ヒストリックハウス名:Hardwick

所在地域:イギリス、ダービーシャー

訪問:2019年7月5日、2019年10月25日

Bess of Hardwick, Countess of Shrewsbury (1527-1608)

シュールズベリー伯爵夫人 ベス・オブ・ハードウィック

「ハードウィック・ベス前編」、「ハードウィック・ベス中編」からの続きです。また、ハウスの紹介は、「ハードウィック・オールドホール」「ハードウィック・ニューホール」をご覧ください。

1559年8月、エリザベス1世の戴冠の年に、ベスとセントロー卿は、結婚しました。ベスは32歳、セントロー卿は41歳。エリザベス1世の護衛隊長のセントロー卿は、エリザベス1世のいわば「おとりまき」の主要な1人で宮廷にいつも控え、またベスもエリザベス女王の女官となったため、子供たちがいるチャッツワースとロンドンを頻繁に行き来して過ごすことになります。

セントロー卿からの嘆願で、エリザベス女王はベスが国家に負っている5,000ポンドの負債は1,000ポンドに減額され、ベスは領地・チャッツワース没収の恐怖から、やっと逃れることができました。エリザベス女王にとって、セントロー卿とベスは、数少ない信頼できる側近で、その絆をさらに強くしたいという気持ちがありました。

セントロー卿の唯一の悩みは、弟のエドワードでした。エドワードは浪費家で人望に欠け、セントロー卿の父は、全ての資産をセントロー卿に相続させ、エドワードには一切何も相続させませんでした。大資産家の親の次男であるのに、何も相続できなかったエドワードの怨みは、セントロー卿とベスに向けられます。セントロー卿とエドワードは、絶えず口論を繰り替えし、裁判を経ても尚納得しないエドワードは、ベスに毒を盛ることまでもします。ベスは数日間苦しみますが、無事に回復しエドワードへの警戒を強めます。

セントロー卿は、常にエドワードに警戒していましたが、エドワードに隙をつかれます。健康だったにも関わらずセントロー卿は、1564年12月にロンドンで突然の死亡。ベスとの結婚からわずか5年後、46歳でした。理由ははっきりしないものの、この時、セントロー卿はエドワードと同宿していて、エドワードによる毒殺が臆されます。チャッツワースから駆け付けたベスが到着したときには、セントロー卿は、もう息を引き取ったあとでした。ベスとセントロー卿は、お互いに深い愛情を抱いていて、また一緒に過ごせる時間がとても限られていたこともあり、結婚5年を経て、2人は恋人同士のような関係で、ベスはセントロー卿の死を深く悲しみます。

セントロー卿の死亡後、驚愕したのは、エドワードでした。セントロー卿は、全ての資産をベスに、そしてベスの死後もベスの子孫に残すという公的遺言書を残していたのです。ベスは、その遺言書の存在を知ってはいましたが、それはずっと遠い将来のことと捉えていました。セントロー卿は、自分の身になにかあったときに、領地の健全な経営のために、エドワードには決して領地を相続するべきではないと強く思っており、エドワードともめて怒りやる方ないときに、その遺言書を公的にしたためたのでした。そうして、期せずして、ベスは、セントロー卿の広大な領地と数々の館を相続することとなったのです。

ベスは、宮廷でエリザベス女王の女官を引き続き務めます。この頃、スコットランドでは女王メアリーがダーンリー卿と結婚、未来のスコットランド王ジェームズ(のちにイングランド王ジェームズ1世)誕生、リッチオ(メアリー女王の側近)殺害、ダーンリー卿暗殺と一連の事件が次々と起こり、やがてメアリー女王はスコットランドからイングランドへ逃避してきます。

ベスは、宮廷で仕えるうちに、エリザベス女王に頻繁に会いに来る第6代シュールズベリー伯爵ジョージ・タルボーとの仲が深まります。ジョージは、王室への忠誠心が強く、エリザベス女王の臣下であることに大変な誇りをもっていました。エリザベス女王に命を懸けて仕える、ことが彼の最も強いアイデンティティでした。エリザベス女王も十分にそのことを承知していて、ことあるごとに、ジョージを宮廷に呼んでは、ジョージの忠誠心をくすぐるような仕事を任せていました。

