ヒストリックハウス名:Kingston Lacy(キングストン・レーシー)
所在地域:イギリス、ドーセット
訪問:2019年9月2日

ヘンリエッタ・ジェニー・フレイザーHenrietta Jenny Fraser (1871-1953)
キングストン・レーシーは、16世紀半ばまでは、王室領でした。カンバーランドからきた新進気鋭のジョン・バンクス(1589-1644)が、チャールズ1世のもとで頭角を現し最高裁判事になり、その財力をもって、キングストン・レーシーの領地及び、コルフェ・カースルを王室から購入しました。コルフェ・カースルはのちに議会派に破壊され廃墟になってしまい、ジョンの息子ラルフ・バンクス(?1631-77)は、コルフェの再建をあきらめ、キングストン・レーシーに新たに館を建築します。その後、詩人バイロンの友人ウィリアム・バンクス(1786-1855)がライムストーンでレンガ造りだった館全体を覆い、内装も全て一新する大改築を行い、館は現在の姿となります。
ヘンリエッタ・ジェニー・フレイザーは、キングストン・レーシーの44歳の当主、ウォルター・バンクス(1853-1904)と1897年に結婚(2人共に初婚)。ヴィクトリア女王のダイヤモンドジュベリー(在位60周年記念)の年です。ヘンリエッタは26歳でした。その当時の女性としては、26歳で独身は肩身が狭く、ウォルターとお互いに一目ぼれで、会って5日後にプロポーズされたとき、ヘンリエッタは、天にも昇る気持ちでした。
ウォルターの44歳という年齢が、気になりはしたものの、ウォルターは、社交界でよく知られたスポーツマン。ハンティングやセーリング、クリケットとそつなくこなし、見た目も若々しい。すべてに落ち着いて対処する“成熟のジェントルマン”で、なおかつ、活き活きとスポーツをするウォルターに、すぐき何の問題も感じなくなりました。6月14日に出会い、翌月7月21日にロンドンにて結婚、というスピード感です。
8月21日に新婚の二人がキングストン・レーシーに馬車で帰ってきた時、11,000人もの人々が集まり、盛大なガーデンパーティが行われました。領地のテナントから、優雅な彫刻が美しい銀のボウルのセット、近隣の町ウィーンボーンの人々からは、キングストン・レーシーやコルフェ・カースルの景観が彫刻されたシルバープレートが、ウェディングギフトとして華々しく贈呈されます。パーティは、夜通し、翌日の朝まで盛大に行われました。
ヘンリエッタは、翌年1898年に6月23日に長女ダフネ、1900年に次女ヴィオラを産みますが、ヘンリエッタにとって女の子二人の誕生は、どちらも落胆に過ぎませんでした。コルフェ・カースル、キングストン・レーシーという領地・館を継げるのは、男子のみだからです。ヴィオラを産んだとき、ヘンリエッタは、すでに29歳で、当時としては、出産年齢はもうそろそろ終わりとされていた年齢でした。2人目が女の子だったことに、ウォルターも落胆を隠せず、ヘンリエッタは、どうしようもなく焦ります。
翌年1901年にヴィクトリア女王が逝去し、世の中はエドワーディアンの時代となり、新たな空気に包まれます。そして、翌1902年7月14日、ロンドンでヘンリエッタは、待望の長男ヘンリー・ジョン・ラルフを出産。「息子かつ相続人」の誕生は、夫妻だけでなく領地の人々にも大きな喜びと希望をもたらし、この日、領地の教会では、祝福の鐘が何度も鳴り響きました。
この頃が、ヘンリエッタの幸せの絶頂でした。ヘンリエッタは、ウォルターが大きく安堵していることに、喜び、また、領主の妻としての責任を果たしたことに、いいようのない大きな達成と幸福を感じたのでした。
ヘンリエッタは、自分の「行くべき道」をはっきりとイメージしている女性でした。息子が誕生したことは、この「行くべき道」が明らかに現実化したことを意味し、その喜びは、何にも勝るものでした。
しかし、ヘンリエッタが全く予期していなかった現実が、はじまります。
スポーツマンで、健康そのものだったウォルターが、翌年1903年に病床につきます。心臓の病でした。少し良くなっては、また悪くなる、を繰り返し、1904年11月にウォルターは、51歳で亡くなります。長男のラルフは、まだ2歳でした。
さらにヘンリエッタの悲しみに追い打ちをかけたのは、ウォルターが遺言で、自分の遺体の火葬(通常は遺体を棺に納めて埋葬、火葬は稀で、遺族にとっては大変な心理的苦痛だったと思われます)、ヘンリエッタが見て見ぬふりをしていた愛人のエリザベスに4万ポンド(当時)という巨額と、ウォルター所有だったノールハウスとクームハウスという2つの大きな館の遺贈を明確に指示していたのです。ノールとクームを、ヘンリエッタは、後年、エリザベスより買い戻しています。
