ヒストリックハウス名:ウレスト・パーク

所在地域:イギリス、ベッドフッドシャー

訪問:2019年10月23日

広大美麗な庭園を一望する、敷地北端に建てられた館

Thomas Philip Robinson, 2nd Earl de Grey (1781-1859)

第2代デグレイ伯爵トマス・フィリップ・ロビンソン

前回、ウレスト・パークの壮大な庭園を造り上げたケント公爵ヘンリー・グレイ(1671-1740)について書きましたが、今回はこのケント公爵の玄孫で、ウレスト・パークの館を建てた第2代デグレイ伯爵トマス・フィリップ・ロビンソン(1781-1859)をご紹介します。

トマスは、第2代グランサム男爵トマス・ロビンソンの長男として生まれますが、1833年、52歳のとき、亡くなった叔母アマベルから伯爵位、そしてウレスト・パークを承継します。そして壮大な庭を前に建つ古ぼけたテューダー形式の館を、トマスは全て取り壊し、斬新なフランス様式の館を新築します。

トマスは37歳から亡くなるまでベッドフォード州知事(Lord Lieutenant of Bedfordshire)を務め、同時に海軍本部のトップである海軍卿、アイルランド総督を務め、ジョージ3世時代からヴィクトリア時代まで、国の要職を歴任します。

好奇心旺盛な人柄であることに加え、この時代の風潮も影響して、広範囲に趣味を拡げ、自ら「人々が興味をもつもので、自分が全く知らない事柄は、無い」と公言していました。

産業革命の時代(1780年頃~)は、イギリスがさまざまな近代的な技術を世界に送りだしている影響からか、貝殻から鉄道まで、幅広い事柄に興味をもち、そして探求・実践していくことが、ジェントルマンの“嗜み”であり、その幅が広ければ広いほど、また深ければ深いほど、“紳士度”が上がり、良いとされていました。

博学トマスの最大の関心は、父の影響もあり「建築」でした。ヨーロッパ特に、フランスでの建築にトマスは大きく感銘をうけ、イギリスの建築にもっと洗練されたテイストを加えることを自分の使命とします。

アマチュアながらプロの建築家をうならせるほどの設計図を自ら引き、バッキンガム宮殿の拡張工事、ウェストミンスターの議員会館など国家的建築物の他、セント・ジェームズスクエア(ロンドン)の自身の館の大規模改修も手掛けています。

そしてトマスにより、カントリーハウスとして、初めて“フランス”様式で建てられたのが、このウレスト・パークです。イギリスには、フランス風の館“シャトー”は稀です。

ウレスト・パークが建てられた後、1874年にヴァッズドン(Waddesdon Manor)がロスチャイルド男爵フェルデナンドによってバッキンガムシャーに建てられ、この二つが代表的なフランス風の館として知られます。

トマスは、24歳のとき3歳年下の、アイルランドの伯爵令嬢ヘンリエッタ・フランシス・コール(1784-1848)に一目ぼれでプロポーズ。結婚後、ヘンリエッタが64歳で亡くなるまで、お互いに尊敬し合うとても仲のよい夫婦でした。

ヘンリエッタの愛称は、「ネッテ」、トマスは、ネッテのために「伯爵夫人の部屋」を丁寧に設計し、ネッテの好みを聞きながらも、すべてトマスがインテリア、壁紙やドアにいたるまで選びます。

革命後のフランスでは貴族の館から、あらゆる家具や装飾品が市場に流出し、

フランス風の館の内装を整えるのに、苦労はありませんでした。クリーム色の壁に金色の装飾細工、バラの模様のソファ、エレガントな曲線をもつ家具。これらは全て、フランスから輸入した“フランス製”で整えられました。

トマスは、ネッテの部屋を「この部屋を造った人を、思い出さずにはいられないような」部屋にしたかったと、語っていました。妻への変わることのない愛情が感じられる言葉です。

ネッテの部屋には、三方がガラスの壁でできているコンサバトリーが隣接しています。コンサバトリーには、温水パイプが配されて、冬でも温かく、陽が射す部屋から広大な庭を見渡せるようになっています。寒冷の地アイルランドで育ったネッテは、コンサバトリーが自室の一部にあることをとても喜び、トマスに「あなたは、私よりも、私が喜ぶことを知っているわ。こんなに幸せを感じられる場所はないわ。」と言って微笑んだのでした。

ネッテの部屋

ロンドンから遠すぎないウレスト・パークには、時の首相ロバート・ピール(1788-1850)がトマス夫妻を頻繁に、訪れました。アイルランド担当大臣を務めたこともあるピール首相とアイルランド出身でアイルランド事情をよく知るネッテは、話が合いました。トマスはこの時代の男性としては珍しく煙草を嗜まなかったため、スモーキング・ルームに男性だけでたむろするという流れでなく、男女問わず、夕食後もドローイングルームで政治談議を

していました。(当時は、ゲストを迎えたとき、夕食後、男性はスモーキング・ルームで煙草やビリヤード、カードを楽しみ、女性はドローイングルームでお茶を飲みながらおしゃべりというのが一般的な流れでした。)

ネッテは、アイルランドは穀物法(イングランドの保護主義政策)によって苦しんでいると、ピール首相にアイルランド問題を熱心に、しかし冷静に訴えつづけます。ネッテの熱意ある現実的な話、アイルランド飢饉の惨状は、ピール首相の心をゆり動かし、紆余曲折、政治的動乱の末、国家的課題であった穀物法は、ピール首相により廃止されました。

ウレスト・パークでのネッテとの夕食後の政治談議は、イングランドのアイルランド政策、ひいてはイギリスが自由貿易へ向かうターニングポイントにつながったのでした。(2020年現在、ブレグジットでまた方向が変わろうとしているわけではありますが。)

ネッテは、トマスに先立ち、1848年に64歳で亡くなります。

トマスは、本職の政治家としての実力と共に、趣味で行っていた建築家としての実績を広く認められ、1835年にはイギリス建築家の最高名誉職である王立建築院の総裁に選出され、以降1859年に、死亡するまでその職にありました。

トマスが教科書にしていたフランス建築の本が石膏飾りに、なっている。

※実話をもとにしたストーリーです。

参考:「Wrest Park 」English Heritage、「英国王室史話」森譲