ヒストリックハウス名:Hardwick

所在地域:イギリス、ダービーシャー

訪問:2019年7月5日、2019年10月25日

ハードウィックのタペストリー、ベスが好んだ、ギリシャ神話のペネロペ

 Bess of Hardwick, Countess of Shrewsbury (1527-1608)

シュールズベリー伯爵夫人 ベス・オブ・ハードウィック

ハードウィック、ハウスのストーリーは、別投稿で、ご覧いただけます。また、ベスの誕生~19歳は、「ハードウィック・ベス前編」で、ご覧いただけます。

1547年にウィリアム・キャベンディッシュと19歳で結婚したベスは、その後10年間、毎年のように妊娠・出産を繰り返し、8人の子供を産みます。(そのうち6人(男3人、女3人)が、成人。)結果として、この期間、妊娠・出産により、ベスが宮廷から、自然に離れていたのは、とても幸運なことでした。

というのも、1547年にヘンリー8世が、56歳で亡くなり、後に、1558年にエリザベス1世が即位するまでの11年間、宮廷は、王位を巡って混沌とした陰謀、策略、争いが、多くの処刑を伴って続く期間となったからです。

ヘンリー8世死後、10歳のエドワード6世が王位を継ぎますが、当然のことながら、執政できる年齢ではなく、エドワード6世の母親ジェーン・シーモアの実家のシーモア一族が、権勢をふるいます。(ジェーン・シーモアは出産後数日で死亡)しかし、エドワードは、16歳で病死、その後の王位は、ヘンリー8世の長女であるカトリック信奉のメアリーに引き継がれるものの、カトリック行政を嫌うヘンリー8世の姉の子孫のグレイ一族が、ジェーン・グレイを王位につけ、内乱となります。結局、ジェーン・グレイは、メアリーによって、処刑され、「9日間の女王」として、歴史に名を残すだけとなりました。

この期間、誰につくか、いつ宮廷にいくか、何を言うか、の全てが、身の安全に関わりました。

女王メアリーは、母キャサリン・オブ・アラゴンを苦しめたプロテスタント勢力に深い恨みと憎しみをもっており、反対勢力とみなしたものを、次々に火炙りの刑に処したからです。カクテルの「ブラディーマリー」(血のメアリー)は、このメアリーから名付けられたといわれます。

ウィリアムは、1550年年末に、ベスの実家、ダービーシャー、ハードウィックに近い、チャッツワースの土地を購入します。財務長官としてロンドンでの仕事に忙しいウィリアムに代わり、ベスがリードして、新しい館の建設が始まります。当時、北イングランドには、本格的なカントリーハウスはなく、しかも、よく他でみられる古い教会跡での建設でなく、ゼロからの建設であることに、ベスは嬉々として、取り組みました。館と同時進行で、プレジャーガーデン、果樹園、テラス、魚のための大きな池、噴水、ガゼボと、一流のカントリーハウスのあれこれを、ベスは、計画し、テンポ良くすすめていきました。

ウィリアムは、ベスが領地管理や、館の運営、使用人の管理、ハウスの建設など、全てにおいて、実務能力に長けていて、ものごとを効率的に進めることを、結婚後、すぐに認めました。しかも、ベスは、どの仕事においても、予算をうまく使い、周りの協力を得て、とてもよい仕上がりに円滑、円満にもっていく能力に長けており、ウィリアムは、全幅の信頼をおいていました。

しかし、宮廷財務長官ウィリアムのヘンリー8世に信頼され、重用されていた黄金時代は終わり、苦難の時代がやってきます。

1552年、ウィリアムは、15歳のエドワード6世に、資産交換の話をもちかけ、ダービーシャー以外に所有する全ての土地を王室に寄進し、その代わりにダービーシャーに王室がもつ、広大な土地、館、鉱山、石切り場を王室から譲り受けるという取引をまとめたのです。この取引は、圧倒的にウィリアムに有利なバランスに欠けるものでありましたが、15歳のエドワードは、ウィリアムからの提案に、疑いをもたず、承諾します。

まだプリンセスであったメアリーは、周りから聞かされたそんな取引を、苦々しく思っていました。メアリーが女王になったとき、やっと自分たちの時代がきた、とカトリック勢力の官僚たちがメアリーを取り囲み、これまで宮廷のプロテスタント勢力権力者の1人だったウィリアムは、王室経費の使い込みで、告発されてしまいます。

確かに、王室財務簿を見ると、ウィリアムの経費として使われているのか、王室の経費として使われているのか、うやむやな部分がありました。ウィリアムは、ヘンリー8世、エドワード6世と、長年に渡り、財務長官を務めたため、それらのグレーゾーンを遡ると、5千ポンドという巨額の額になったのです。

ウィリアムの裁判は、延々と続き、細々とした王室の出費、自分の出費を遡ってじりじりと追求される日々は、耐え難く、周りからの誹謗中傷も加わり、また、メアリーからは、冷たくあしらわれ、宮廷では、目も合わせてもらえません。それらのストレスで、ウィリアムは、徐々に体の調子を崩していきます。最終的に裁判の判決で、5千ポンドの支払を命じられますが、ウィリアムは、広大な土地を持ってはいても、そんな多額の現金は持っていません。

冷たくされてはいても、減額できる権限をもつのは、メアリー女王だけ。ウィリアムは、メアリーに嘆願書を書きますが、フランス王フィリップと新婚旅行中のメアリーは、嘆願書を読まず、その他の様々なストレスが重なって、ウィリアムは、ついに病に倒れてしまいます。

