ヒストリックハウス名:ウレスト・パーク

所在地域:イギリス、ベッドフッドシャー

訪問:2019年10月22日

どこまでも広がる庭園、水面奥にあるのがパビリオン

Henry Grey, 12th Earl and Duke of Kent (1671-1740)

ケント公爵及び第12代ケント伯爵ヘンリー・グレイ

ケント伯爵といえば、第6代伯爵ヘンリー(1541-1614)がメアリー・オブ・スコッツ(1542-87)の処刑時に、メアリーに対し大変冷酷な態度をとった処刑立ち合い人として知られます。処刑台に上る前にメアリーが、自分の女官2人を付き添わせたい・・・と、立会人に願いでたところ、ケント伯爵は冷たく「No」と言い放ち(但し、すぐあとにシュールズベリー伯爵が許可)、メアリー処刑後すぐに「これで邪魔者はいなくなった」と喜びの声を上げたと記録されています。そのグレイ伯爵のカントリーハウスの一つが、このウレスト・パークです。

第6代伯爵ヘンリーの直系子孫ではありませんが、一族としての子孫第12代ケント伯爵ヘンリーが今回の主役です。ヘンリーは大陸(主にイタリア)へ芸術見聞を得るために出かけたグランド・ツアー(当時の貴族の子弟の教養習得の仕上げとして一般的だった)で得た知識を得て、ウレストに広大な庭園を開発します。

英国の人々の生活は、どの階級でも君主の在り方に大きく影響されます。特に貴族層にとって、その影響は色濃く、中世では命を左右し、近世以降でも社会的地位や財産の行く末は、君主の意志、又は君主の取り巻きによる君主の決定、にかかっています。

ヘンリーは、1671年王政復古チャールズ2世の時代に生まれ、1740年のジョージ2世の治世で亡くなるまでの69年間、チャールズ2世(在位1660-1685)、ジェイムズ2世(在位1685-1688)、ウィリアム3世(在位1689-1702)&メアリー女王(在位1689-1694)(共同君臨)、アン女王(在位1702-1714)、ジョージ1世(在位1714-1727)、ジョージ2世(在位1727-1760)と実に6人もの君主に仕えました。

上位貴族にとって、これは大変に疲れることでした。

ジェイムズ2世からオランダから来た(オレンジ公)ウィリアム3世への譲位は、名誉革命と呼ばれています。しかし、ジェイムズ2世が夜逃げするような形で去る前は、将来を大きく左右する思惑、どちらにつくべきか、で貴族たちは揺れに揺れ動いていました。その頃、ケント伯爵はまだ、父アンソニー(1645-1702)の時代でヘンリーは当主ではありませんでしたが、父が思い悩んだ末、ウィリアム3世側につくと知り「時代とはこうやって変わっていくのか」とヘンリーは、妙に冷静な気持ちになったのでした。

ヘンリーが伯爵位を継いだのは、1702年アン女王即位の年です。女王になったとき、アン女王は37歳。6歳年下のヘンリーは、アン女王の側近中の側近セアラ・チャーチル(1660-1744)が取り仕切る宮廷の中で、うまく役割を果たして認められ、王室担当大臣(Lord Chamberlain)に大抜擢されます。1710年には公爵に叙爵され、アン女王の宮廷で“時の人”となります。

セアラ・チャーチルとアン女王については、映画「女王陛下のお気に入り」(2018年、原題「The Favourite」)で描かれています。

しかし、セアラの小間使いのようになっているヘンリーに、宮廷の人々は冷たい視線を送り、“即席公爵”などと言われ、公爵位にあるにもかかわらず侮蔑の態度をとられるようになります。ヘンリーは、精神的に強い人物で、時代は移り変わるもの、人々の噂は消えるもの、と達観していて、礼儀を欠く周りの態度を全く気にしない様子でした。

ヘンリーのカントリーハウス、ウレスト・パークは、中世に建てられた、その当時の感覚からすると古ぼけた館でした。館の前には、申し訳程度の庭園はあったものの、グランド・ツアーで、イタリアやオランダ、ドイツのプロ仕様の広大な庭園をみてきたヘンリーから見ると、なんとも物足りない有様です。

ある日、ヘンリーは、思い立ちます。「こんな庭は、公爵の私にふさわしくない」と。

イギリス貴族にとって、庭園は、社会的地位を誇示するものであり、文化知識を見せつけ、政治的立場を明らかにする手段でした。16世紀ではイタリアルネッサンスの影響を受けた庭園、17世紀ではフランス・オランダ風庭園、18世紀になると風景式庭園が大きなトレンドで、それぞれの時代を反映した見事な庭園がイギリス各地に今も数多く遺ります。

ヘンリーは、早速、人気建築家トマス・アーチャー(1668/9-1743)に相談し、広大な庭園開発を始めます。トマスはオックスフォード大学トリニティカレッジ卒のインテリ建築家。幾何的アイデアを多用した革新的な建築で、引く手あまたの人気建築家でした。トマスは、それまで平面的だった建物の壁面全体に凹凸を設けた造りを、得意としていて、ウレスト・パークの庭園に建つパビリオンにもその手法が見られます。

ヘンリーとトマスは、1710年頃から20年以上をかけて庭園を開発。オランダ風の並木道、いくつもの運河、池、さまざまな散歩道、イタリアンガーデン、ウォールドガーデン、ローズガーデン、オランジェリー、エバーグリーンガーデン、ボーリングガーデン、パビリオン(寺院風の建物)などその当時、考え得る全ての庭園の要素に新しい要素を加えた壮大華麗な庭園が開発されました。

景観を計算し、植樹され水路も作られます。空が水路に映りこみ美しい。

一方、ハウスの方は、古ぼけた造りのままでしたが、ヘンリーは、君主が次々と入れ替わる時勢の中、立派なハウスを新築する気にはなれなかったのです。(ヘンリー8世が臣下ウルジー所有のハンプトンコート、ホワイトホールを召し上げたのは、この頃の貴族にとってまだ教訓となっていました。)

ヘンリーは、完成した庭園を前にし、「やっと、私にふさわしい庭園となった。随分時間は

かかったが。トマスに頼んで正解だ。洗練されたパビリオンが私の趣味の良さを、よく表現している」と、満足げでしたが、晩年の課題はこの庭を誰に引き継ぐか、ということでした。

69歳まで生きたヘンリーは2度結婚し、13人の子供を設けましたが、ヘンリーが亡くなる前に13人のうち11人が亡くなります。息子は一人もヘンリーより長生きできず、ヘンリーが情熱をかけて開発した庭園とハウスは、孫娘ジェミーマ・キャンベル(1723-97)に引き継がれます。ジェミーマには息子が生まれず、その後ヘンリーの玄孫第2代グレイ伯爵トマス・フィリップ・ロビンソン(1781-1859)がウレスト・パークを承継します。

このトマスが、古ぼけた中世の館を、目が覚めるような洗練されたフランス風建築の現在のハウスに立て替えます。次回は、トマスの館の新築について書きます。お楽しみに!

奥に見えるのが、ハウス