Bolsover Castleボルズオーバーカースル:ドレサージュ(馬場馬術)とステュアート王家~ウィリアム・キャベンディッシュ

ヒストリックハウス名:Bolsover Castle

所在地域:イギリス、ダービーシャー

訪問:2019年10月25日

 William Cavendish, Duke of Newcastle upon Tyne (1593-1676)

初代ニューカースル公爵ウィリアム・キャベンディッシュ

ダービーシャーの、丘の上にあるボルズオーバーカースルは、前回までご紹介していた

ベス・オブ・ハードウィックの息子、孫息子が築き、華やかなそして、凄惨な時代の舞台となります。

廃墟になりつつあった旧要塞ボルズオーバーカースルを、1553年に王室より購入したのは第6代シュールズベリー伯爵、王室への忠誠心厚い

ジョージ・タルボー(1528-90)。この頃、エドワード6世(1537-53)は病に臥せ、王室財務が混沌としており、忠誠を誓う王室に少しでも貢献できるならば、という王家を気遣う思いから王室への寄付ともいえるような高値で、ジョージは、ボルズオーバーを買い取ります。

ジョージは、他にいくつも大きな館をもっており、旧要塞だったボルズオーバーを再建しようという気持ちは全くありませんでした。そしてボルズオーバーは、廃墟のまま、長男ギルバート・タルボー(1552-1616)に引き継がれ、ギルバートもボルズオーバーにさして興味はなく、義理の兄弟であり、生涯の親友だったチャールズ・キャベンディッシュ(1553-1617)に長期リースします。チャールズは、ハードウィックでご紹介したベス・オブ・ハードウィック(1527-1608、4度目の結婚がジョージ・タルボーと。)とウィリアム・キャベンデイッシュ(1505-57、ベスの2度目の結婚)の次男です。

チャールズは本拠地としてウェルベックの館をもっていますが、かねてから家族と親しい友人だけでプライベートな時間を過ごせる、もっと小規模かつ快適な館をゼロから建てたいと思っていました。そこで、ギルバートが「ボルズオーバーは、見晴らしはよいが、なにか建てるとなるとゼロからだからなあ・・・」と漏らしたのを聞き逃さず、翌日に自ら見にいきます。なだらかな丘の上に建つ要塞跡をみて、チャールズは「ここだ!」と直感的に気に入ります。

そして、1608年ギルバートからの長期リースを取り決め、建築プランに取り掛かります。相談したのは、母ベスが懇意にしていたロバート・スマイソン。チャールズの細かなこだわりを具現化する建築プランを入念に練り、1612年頃からボルズオーバーの一角にリトル・カースルの建築を始めます。しかし、1617年4月4日完成もう少しというところで、チャールズは64歳で亡くなり、跡継ぎウィリアム・キャベンディッシュ(1593-1676)が建設を引き継ぎます。

ウィリアムは、前述ベスの孫になりますが、ベスがエリザベス1世と共に生きたのに続き、ウィリアムは、ステュアート王家と共に生きた人物です。

1603年ジェームズ1世の戴冠祝いとしてドレサージュ(馬場馬術)の訓練をされた6頭の馬がフランス国王から、贈られます。この頃、スコットランドはもちろんイングランドでもドレサージュは、まだ知られておらず、この戴冠祝いを機にはじめてイングランドに伝えられました。

ジェームズ1世はドレサージュには全く興味を持ちませんでしたが、贈られてきた馬と騎手の人馬一体の華麗な演技を観て、年の頃10歳のジェームズ1世の長男ヘンリー・オブ・スターリング(1594-1612)は大変に魅了され、ドレサージュにのめりこみます。誰か年の近い練習仲間をということで、王家から信頼あるベスの推薦で同じ年10歳のウィリアムが、ヘンリーのところへ送り込まれます。

ヘンリー・オブ・スターリングは、ヘンリー5世の再来といわれるほど、若年の頃から人望厚い人物で、次期王として熱い期待を周囲から寄せられていました。そのヘンリーのドレサージュ仲間としてウィリアムは宮廷で生活し、少年から青年期を送ります。ヘンリーは身体能力も高く、成長するにつれドレサージュの技も磨かれ、人馬一体となって正確なステップを踏むその姿からは神々しさ、さえ感じられます。そのような姿を見て、ウィリアムはヘンリーが王になった暁には、どんなことがあっても王を支えていこうと静かに、強く思うのでした。

しかし、次世代の王として嘱望されていたヘンリーは18歳で腸チフスを患い、あっけなく死亡。ウィリアムはヘンリーの死を深く悲しみます。ヘンリーの死後もウィリアムは、ドレサージュを止めることなく、ボルズオーバーの建築を父から引き継ぐと、本格的な室内馬場“ライディングハウス”をボルズオーバーに建設します。