ヘンリエッタは、呆然とした日々を送りながらも、管財人と共にウォルターの遺言を実行。そして、相続人である息子ラルフが、領地経営を引き継げる21歳になるまでは、ヘンリエッタ自らが領地経営を行うことを決意します。
こうして、キングストン・レーシーは、ヘンリエッタの「私の館」になったのです。キングストン・レーシーには、「スパニッシュ・ルーム」というベラスケスなどのスペインの巨匠が描いた絵画が多数飾られる部屋をはじめとして、ドローイングルーム、ダイニングルーム、ライブラリーにも、大小の肖像画や絵画が、美術館顔負けに飾られ、絢爛豪華な内装となっていますが、これは、ウィリアム・バンクスの好みで仕上げたものです。
ヘンリエッタは、祖先が残したこれらの絵画や内装は、できるだけそのままに残す一方、自分のベッドルームは、大胆に内装を変えます。フランスから輸入した花模様の白を基調としたエレガントな壁紙、家具は全てハロッズに特注して、白で統一、ベッドカバーは、自身のウェディングベールをもとに作らせます。
ヘンリエッタには、革新的な一面があり、当時、女性のドレス、装身具はすべてレディースメイドが別の部屋で管理し、指示された服を運んでいましたが、ヘンリエッタは、ベッドルームにワードローブをそなえつけ、服を見ながら、その日に着るドレスを選んでいたというのです。
ヘンリエッタは、自分のベッドルームをホワイトベッドルームと名付けます。そして、壁には、「母と子」をテーマにした小ぶりの絵や写真を多数かけます。ホワイトベッドルームに入ったとき、ラッキーなことに、私は1人で、他に見学者がおらず、まるで、ヘンリエッタになったような気分でした。
ホワイトベッドルームだけは、他の部屋とは、まったく違う空間。一日の始まりにティーをここで飲むとき、一日が終わって、ここで一息つくとき。そんなヘンリエッタの毎日が繰り返されたこの部屋にいると、いつまでもそこにいたくなる、部屋が自分を包み込むような、不思議な感覚に捉われるのでした。
ラルフは、ヘンリエッタの手厚い保護のもと、無事に成人、1935年にヒラリー・スティックランド・コンスタブルと33歳で結婚。1937年には息子ジョン、その後、娘メアリーに恵まれますが、子供たちが成人して独立したのち、1966年にヒラリーが58歳で病死。
ラルフは、1人でキングストン・レーシーに住み続け、1981年に死亡。息子ジョンはキングストン・レーシーを相続することなく、息子もおらず1996年に死亡し、ジョンの死亡でバンクス一族は終焉を迎えます。キングストン・レーシーは、ラルフからナショナル・トラストに遺贈されました。
ラルフが、ヒラリーと結婚して、しばらくしてから、ヘンリエッタは、ロンドンに居を移し、メイドと暮らします。ヘンリエッタにとって、キングストン・レーシーは、「私の館」でしたが、ラルフが結婚した今、ヘンリエッタは、歩むべき道は、自分が退くことであることを、すぐに悟ります。采配をふるえない立場になったいま、ホワイトベッドルームに住むことは、ヘンリエッタにとって、進むべき道では、なくなったのです。
ヒラリーは、離れたあとも、あれこれ細かな指示をだしてくるヘンリエッタのことを疎ましく思ってはいたものの、一定の敬意をもつことは忘れませんでした。ヒラリーは、ホワイトベッドルームには、なんの変更も加えず、ヘンリエッタが住んでいたときのまま残し、自分は、一回り小さなベッドルームを使って過ごしたのです。ホワイトベッドルームは、部屋として、芸術的に完成されたものとも捉えられるので、その調和を崩すのに、“畏れ”を感じたかもしれません。
ヘンリエッタは、時代が激変する2つの大戦を見て、1953年6月6日エリザベス2世の戴冠も見届け、同年11月29日にロンドンでひっそりと亡くなりました。孫のジョンは、このとき16歳、キングストン・レーシーの将来に心配なし、自分から後世へ引き継ぐ責任は、無事に果たした、と満足の気持ちと、ホワイトベッドルームを死の床にできなかった残念な気持ちが、交錯する中、、しかし、自分は、よくやった、とヘンリエッタは、目を閉じたのでした。


参考:「To Partake of Tea, The Last ladies of Kingston Lacy 」Geoffrey Brown,「Kingston Lacy」National Trust

