ヒストリックハウス名:ワシントン・オールド・ホール

所在地域:イギリス、タイン・アンド・ウェア(ダラム)

訪問:2019年7月4日

ジョン・ワシントン (1631-1677)

米国初代大統領ジョージ・ワシントンの曾祖父

アメリカでは、バイデン新大統領が就任され、よかったです。ご高齢で無事に就任式を迎えられるか少し心配でした。

今回はアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン(1732-1799、大統領就任は1789年57歳で。)の祖先の家、イングランド北東部ダラムにあるワシントン・オールド・ホールをご紹介します。

イングランド北東部ニューカースルの少し南に、ワシントンという小さな村があります。

この村に入るところに、「Welcome to the ORIGINAL Washington 」(元祖ワシントンへ、ようこそ)と、とっても小さな公的道標があり、思わず微笑がもれてしまいました。

そうです、アメリカのワシントンDCやワシントン州が誕生する、はるか前からワシントン村はずっとここにあるのです。

12世紀ワシントン村(現在は、Washington ですが、古くはWessngton )にワシントン初代大統領の祖先、ウィリアム・デ・ハーバーンがダラム司教に任命されワシントン教区に着任。ウィリアムはワシントン教区の司教となったので、わかりやすいように名前をウィリアム・デ・ワシントンと改名しました。

もしウィリアムが名前をワシントンに変えなければ、アメリカの首都は、違う名前になっていたかもしれません。ウィリアムは自分のラストネームが、将来、世界の大国の首都の名前になるとは・・・夢にも思わなかったことでしょう。

時代は進みウィリアムの子孫、ジョン・ワシントン(1631-1677)が、ハートフォードシャー、トリングで生まれます。

トリングは、私がイギリスでよく滞在するコテージの近くで馴染みがある地域です。ロンドンから車で1時間ほどですから、17世紀でもロンドンとの行き来はかなりあったことでしょう。

ジョンの子供時代、チャールズ1世(1600-1649)と議会派クロムウェル(1599-1658)は激しく対立し国内戦(清教徒革命)が繰り広げられていました。

ジョンの父、ローレンスはオックスフォード大学の教員で、ジョンをロンドンのチャーターハウス校(現在もある名門パブリックスクール)に入学させようとしますが、ジョンは気が向かず、親戚に頼んで紹介してもらった貿易商社での使い走りなどをするようになります。

ローレンスはオックスフォード大学教員から議会官僚に職を変えましたが、国王支持派であったため、議会から寒村の司教へ突然左遷され、貧しく、またいつ逮捕されるかもしれない厳しい生活に。一方、ジョンは親から離れロンドンの商人の家に住み込み貿易の手伝いをしていました。

国内戦は、当初チャールズ1世国王軍が優勢であったものの、途中からクロムウェルの鉄騎隊が活躍し、国王軍が劣勢に。それでもチャールズ1世が絶対王制を譲らなかったことから一方的な裁判により死刑が決まり、1649年1月30日がその日となります。

国王処刑と聞き、18歳のジョンは処刑場のバンケットホールに駆けつけます。しかし、ものすごい人だかり。国王の処刑台ははるかかなたです。集まった群衆は、不安に畏れおののいている者、ただ興奮して叫んでいる野次馬、歴史的瞬間を見逃すまいと緊張している人と種々雑多。処刑場周辺は、議会軍が取り巻き、落ち着かない不穏な空気が辺りを包んでいます。

もともとクロムウェル率いる議会派は国王の処刑までは考えておらず、議会の権限の拡張、旧態依然とした絶対王制から議会民主主義への進歩を狙って始まった内戦でした。しかし、国王が絶対王制を言い張るばかりに、議会派内の急進派が思いつきといった感じの勢いで、国王処刑に走り、誰も止められずに当日になった・・・といった流れでした。

処刑台に漂う張り詰めた雰囲気は遥か遠くにいるジョンにも伝わってきます。待つこと5時間、ついに国王が現れ、「私は人民のために命を捧げる」というような主旨のスピーチを堂々と行い、断頭されました。

チャールズ1世は、真面目な人柄で議会派が台頭する前は、よき国王、よき夫、よき父として国民に広く敬愛されていた人物です。

断頭後、民衆は直感的に怒りを感じ、空がわれるような大勢のブーイング、不満の声が鳴り響きました。そして、その怒りの声は日が暮れるまで続いたのでした。

ジョンは、国王処刑後つぶやきます。「もうこの国は終わりだ。」そしてこのとき、イギリスから離れることを本能的に決意します。

ジョンは、知人友人から借金をしてアメリカ行タバコ交易船に投資し、1656年25歳のときに自分も投資しているからと船長を説得し、経験もないのに副船長として船に乗り込みます。しかし、悪天候で安普請の船はヴァージニア州ポトマック川河口で沈没してしまいます。