ジョージは、シェフィールドをはじめとして、数々のカントリーハウスと領地をもつイングランドで指折りの資産家です。ジョージは、エリザベス女王を訪問するうちに、ベスと交わす機知ある会話が楽しくなり、また大地主同士で共通の話題も多く、深い共感をおたがいに持ち始めます。

ジョージは妻を亡くしたばかり、夫を亡くしたベスとのめぐりあわせには、何か運命的なものを感じ、1567年ベスにプロポーズします。2人共に39歳でした。しかし、共に大地主である2人は用心深い結婚を取り決めます。ベスの長男ヘンリー17歳とジョージの娘グレース8歳の結婚、ベスの娘メアリー12歳とジョージの長男ギルバート15歳との結婚、これら二つの結婚を1568年2月9日にまず済ませた後、3月にベスとジョージが結婚したのです。この3つの結婚で、2人はお互いの資産が、次世代においても保全される布石をうったのです。

ベスは、この4度目の結婚により、伯爵夫人となりました。この当時、公爵はノーフォーク公1人のみで伯爵は、最も高い貴族の位といってよく、伯爵夫人となることは、全貴族女性の憧れでした。ベスは、ジェントリーの下層の生まれから伯爵夫人までになり、そしてそれを周りの人は、「ベスなら当然だわ」と自然に受け入れ、むしろ「ベスは伯爵夫人になるべくして生まれてきた」とまで言われ、尊敬のまなざしを向けられたのです。

ジョージとベスは、お互いがとても好きでした。ジョージは、ベスのことを、「私の信愛なるノン(他に比べるものがないほど好き)」と呼び、離れているときは、ベスを気遣う手紙を頻繁に送り、領地経営や親族に関する細々としたことを、ベスに知らせています。ベスもジョージの純粋ともいえる王室への忠誠心に、ある種の畏敬を感じており、生まれながらの伯爵相続人の他利を優先する高貴な姿勢に、とても惹かれていました。

2人ともに40歳に近い年頃で、惹かれ合っての結婚。その惹かれ合う要素の中には、資産や地位ももちろん含まれますが、お互いへの愛情が結婚を決める決定打になったことは誰の目からも、明らかでした。

エリザベス女王も、自分の側近同士の結婚を喜びます。

そして、1568年12月13日、クリスマスも近いある日、ジョージは、エリザベスから呼び出されます。シェフィールドから喜び勇み、かけつけたジョージにエリザベスは、にこやかな微笑みを向け、厳かに「スコットランド女王メアリーの監視役を任せるわ」と言い渡したのです。ジョージは、「そんな大役を仰せつかり、身に余る光栄です」と最敬礼をし、引き受けます。実際、最初の時点では、「自分は、そんなにも信用されているのだ、スコットランド女王を引き受けるなんて、そんな畏れ多い任務を・・・」と感動で、胸にくるものがあり、ジョージは涙ぐみ、大喜びで引き受けたのです。

しかし、その任務により、多大な経済的負担と精神的負担がずっしりとジョージにのしかかります。宮廷からメアリー負担金として支給されるのは、今の日本円でいえば50万円ほど。しかし、メアリーは「女王として」なにごとも1級品を好み、衣服、装飾品、ワイン、食品、さまざまな家具やタペストリーに、カーペット、女官や下僕の給金など含めると毎月数百万から1千万を超える出費があるのです。

ジョージのエリザベス女王への忠誠心、また何かあってメアリーが女王になったときのためのリスクヘッジ、伯爵としての誇り、などから、これらの出費をジョージは、私費で賄い続けます。そして、メアリーには常に脱走、反逆の大罪の可能性があり、ジョージはメアリーを自らの目でいつも見張っていないといけないのです。もちろんジョージの部下の監視役はいるのですが、これらの監視役がいつメアリーやカトリック派に買収されるかもわからず、また暗号の手紙をやりとりされる危険もあり、ジョージは常に神経が休まりません。

ジョージのメアリー女王監視任務は、18年に及びました。再三、出費の払い戻しを嘆願してもなかば無視され、メアリーから離れることは謀反にあたるとされ、ジョージは宮廷に近づくことすら、許されませんでした。

