Charlecote )では、実に活き活きとした、具体的描写で、ジョージ4世時代からヴィクトリア時代の日々がつづられています。その中には、こんなエピソードも。
1860年の夏(メアリー、57歳):義理の姉、アラベラとプラスグィン(ウェールズ、スゥオンジー近く)近くの海辺で、小さな馬車(ポニーが引く)に乗っていたところ、アラベラが、「ちょっと海の中を走らせてみない?」と言うので、御者に「できるかしら?」ときくと「もちろん」という返事だったので、波打ち際から少し海の中へ、走らせたところ、意外にすぐに深くなり、ポニーが足を砂にとられて、まさかの転倒! 海水が馬車の中に、ざーっと入ってくる。御者は、あわてて海へ飛び降り、「私の背中にのってください!」と叫んだ。御者は、驚くべく小柄な男で、この背中で自分を支えられるのか、と思ったものの、私は、彼の背中に飛び乗った。しかし、この馬鹿者は焦るあまり、陸ではなく海のほうへ歩き出し、そこへ大きな波がきて、私は彼から離れてしまい、溺死かと思ったが、クリノリン(ドレスの枠組み)の浮力で浮いて・・・と、まだまだ活き活きとした描写が続きます。
最後に、アラベラとメアリーは、全身ずぶぬれで、近くを通った人々に助けられ、滞在していた館に帰ったのでした。アラベラは、戻ってから、ものすごく不機嫌でヒステリー状態だったが、メアリーは、一連の出来事を思い出すと、おかしくてたまらず、自分のレディースメイド(着衣など身の回りの世話をするメイド)と笑い転げていたとのこと。
1863年の夏(メアリー、60歳)スコットランドのホープトーンの館に招かれて、ディナー。ダンダス大尉夫妻もディナーに同席。大尉夫妻と、美女やハンサムな人々の話で、大いに盛り上がる。その流れで、美女でない人、ハンサムでない人々の話になる。メアリー「私が知っている中で、いちばん平凡な顔(不細工の意味)の人は、なんといってもニスベット・ハミルトン氏ですわ。ハミルトン氏をご存知ですか?」少しの間があって、大尉は「ええ、もちろん。私の兄ですから」とにこやかに答えた。私は驚愕し、「まあ!美しいあなたが、あの方と血のつながりがあるなんて・・・」と、しどろもどろになってしまったのでした。
このような活き活きとした、笑いを誘うエピソードが、いくつも書かれていますが、彼女の人生は、楽しいことばかりでは、ありませんでした。メアリーの子供、8人のうち5人がメアリーより先に旅立ちました。
その中の1人は、24歳まで丈夫に育った嫡男のウィリアム。ウィリアムは、4歳のとき、ケンジントンパークで遊んでいると、「なんてかわいい男の子!」と当時8歳だったプリンセス・ヴィクトリア(後のヴィクトリア女王)に抱きつかれたほどの美青年だったとのこと。(ヴィクトリア女王に抱き着かれたときにウィリアムが着ていた着衣を、メアリーは大切にずっとしまっていました。)有能、温厚で礼儀正しく、家族を大切にし、ハンサム・長身で舞踏会でも注目の的だった嫡男ウィリアムの早すぎる病死に、メアリーは絶望しています。
それぞれの子供の死については、メアリーのどこまでも深く癒えることのない、形容しがたい悲しみが切々と、綴られていて、読む者の涙を誘います。
夫ジョージは、彼女がまだ42歳の時に亡くなり、その時、子供たちは、上は20歳、下は2歳。夫の死後、次男のスペンサーが1865年に結婚するまで20年にわたり、メアリーは、チャールコート及び領地経営を実質的に取り仕切りました。
12世紀からあった先祖代々の墓がある教会を、墓地ともども取り壊し、一新。ハウスの北棟を改築し、ハウスの前面にあるエイボン川へのモダンなアプローチを造るなど、迷うことなく精力的に自分の意志に基づいて、チャールコートを近代化しています。
泣くほど嫌だった結婚で来たチャールコートに66年間住んだ、メアリー。いつも「私の愛しい、古いチャールコート」(My dear old Charlcoat )と呼び、チャールコートに深い愛情をもっていました。
機知や好奇心に富んだメアリーの魅力は、彼女の手記の行間から、溢れ出てきています。しかし、そんな魅力的な人物にありがちな、批判精神や先走り傾向も、垣間見えて、興味がつきない人物です。メアリー・エリザベス・ルーシーについては、次男で嫡男となったスペンサーの結婚後の時期についての続編をまた、近いうちに書きたいと思います。
参考:「Mistress of Charlecote」Alice Fairfax-Lucy,「Charlecote Park」National Trust


