ヒストリックハウス名:ケニルワース

所在地域:イギリス、ウォーリックシャー

訪問:2017年3月26日

威風堂々、ランカスター一族の拠点

John of Gaunt (1340-1399)

ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント

ジョン・オブ・ゴーントは、賢王といわれるエドワード3世の第6子、四男です。兄のライオネル・オブ・アントワープ(1338-1368)とは二つ違い、弟のエドマンド・オブ・ラングリー(1341-1402)とは一つ違いで、小さいころから3人は、ライオンの子供が遊びながら戦い方を身に付けるような感じで、じゃれあいながらもお互いに並々ならぬ競争心をもって育っていきました。

ジョンは19歳でヘンリー3世の玄孫で父エドワード3世の無二の戦友であり、ガーター騎士団創設時メンバーのランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモント(1310-1361)の娘、詩人チョーサーが「白の貴婦人」と称した絶世の美人とされるブランシェと結婚します。

結婚翌年にヘンリーが亡くなると、息子がいなかったため、ランカスター公位、ケニルワースを含む広大なランカスター領、ダービー伯領、リンカーン伯領をすべて娘婿ジョンが承継します。

20歳そこそこで、広大な領地と公位を得たジョンは、ケニルワースを自分のメインの居城に相応しくするため大幅な増築を行い、頑強な要塞としての設備を整えます。戦乱が日常であったこの時代、王の四男としてそれは当然のことでした。

ジョンの長兄は、勇敢な騎士として誉高いブラック・プリンス(1330-1376)。誰もが、彼が王を継ぐと考えており、それはジョンも同じことでした。父エドワード3世に忠誠を尽くしてきたように、兄エドワードが即位した暁には忠誠を尽くし、何があっても兄についていき、兄を守り、王室を守る、という一点の曇りもない強い忠誠心をもっていました。

しかし、人々の想像のように物事は進ます、ブラック・プリンスは王位につかないまま46歳で病死。失望したエドワード三世が翌年1377年に65歳で亡くなると、まだ10歳のブラック・プリンスの息子リチャード(リチャード2世1367-1400)が即位します。

ジョンは伯父としての立場からリチャード2世の世話役を任されるものの、10歳で即位し、周囲からはれ物にさわるように扱われているリチャード2世の言動は、ときにジョンの許容範囲を大きく超え、それを我慢しているうちに、いつしかジョンはリチャードに大きな不信感と猜疑心を抱くようになります。

それをずっと傍で見ていたのが、ジョンの長男ヘンリー・ボリンブログ(後のヘンリー4世、1367-1413)です。ヘンリーはジョンの厳しい指導のもと忠誠心ある勇敢な騎士となり、その彼の確固としたアイデンティティは「父母ともに直系王族」であることでした。

父、ジョンはエドワード3世の息子、母ブランシェはヘンリー3世の玄孫ということで、周りを見渡してもこれほど正統かつ名誉ある血が濃く流れる若手王族は珍しく、そしてその名誉ある血筋を父ジョンから日々聞かされ育ったヘンリーのプライドは相当なものでした。そして王族のあるべき姿、とるべき行動を父から実践的に現場でおしえられてきたヘンリーにとって、同い年、従弟のリチャード2世の奔放かつ自己中心的な言動は時に許しがたく、王族の存在を汚すものと映ります。

一方、王位継承順位となると、また話は別です。ジョンは四男です。ジョンと一緒にそだったエドワード3世の三男ライオネル・オブ・アントワープ(1368年死亡)の娘フィリッパの息子ロジャー(1374-1398年)そしてその息子エドマンド・モーティマー(1391-1425)がリチャード2世を継ぐ、正当な王位継承者です。しかし、ロジャーの父親は第3代マーチ伯エドマンドで、マーチ伯の祖先はエドワード2世の妻イザベルの愛人で処刑(1330年)されています。

ジョンとヘンリーにしてみれば、現王リチャード2世への不信感が募るとともに、次王に関しても、王家の不名誉な過去に直結する祖先をもつロジャーよりも、ヘンリーの方がよっぽど「正統」かつイングランドに相応しい王位継承者であると思うようになるのでした。