メアリーは、イングランドに来た当時は、まだ26歳。ヨーロッパ随一と賞された美貌。王家への忠誠心が厚いジョージは、ヘンリー7世の子孫でもあるメアリーに、泣きながら訴えられると、厳しく対処できず、ついつい、メアリーの愚痴を聞いては、できるだけ望みを聞いてやるのでした。ベスも最初10年ほどは、メアリーと一緒に刺繍をするなどして、メアリーの気を紛らわす手助けをしていました。

エリザベス女王は、ジョージとベスのこうした性格を知っていて、あえてメアリーを任せました。メアリーは、18年の軟禁生活のあと、エリザベス女王の暗殺計画の罪で1587年に処刑されます。その死刑にジョージは、イングランドの最高法官として立ち合い、止めることのできない涙を流します。そして、ジョージは、長年の精神的・経済的ストレスから精神病を患い、精神錯乱の末、ベスを仮想敵とみなすようになってしまいます。

エリザベス女王をはじめ、宮廷のセシルやウォルシンガムといった重臣たちが、かわるがわるジョージを諫め、夫婦仲の回復に努めますが、ジョージのベスに対する態度は硬化する一方で、和らぐことないまま、身体を壊しメアリー処刑の3年後、57歳で死亡します。ジョージが拒否したことから、晩年、2人は会わなかったものの、ベスは一貫して、ジョージの身体を気遣い、良い夫婦関係を取り戻したいと願っていました。

4度の結婚で、4人の夫と死別。エリザベス女王が最も信頼する女官であり、周りから尊敬される伯爵夫人、そしてジョージから相続した土地を加えさらに広大な土地の領主となったベスは、イングランドでいまやエリザベス女王に次いで2番目に多くの資産を持つ女性となったのでした。

ベスは、1890年、ジョージの死の少し前頃から、ハードウィック・オールドホールの大規模改築と新たなハードウィックの建設を始めます。ジョージが精神疾患からくる激怒で、ベスのチャッツワースへの立ち入りを武力で禁じたことから、ベスは実家だったハードウィック(実兄の死後、ベスが購入しベス所有の館になっていた)に滞在せざるおえない状況にあったのです。

チャッツワース、ハードウィック・オールドホールの建設で得た、館建設のノウハウを新たなハードウィックに存分に生かし、その当時大変な高級品であったガラスをふんだんに使い左右対称の美しい館を建設。内装から庭の細部にわたるまで、ベスは自分のセンスを生かして、理想の館を造り上げました。(館については、ハードウィック記事を参照ください。)

その後、ベスは宮廷に仕え、晩年はハードウィックで過ごします。しかし、ベスの晩年には、孫のアラベラ(ベスの娘エリザベスがヘンリー7世の子孫と結婚して生まれた)と王家との関係、というイギリスの歴史の表面ではなかなか語られることのない、人間味溢れる興味深い側面があります。これはまた別の記事で、いつか書きたいと思っています。

ベスは、1607年2月3日午後5時、80歳で、息子ウィリアムとチャールズ、娘メアリーに見守られて亡くなります。亡くなる直前まで、意識ははっきりとあり、子供たちと話をしていました。

70代になってからもベスは、エネルギーに満ち溢れていましたが、亡くなる4年前1603年3月24日に自分より6歳年下のエリザベス女王が70歳で亡くなると大変に落ち込み、その悲しみからベスの心身の衰えが一気に進みました。

エリザベスがまだティーンエイジャーだった頃から近くにいて、4度の結婚生活もエリザベスの影響が大きく、また老年になってからは宮廷にエリザベスがいるということが、子供たちや孫の将来を考えるとき、大きな心の支えだったことを、ベスは改めてかみしめていました。

死が近づく・・・ある日、ベスは人生に悔いはない、よい人生だった、いくつかの裏切りもあった、今でも許せないことはある、しかし、多くのことを楽しんで、達成した・・・ハードウィックは思いどうり建てたけれど、思いのほか(ガラスが多すぎて)寒い・・・とつらつらと暖炉の火を見ながら、繰り返し思うのでした。

ベスが炎を見つめた暖炉
ハードウィックに飾られているエリザベス女王の肖像画

参考:”Bess of Hardwick” Mary S. Lovell