1557年10月、チャッツワースから、ロンドンに、かけつけたベスに見守られ、ウィリアムは51歳で、ついに死亡します。呆然自失のベスは、30歳。7人の小さな子供と、巨額の国家への負債、そして広大な領地が残されました。

ウィリアムの対国家負債は、ベスに遺され、ウィリアムの死後、この負債の支払として、チャッツワースやその他のキェベンディッシュ家の土地、館などの資産を、いつ国家に没収されるかわからないという恐れのもと、暮らすことになります。

しかし、ベスは、キャベンディッシュの領地は、どんなことがあっても、減らしてはならない、と心に決めていました。このベスの確固たる決意が後世にも、連綿と受け継がれ、キャベンディッシュ家は、現在においても、ウィリアムが築いた資産を持ち続けているのです。

ベスは、家計を切り詰め、チャッツワースで質素な暮らしを送る一方、夫の負債について、ロングリートのシン卿に相談するなどして、実現可能な解決策を探っていました。

しかし、ここで時代の潮目が、大きく変わります。

翌年、1558年11月にメアリー女王が、病に倒れ嫡子を残さず亡くなったのです。プロテスタントの人々を憎み、カトリックを復活させることのみに執念を燃やしていたメアリーの評判は、芳しくなく、逝去した悲しみよりも、世間では、新しい時代・・・若き女王エリザベス一世の即位への喜びが、はるかに上回り、宮廷をはじめイングランドは、喜びに沸き立ちます。

それは、ベスも同じことでした。メアリーから煙たがられていたウィリアムの妻であるベスは、宮廷から呼ばれることもありませんでした。しかし、ウィリアムがエリザベスの財務を担当していた縁から、ベスは、エリザベスが住むハットフィールドには、たびたび立ち寄り、6歳年下のエリザベスとは、他愛ない世間話をする間柄になっていました。

エリザベスは、王家の血縁でも、上位貴族の生まれでもなく、そして、どこか田舎風のおっとりした雰囲気をもつベスに、ほっとするものを感じ、ベスが来訪するのを楽しみにさえしていました。

エリザベスが、20歳のある日、ハットフィールドにベスがやってきます。ベスは、ロンドンからチャッツワースに帰る途中に、ウィリアムに頼まれて、エリザベスの様子を見に立ち寄ったのです。ベスが、エリザベスに近況を尋ねると、「ハットフィールドでできることは、限られているので、刺繍でも始めようかと思うのよ」と意外なことを言います。刺繍が得意なベスは、「それは、すばらしいことです。刺繍は、自分の思いを形にできる、すばらしい芸術です。」と応えます。すると、エリザベスは、うかない顔をして、立ちつくしてしまいました。

エリザベスは、メアリーが女王になってからというもの、メアリーに処刑されるのではないかという恐怖に、怯えない日はありませんでした。メアリーが即位したとき、エリザベスは20歳、17歳年下の王位継承権を持つ異母妹のエリザベスは、プロテスタント王位奪回の象徴とみなされていて、実際、メアリーを廃位して、エリザベスを王位につけようという動きがありましたが、絶対的な証拠が無かったために、エリザベスは処刑を免れたという事件もありました。刺繍の図柄が、なにかメアリーの気に触っては大変だわ…と、気を許しているベスの前では、思わず、その表情がでてしまったのでした。

そのように怯えるエリザベスを、護衛隊長として、昼夜を問わず、警護していたのは、ウィリアム・セントロー卿です。

エリザベスは、不遇の時代に、献身的に護衛してくれたセントロー卿に、多大な恩と感謝を感じており、女王になると、セントロー卿への終身年金の支給を即座に決め、“イングランドのチーフバトラー”という、終身名誉職位を彼のためにつくります。

セントロー卿は、エリザベス一世即位のとき、40歳。身長190センチ、軍人として鍛えられた体には、護衛官の軍服が似合い、なかなかのハンサムで、颯爽と騎乗する姿は、目を惹きます。美男好きのエリザベスは、セントロー卿に護衛されることに、いつも安心とともに、喜びを感じていました。

妻に先立たれたセントロー卿は、プリンセス時代エリザベスが住んでいたハットフィールドに常駐していました。そこで、エリザベスを訪ねてやってくるベスとは、自然と言葉を交わすようになり、信頼関係が生まれるようになっていきます。

そして、エリザベスの戴冠式の前後、エリザベスの身の回りのことを、手際よく、にこやかにこなし、そして、エリザベスの神経質な気難しさをうまく逃がして、機嫌よくさせていくベスに、セントロー卿は、興味をもち、次第に惹かれていきます。

一方、戴冠式のパレードで、セントロー卿が黒のビロードの制服に全身をつつみ、白馬に乗り、エリザベスを護衛する姿を見て、ベスは、自分の気持ちが、これまでになく、晴れやかになることに気付きます。セントロー卿は、サマセットを中心に広大な土地を持つ、先祖代々の大領主です。小さな頃から領主の跡継ぎとして育てられた人物が持つ、堂々とした自信のある、そして、美しい立ち振る舞いは、ベスを、満ち足りた幸せな気持ちに、するのでした。

セントロー卿は、1559年1月13日の戴冠式の大役を終えてから、ベスを自身のカントリーハウス、サマセットのサットンコートに招待し、プロポーズ、2人は、同年8月27日に結婚します。ベスにとっては、3度目の結婚、セントロー卿にとっては、2度目の結婚。ベスは、32歳、セントロー卿41歳でした。

~「ハードウィック・ベス後編」へ続く~

ハードウィックに飾られている儀礼武装。セントローの甲冑かも。(ダリア推測)