そんな中、ヘンリーは、リチャード2世に謀反の嫌疑をかけられ6年間の国外追放となります。ところがヘンリーが国外にいる間にジョンが死亡すると、リチャード2世はケニルワースを含むジョンの広大な領地を全て没収したことから、ヘンリーは激怒して帰国。そして国内の大方の貴族が、自分たちの権利保護も見据えてヘンリーに味方したことからリチャード2世は自ら退位し、1399年ヘンリーが議会選出という大義のもと、ヘンリー4世として即位します。

ジョンの息子ヘンリーは、こうして正当な継承者を飛び越えて王となったことから「王位簒奪者」と呼ばれることもあります。

ジョンは、ヘンリー4世即位前に死亡していますが、ジョンの「血族」の勢力拡大は息子ヘンリーの国王即位で終わるものではありません。

ジョンは、娘フィリッパをポルトガル王ジョアン1世に嫁がせ王妃としました。また自身はスペインカスティル、レオン王国国王ペドロ1世の娘コンスタンスと2度目の結婚をし、カスティル、レオン王を自称します。そしてこの結婚での娘キャサリンは、戦乱で国王が変わったあとのカスティル王妃となります。

つまり、ジョンの娘二人は、大陸スペイン、ポルトガルのそれぞれ王妃であったわけです。

また、コンスタンスとの死別後、ジョンは長年の愛人であったキャサリン・スウィンフォード(1403死亡)と3度目の結婚をします。キャサリンとの間には3男1女の4人の庶子がありましが、結婚後、この4人は王位継承権無しの摘出子としてリチャード2世に認められます。

しかし、庶子だったこの4人の子孫から、後のエドワード4世、エドワード5世、リチャード3世、ヘンリー7世、スコットランド王ジェイムズ2世と、イングランド、スコットランド合わせて4人が王になっています。ランカスターVSヨークのバラ戦争が歴史上よく知られますが、ヨーク家の王たちも、たどればランカスター一族のいわば中興の祖であるジョンの血が流れているのです。

さらに、ジョンのDNAは、ヘンリー7世から連綿とつながり、現在のエリザベス2世女王までつながっています。

ジョン・オブ・ゴーントは、生きている間はリチャード2世に立場上屈していましたが、歴史的な業績も子孫も残さず、不名誉なまま亡くなったリチャード2世より、はるかに歴史的な功績ある人物といえるでしょう。

子供の頃じゃれて一緒に遊んでいた兄ライオネルの子孫からは、ヘンリー4世が王位を勝ちとり、弟エドマンドの子孫ヨーク家からもヘンリー7世が、王位を勝ち取ったのです。王位を勝ちとするならば、真ん中の子、ジョンの大勝利です。

ジョンが増強・整備したケニルワースは、ランカスター一族の王たちの“シンボル拠点”として威風堂々、ヘンリー8世の時代まで「王家の要塞」としてそびえてきました。

今は、すっかり廃墟ですが、最初に一目みたその瞬間、あまりの迫力、規模の大きさに

圧倒され、呆然としてしまいました。ジョンの勢力拡大へのとどまらない意欲は、まだケニルワースから静かに伝わってくるのでした。

ドラマシリーズ「ホロウ・クラウン」エピソード2で、即位前のヘンリー4世が、リチャード2世(ベン・ウィショーが好演)の側近2人を湖の前で斬首するシーンがあります。ロケ地はケニルワースではありませんが、このシーンはケニルワースを意味していると思います。ケニルワースの城周囲には川をせき止めてつくったメアと呼ばれる湖があり、ケニルワースを特徴づけるものであるからです。(現在は水は無い)

次回は、さらに時代を進めて、ケニルワースでのエリザベス1世と忠臣及び恋人のロブのストーリーを書きます。来年1月8日のアップ予定です。

2020年12月25日には、今年と来年についてのクリスマスメッセージをアップいたします。お楽しみに♪

参考:「Kenilworth Castle」English Heritage、「英国王室史話」森譲