リトルカースルには、宮廷でヘンリーと共に、当時の最高の教育を受けたウィリアムの文化知識が反映され、イタリアルネッサンスの影響をうけた壁画が多々描かれ、館全体が美術館のようです。リトルカースル全体が、ウィリアムの考えのもと”人間の弱さ“をコンセプトに内装がつくられているともいわれます。

リトルカースル、エントランスではアトラスが支える
ライディングハウス入り口

1634年には、スコットランドの帰り道にチャールズ1世(1600-49、ヘンリーの弟)が妻ヘンリエッタと共に、ボルズオーバーに滞在します。チャールズ1世にとっては、ウィリアムは“兄の友達”。とても近い存在ではありましたが、チャールズのドレサージュへの興味は、もうひとつで、ドレサージュの高度な技を披露するウィリアムには、少しむなしい気持ちがあるのでした。

このあと、チャールズ1世VS議会派の内乱“清教徒革命”がおこり、どちらにつくか頭を悩ませる、またはあえて態度をはっきりさせない臣下も多いなか、ウィリアムは毅然とした態度で王党派の中心となり、1642年北部をとりまとめる司令官に任命され、同時にニューカースル侯爵に叙爵されます。

しかし、部下ムスチャンプ大佐に任せていたボルズオーバーは、1644年に議会派に降伏し没収されます。王党派は敗走。チャールズ1世は1649年に処刑され、チャールズ2世(1630-1685)はパリへ逃げます。ウィリアムもアントワープへ逃れ、ここでルーベンスの家を借家として借り、日々の糧を得るためにドレサージュの学校を開きます。そののち、パリへ移りチャールズ2世に合流します。

議会派に、「自分は間違っていた、これからは議会派に協力する」と頭を下げれば、議会派貴族として、ボルズオーバーや領地も返され、イングランドで元通り生活できると、議会派メンバーから何度も説得されました。しかし、ウィリアムは、決して迷いませんでした。宮廷で育ち、ヘンリーの高潔さを日々感じながら育ったウィリアムにとって、

王室を裏切るということは、ありえないことでした。ヘンリーは若くして病死しましたが、高潔な精神は、ウィリアムの中で生きていたのです

この先、ステュアート王室がどうなるか、など誰もわかりませんでした。それでも財産を全て議会派に没収された今も、チャールズ2世はウィリアムの王だったのです。

1660年王政復古で、チャールズ2世がイギリスに戻ります。ウィリアムの名誉と領地も晴れて全て元にもどり、これまでの忠誠が報われて、ニューカースル・アポン・タイン公爵に叙爵され、最高位の貴族となります。(ボルズオーバーは、破壊焼失を恐れた弟のチャールズが1652年議会派に謝罪し買い戻して、既にウィリアムの息子名義になっていた。)

王政復古のとき、ウィリアムは67歳、公爵にもなり、ほっとして引退生活に入るかとおもいきや、老年になっても新しいことを始めずにいられないベスのDNAの表出と思われますが、3年後の1663年に廃墟同然となったノッティンガム・カースルを購入し、エネルギー全開で全面改築を始めます。

ウィリアムは、ボルズオーバーに改修を加えながら、意欲的にノッティンガム・カースルの改築を進め、もちろんドレサージュも現役でこなし大会なども開いて、ドレサージュの本も執筆し、周りが驚くようなエネルギッシュな毎日を送っていましたが、まだ改築が終了しない1676年に83歳で死亡します。

ボルズオーバーの造りは独特で、ドレサージュを外で行えるグレートコート、室内で行えるライディングハウス、平屋づくりのステートアパートメント、そしてルネッサンス文化を色濃く反映した比較的狭いスペースが重なるタワー、リトルカースルから成っていて、ウィリアムの趣向が色濃く反映されています。

ウィリアムは、ドレサージュは王こそが身につけるべき素養だと書き残しています。王が訓練された美しい馬に乗り、正確なステップを堂々と踏むその姿は、国民や軍隊に王の揺るぎない権威を確信させ、王が神に選ばれた存在であることを強烈に印象づけると。

ボルズオーバーは、リトルカースル以外は、現在廃墟に近くなっていますが、ウィリアムの目指した「王族をおもてなしできる、ドレサージュを核とした館」の上品な姿は十分に堪能できます。私が訪れた日は、雲がたちこめる肌寒い秋の日で、黄金色の木々の葉がボルズオーバーに彩りを与えていました。

城壁の上は、ウォールウォークになっている