ヒストリックハウス名:Newstead Abbey(ニューステッド・アビー)

所在地域:イギリス、ノッティンガムシャー

訪問:2019年10月26日

George Gordon, 6th Baron Byron of Rochdale (1788-1824)

1163年頃ヘンリー2世によって、修道院が建てられ、それを1539年にヘンリー8世が破壊し、コルウィックのジョン・バイロン卿に与えました。破壊された修道院を改修して、館が建てられ、それ以来バイロン一族のカントリーハウス、ニューステッド・アビー(以下アビー)となります。

1798年に詩人として知られるジョージ・ゴードン・バイロンが10歳でアビーを相続します。バイロンが、アビーを拠点にしていたのは、1808年から1814年頃の約6年間程。バイロンは1816年に借金や世の中の反対勢力から逃れるために、イタリアに渡り、それ以降、イギリスには、生きている間、一度も帰りませんでした。金策のために、1818年にバイロンは、アビーをハーロー校時代の友人、トーマス・ワイルドマン(1787-1859)に売却しています。現在の内装の殆どは、このワイルドマンによるものです。

ニューステッド・アビーは、バイロンの最もよく知られる作品の1つ「ドン・ジュアン」(1819~)の第13歌に詠われています。この作品を創ったとき、バイロンは、すでにイギリスを出て、イタリアにいたのに関わらず、この第13歌をみると、まるでアビーのガーデンに広がる湖が目の前に、現れるようです。アビーは、その抒情的な建物の佇まいと広い湖、ガーデンが、美しい情景を織り成しています。「ドン・ジュアン」は風刺詩とされて、他のパートでは、恋愛などについて謡われていますが、第13歌は、ニューステッドの情景が丁寧に述べられていて、バイロンの(売却してしまった)アビーへの思慕のようなものが感じられます。

バイロンは、ハーロー校からケンブリッジ大学、トリニティ・カレッジに進み、そのあと、ニューステッドに戻ります。バイロンがケンブリッジの寮から移ってきたとき、館の中は、荒れ果てた廃墟のようでした。バイロンの前に住んでいた従祖父第5代バイロン卿は、財政難でアビーの中のものを、ほぼ全て売り払ったため、家具類は無く、ハウスの内外共に全く補修もされていなく、朽ちた廃墟同然でした。

バイロンは、大学寮で使っていた天蓋つきベッドをアビーに持ち帰っていますが、立派で驚きます。

バイロンが使っていたベッド

アビーで、物憂げな表情で、詩を創る情緒的な美しいイメージと違い、バイロンのアビーでの生活は、あまり好ましいものでは、ありませんでした。

グレートホールは、今は、改修されて、きれいになっていますが、バイロン当時は、荒れ果てており、バイロンは、ここで壁を的として、ピストルを撃つ練習をしていました。その結果、グレートホールの壁は、銃弾の痕が無数に残りました。そして、アビーの地下を掘り返して、頭蓋骨を発掘し、その頭蓋骨で、いくつものカップをつくり、それで得意げに酒を飲んでいました。また、アビー内チャペルでの母親の葬儀中、使用人と上階のドローイングルームで、ボクシングの練習をしていました。母親とは、アビーで同居していましたが、とても折り合いが悪く、1年に1度も顔を合わさずに、暮らしていました。

グレートホール

バイロンは、生まれつき足が悪く、また父親は生まれて間もなくフランスで死亡、母親との折り合いが悪く、幸せな子供時代を過ごしたとは、いえなかったようです。その影響が、成人してからの奇行につながっているという分析もあります。

バイロンは、36年という短い人生の間に、数多の熱烈な恋愛をしています。新たな恋人ができると、親友のホブハウスに「私は恋に落ちた・・・」と手紙を書いており、恋愛の変遷が、はっきりとわかります。

結婚したアン・ミルバンクとも結婚前は、とてもいい関係で、知的な会話や手紙のやりとりを、お互いに楽しんだあと、バイロンからプロボーズし、最初は断られたものの、2度目のプロポーズで快諾を得ます。(ダリア推察:この頃、プロポーズをすぐに受けるのは、はしたない行為、とされていたかもしれません。)しかし、2度目のプロポーズのときには、熱はだいぶ醒めて、どちらかというと、財政的な側面から、女相続人(親に男子がおらず、爵位は継げないものの、領地などの相続権をもつ)であったアンへの事務的な申し出となったようです。

1815年1月に結婚。バイロンは、アンとの結婚直後から、結婚生活に、嫌気を強烈に感じます。結婚生活に、自身の居場所、人間としての成熟、を強くイメージしていたバイロンですが、才気活発で、自分の意見をはっきり持ち、違うことは正していかないと気がすまないアンと、毎日を送るのが耐えられない苦痛であることに、すぐに気づいたのです。

同年12月10日に女の子が誕生しますが、娘が誕生するやいなや、バイロンは、妻と娘を、「ロンドンにいないほうがよい、ロンドンから離れたほうがよい」と狂気をもって急かし、翌年1月に、アンの両親がもつ家のキルクビー・マロリーへと追い出してしまいます。結婚後、2人はロンドンに住んでいたので、アンと娘は、アビーには一度も来たことがありません

これ以降、バイロンは、妻と娘に会うことはありませんでした。娘の名前は、エイダ(後に結婚してエイダ・ラブレス)で、コンピュータープログラミングの元祖とされることもある人物です。エイダは、生後1ヵ月以来、父親バイロンと会うことはなかったのですが、エイダの希望で、墓所ではバイロンの隣に眠っています。

バイロンは、1816年にイタリアへ渡ったあと、ギリシャの独立戦争に加わり、1824年に現地で、36歳の若さで病死します。バイロンの肖像画は、ハンサムで美しい詩人として、ロマンチックに描かれていますが、生涯、不自由な足と肥満への恐怖(太りやすい体質だったようです)が彼の悩みであったようです。

バイロン、という響きが、とても詩的に思えます。

自分で望んで手に入れたのではない、バイロンという名前とニューステッド・アビー。しかし、バイロンの創作と名声は、彼の名前とアビー無しには、生まれなかったように思えます。

私が、アビーを訪れた日は、激しい雨が降る日で、殆ど人がいませんでした。アビーは、改修中で、アビーのシンボルとされるファサードは、足場に囲まれて見えません。

工事中でないアビー(by Paul Weston)

強い雨風の中、1人でガーデンを歩き、雨風に打たれながら撮った写真です。

スパニッシュガーデン
アビーの前に広がるガーデンレイク
アビーエントランス
バイロン

参考:「The Life and Works of Lord Byron」,「Newstead Abbey」Nottingham City Council