ヒストリックハウス名:Kew Palace
所在地域:イギリス、サリー
訪問:2018年7月9日

Queen Charlotte Sophia, Princess of Mecklenburug-Strelitz (1744-1818)
ジョージ3世王妃 シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツ
英国の王・女王の配偶者は、君主の隣で華やかながらも、なにかと遣り切れない思いをフツフツと胸にしながら日々を過ごし。自分ではどうしようもない国家レベルの騒動の中心にいることを避けることもできず。翻弄され、そんな中でも自分らしさを醸し出す人生を送ります。
そんな歴代君主の配偶者の中でも、特に私が注目するのはジョージ3世妃シャーロットです。
これまでの英国君主の最長在位は現在のエリザベス2世女王の68年間で更新中(在位1952-2020年10月現在、夫フィリップは即位前に結婚しているため同期間女王の配偶者)、次いでヴィクトリア女王が64年間(在位1837-1901夫アルバートは即位後に結婚し女王に先立って逝去、女王の配偶者期間は22年間)、その次に続くのがジョージ3世(在位1760-1820)の60年間で、シャーロットは即位翌年に結婚し、王に先立って逝去しましたが王の配偶者期間は57年間にも及びます。
よって、君主の配偶者期間でいえば、エリザベス2世女王の夫君フィリップに次いでシャーロットは2番目に長く、王を支える王妃としては史上最長在位となります。
そして、その57年間、精神疾患を抱える夫ジョージ3世と品行不良の15人の子供達に翻弄され続け、心が休まるときは実に少なかったのでした。
ジョージ3世は、父親フレデリック(1707-1751)が祖父ジョージ2世(1683-1760)より先に亡くなったため、1760年に22歳の若さで即位、そしてその翌年に17歳のシャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツと結婚します。シャーロットはヨーロッパで最も古い家系を誇る名門の一つメックレンブルク・シュトゥレリッツ公家カール・ルートヴィッヒ(1752年没)の末娘で、2人は結婚式で初対面でした。
翌年1762年に長男ジョージ(後のジョージ4世、1762-1830)が誕生し、その後1~数年毎に出産し9男6女もの子供達を得ます。
ジョージ3世は積極的に内政外交に介入しつつも、勇気があり誠実、正直、そして家庭、妻を大事にする王として、国民から尊敬されていました。
またシャーロットは、万事控えめ、温厚柔和で、気品と慈愛に満ち、華美贅沢に走ることは一切無く、国民からも議会からも理想的な王妃として敬愛され、ジョージ3世と深い愛情で結ばれ、信頼関係を築きます。
ジョージ3世とシャーロットは、キュー・ガーデンにあるホワイトハウス(現在は無い)、今回ご紹介しているキュー・パレス、王妃コテージなどで、ロンドンの喧騒から逃れて子供たちと家族でのひと時を過ごすのを楽しみとしていました。
なかでも、キュー・パレスはジョージ3世が子供時代を過ごした、いわば心のふるさと。宮殿としてではなく、商人の家として17世紀に建てられたその町家風のアットホームな造りを、2人はとても気に入っていました。
キュー・パレスの周りには広大なキュー・ガーデンが広がり、ジョージ3世の子供たちはのびのびとガーデンを駆け回り、豊かな自然に囲まれて子供時代を過ごします。
ジョージ3世とシャーロットがまだ20代で、子供たちが幼かった頃が、唯一シャーロットが、心穏やか、比較的幸せに過ごせた日々でした。
しかし後年、ジョージ3世は精神を患い、何度も発作を起こしたうえ、異常行動をとるようになってしまいます。その根本的原因は、3ヶ月も早い早産で生まれたことといわれますが、長男ジョージの度重なる不祥事や他の息子・娘たちの様々な事件が、繊細な神経をもつジョージ3世のメンタルに継続的かつ深刻に打撃を与えます。
そんな中、シャーロットは常に夫の側に立ち、献身的に尽くし優しく支えます。
1788年ジョージ3世50歳の頃には精神病が悪化、隔離療養が必須となり、国王でありながら、キュー・パレスに軟禁されてしまいます。家族の憩いの場所であったキュー・パレスは国王の隔離病棟となったのです。シャーロットもキューに滞在はしていましたが、症状が落ち着くまで2人の面会は医師の判断のもと許可されず、シャーロットはただ、ただ、国王の回復に朝に夕に祈りを捧げます。
長男ジョージを始め子供たちは揃って、絶望的に品行が悪く、親は勿論、国民を憤慨させる行動ばかりでした。特に次期国王、プリンス・オブ・ウェールズの長男ジョージは多額の借金、多数の愛人、結婚してすぐに別居、放埓な言動・深酒・乱痴気騒ぎと、国民にも議会にも呆れ果て見放された人物でした。そしてジョージの唯一の娘シャーロット(1796-1817)は出産で死亡。次男のヨーク公は長男ジョージの遊び仲間という感じで、全く頼りにならず。三男のウィリアムは海軍軍人として活躍するも、結婚はせず、ずっと愛人との生活。世継ぎの必要性から53歳で結婚したものの、生まれた長女、次女ともにすぐに死亡してしまいます。
15人もの子供がいたのにもかかわらず、ジョージ3世とシャーロットには、次世代の王を継承する孫がおらず、王夫妻は陰鬱とした気持ちになりがちで、また焦る議会はアラフィフ王子たちの結婚を国家的課題としていました。
シャーロットが可愛がっていたジョージの娘、唯一王位継承権をもつ(息子たちに庶子多数あり)孫のシャーロットが1817年に21歳の若さで出産が原因で亡くなったとき(この頃出産での死亡は珍しくありませんでした)、73歳のシャーロットはあまりのショックから体調を崩してしまいます。その後、ウィンザーに向かう途中で体調が急変、キュー・パレスへ緊急搬送され、病床につきます。そして、その後回復しないまま、翌年1818年11月17日にキュー・パレスでシャーロットは亡くなります。74歳でした。
シャーロット逝去の翌年1819年5月24日ケンジントン宮殿で生まれたのがヴィクトリア(1819-1901、後のヴィクトリア女王)です。王位継承者出産を目的として結婚したジョージ3世4男エドワードとライニンゲン大公エルネストの未亡人ヴィクトリア・メアリー・ルイーズの唯一の子供です。
シャーロットに先立たれ憔悴しきった、81歳の老王ジョージ3世はヴィクトリアの誕生を聞き、静かにうなずき目を閉じました。ジョージ3世は王であることに、もうすっかり疲れ果てていました。全てのことへの関心は失せ、今はただ、キュー・パレスでシャーロットと過ごした明るい夏の日を思い出し、シャーロットの優しい声を聞きたい、笑顔を見たいと、そればかりを思っているのでした・・・。


参考:”Discover Kew Palace“ Historic Royal Palace,「英国王室史話」森譲 中央文庫