イギリスへ帰る船がなくなったジョンは、アメリカに住むことを決め、アン・ポープと結婚。アンとの結婚で得たヴァージニアの土地を基盤にタバコ栽培のプランテーションを開発し大きく発展させました。そしてその富は子孫に引き継がれます。

アメリカでジョージ・ワシントンの家としてよく知られるマウント・ヴァーノン(旧名:リトル・ハンティング・クリーク)はジョンの富で得たものです。

ジョンの長男ローレンス・ワシントン(1659-1698)は、その頃イギリス移民2世にとってはごく一般的なこととして青年期にはイギリスで教育を受けアメリカに戻りプランテーション経営をしつつ行政職、軍事職を務めました。

そしてローレンスの次男オーガスティン・ワシントン(1694-1743)は土地を買い増し、タバコプランテーションを発展させます。オーガスティンの2度目の結婚で生まれたのが、米国初代大統領となるジョージ・ワシントンです。

ジョン→ローレンス→オーガスティン→ジョージ・ワシントンという系譜で、ジョンはジョージ・ワシントンの曾祖父にあたります。

イギリスではチャールズ1世の処刑後、11年間のクロムウェル父子の混乱の時代を経てチャールズ2世(1630-1685)が再び王位につき王制が復活。チャールズ1世の処刑は一体何の意味があったのか、チャールズ1世が気の毒すぎる、という見方もあります。

しかし、議会による国王の処刑という史上稀な出来事があったからこそ、ジョンをはじめ多くの情熱溢れる若者がアメリカに渡り、子孫ジョージ・ワシントンがアメリカ初代大統領になったという流れをみると、チャールズ1世の処刑がアメリカ合衆国を産んだようにも思えます。

1ドル札に印刷されているジョージ・ワシントン。星条旗と共に、アメリカの象徴です。

ゆえに、ジョージ・ワシントンの祖先の家であるワシントン・オールド・ホールは、どこにでもある地味な、中世の小規模な館で、ワシントン一族が使っていた家具などは一つもないのですが、アメリカ人の来訪、寄付がとても多いのです。初代大統領の祖先の家に来ることにより「自国のルーツを知りたい、たどりたい」というアメリカ人の方々の欲求が、このオールド・ホールで少し満たされるのかもしれません。

1977年5月には同年1月に米国大統領に就任したジミー・カーターが、初めての外遊先としてイギリスを訪れ、ロンドンに続いてワシントン・オールド・ホールを訪れました。カーター大統領はマウント・ヴァーノン(前述)の水彩画をホールにプレゼント、オールド・ホールからはホールの水彩画をプレゼントするという一大イベントがありました。

ワシントン・オールド・ホールを私が訪れたとき、星条旗が青い空にはためいていました。(冒頭写真)その旗を見上げていると、スタッフが今日は年に3回だけ旗を掲げる日の一日よ、とおしえてくれました。その日は、偶然にも7月4日、アメリカ独立記念日だったのです。あとの2回はジョージ・ワシントンの誕生日(2月22日)と確かもう一日は、

サンクス・ギビング(感謝祭)だったと思います。

ジョンの親戚、ウィリアムの子孫は、オールド・ホールに500年に渡り代々住み続けますが、1613年に子孫ジョン・マロリー(女系子孫)がサルグレーブ・マナー(ジョージ・ワシントンのもう一つの祖先の家としてよく知られる)に引っ越すにあたり売却します。

その後、一時、廃墟になりかけた時期がありましたが、地元の教師フレデリック・ヒルの多いなる尽力から救われ、現在はナショナル・トラストが保存運営しています。

オールド・ホールにはよく手入れされたトップ・ガーデンとナタリーと呼ばれる林があり、小さな子供を連れたママや保育園のお散歩隊がきていました。よく晴れた7月4日でしたが、人はまばら。ワシントン初代大統領の祖先の家は、アメリカ人が訪れたい場所であるとと同時に、地元の人々の憩いの場、散歩の場となっています。

最後に、アメリカ、ヴァージニア州にあるマウント・ヴァーノンを私は以前に訪れたことがあり、オールド・ホールに飾られているマウント・ヴァーノンの水彩画を見たときは、感慨深いものがありました。

ワシントンファミリーが代々住んだマウント・ヴァーノンは、小高い丘の上にあるどちらかというと質素な家でした。部屋数も少なく、イギリスのカントリーハウスのような人を圧するような趣はどこにもありません。天井が低く、小さめの部屋から成る木造の家で、家庭的な温かみを感じました。ワシントン一族は、富裕であってもイギリス式の壮麗なカントリーハウスを建てるという意向とは縁が無かったようです。

※実話に基づいたストーリーです。

参考:「Frederick Hill and Washington Old Hall」Shelia Arbuckle, Wikipedia,「Howay the Lads ! When American President Jimmy Carter thrilled New Castle 」ChronicleLive

6 May 2017,「英国王室史話」森護