ヒストリックハウス名:ドーバーカースル

所在地域:イギリス、ケント

訪問:2016年6月15日

Henry II, Curtmantle(1133-1189)

ヘンリー2世・カートマンテル

とても長い交渉期間を経て、イギリスは今年1月1日についにEUを脱退しました。イギリスとヨーロッパ大陸が一番近いところは、ドーバー海峡。海底にはトンネルが通りユーロスターが行き来し、海では物資、旅客を運ぶ船がひっきりなしに行き来しています。私がドーバーカースルを訪れたとき、海峡には、大規模輸送船が列をなして連なり、その列は遠くフランスのカレーまで続いていて壮観でした。

ドーバーカースルは、天然の要塞ともいえる、切り立った白いチョークの岸壁の上の丘に建ち、古くはローマ人が要塞を構えていました。そのあとサクソン人がローマ人の要塞跡を利用して拠点をつくり、その後ケントの王がその拠点跡に教会を建てます。そこへウィリアム征服王(1027?-1087)がやってきてドーバーの町全体を焼き払い、新たな要塞をつくりました。

ウィリアム征服王のあと、イギリス王は弟のウィリアム2世(1060-1100)、次弟のヘンリー1世(1068-1135)と兄弟での承継が続き、ヘンリー1世の息子二人が海難事故で死亡したことから、甥のスティーブン(1097-1154)が王となりスティーブンの死後、ヘンリー1世の娘マティルダの息子ヘンリー2世が王位につきます。

ヘンリー2世は、20歳でフランスのブルターニュ、トゥールーズなど広大な領地をもつ女子相続人であった11歳年上のエリナ―(1122?-1204)と結婚(エリナ―は2度目の結婚)。1154年、21歳で王に即位したときには、父アーンジュ伯ジョアフリーからノルマンディー、メーヌ、アーンジュなど、母マティルダからは、ウェールズ、アイルランドの一部、イングランド全土を継承し、北はスコットランドの境界線から、南はピレネー山脈までを領土として、西ヨーロッパ最大の領土をもつ王となりました。

ヘンリー2世は、生まれも育ちもフランスのアーンジュで、母語はもちろんフランス語、英語は一切理解せず、また理解しようともしなかったそうです。本業は西フランス王で飛び地としてのイギリスもみているといった感じで、イギリスの服装ではありえなかった、フランス風の短いマントを常に着用していたので、ヘンリー2世・カートマンテル(短いマント)と呼ばれるようになりました。当時のイギリス宮廷では、フランス語を話す貴族もまだ多く、特にイギリス統治に支障はなかったようです。

王位についたヘンリー2世は、即位翌年の1155年、カンタベリー大司教の首席助祭でヘンリーより15歳年上、37歳のトマス・ア・ベケット(1118-1170)を大法官(最高裁判所長官と首相を兼ねたような職)に大抜擢します。当時ローマ教皇の組織下にあるカンタベリー大司教は、王と対峙するような権威を持ち、イギリス王にとっては目の上のタンコブのような存在でした。さらにヘンリー2世即位時のカンタベリー大司教シーアボールトは老人で化石のような人物。権威主義、前例踏襲主義でヘンリー2世は辟易とします。そんなヘンリー2世を、トマス・ア・ベケットは“頼りになる兄さん”といった感じで支え、なにかと知恵をかしてくれ、ヘンリーは信頼していたのです。

ヘンリー2世は、若い王らしく兵役や税制のあり方の刷新を考え、シーアボールトにも意見を求めますが、シーアボールトは改革案には全く耳を貸さず、ヘンリーは途方にくれます。そんなときトマスは「王の意見としてではなく、実力をもつ複数の北方諸侯から提言させるという方法もあるかも。」とヘンリーが思いもつかなかった事の進め方を明示してくれるのでした。

そして1161年、シーアボールトが死没するとヘンリー2世は、トマスを大法官との兼任でカンタベリー大司教に任命します。前代未聞のさらなる大抜擢。しかし、トマスはヘンリー2世の意向に従わず、大法官を辞退したうえでカンタベリー大司教に就きます。辞退といえば現代では謙虚というニュアンスが含まれることもあるかもしれませんが、当時は王の意向に背く=王の軽視、とみなされることをやってのけ、周りは驚愕します。しかし、この時点ではヘンリー2世は眉をしかめながらも、しぶしぶとトマスの辞退を受理します。

3年後、ヘンリー2世とトマスの間に、さらなるヒビが入ります。1164年にヘンリー2世がクラレンドン法(聖職者の特権に制限を加える)を制定すると、反対を表明していたトマスはフランスに移ります。その後、クラレンドン法の制定に賛成した聖職者をクビにするなどしたため、ヘンリー2世は怒りを表明します。

そして、2人の間の亀裂を決定的にする事件がおきます。ヘンリー2世は、息子ヘンリーへの王位継承を確定させるため、トマス不在の間、ヨーク大司教の手で自分の生きている間に戴冠させます。カンタベリーを軽視したこの戴冠にトマスは激怒。1170年にトマスはフランスに帰国しますが、この「ル・ジューン(ヤング・キング)」戴冠に関わった司教に帰国するなり制裁を加えます。この制裁で、今度はヘンリー2世が激怒。二人の対立は、決定的なものとなります。(ル・ジューンのヘンリーはヘンリー2世より先に病死)

ル・ジューンの件で、「王の私をバカにするのか、我慢ならん!」といって激昂するヘンリー2世の傍に仕えていた側近の騎士、ヒュー・ドゥ・モービルら4人の騎士が12月29日夜カンタベリー大聖堂を急襲し、聖堂の北西側翼廊(トランセプト)で、トマスを誅殺します。ヘンリー2世の指示ではなかったようで、騎士4人が王の気持ちを忖度したうえでの誅殺とされています。

3年後1173年、トマスは法皇アレクサンドル3世によって聖人に加えられます。(後にヘンリー8世によって聖人より削除)そしてトマスが暗殺された場所は、「ベケット廟」と呼ばれ、訪れた人の重病が治ったなどの噂で、瞬く間に一大巡礼地となりました。

ヘンリーは、トマスの聖人昇格を否定し、認めませんでした。が、徐々にイギリス領内で貴族の反乱が相次ぎ、政治的に教会の協力がどうしても必要になり、いやいやながら、トマスの聖人化を公に認めます。カンタベリー大司教は、ヘンリー2世に懺悔を求め、儀式的な鞭打ちを課します。カンタベリーの公衆の面前で、儀式的にとはいえヘンリーは鞭打ちをうけ、謝罪。苦虫を噛み潰したような表情のヘンリーは、それでもトマスに助けられた日々を懸命に思い出し、なんとか自分の怒りやプライドをおさえます。

教会の協力を得るためには仕方ないとはいえ、なんというか、「半沢直樹」の「土下座」を思い出します。

時は流れ1179年。フランス王ルイ7世が、重病の嫡男フィリップ・オーガスタスの回復に一縷の望みをかけてカンタベリーのベケット廟を訪れることが急遽決まったとの知らせをロンドンで聞いたヘンリーは、自ら騎乗し大慌てでドーバーまで迎えにいきます。

なんとか間に合い、ウィリアム征服王が建築したドーバーカースルで、ルイ7世を迎えます。しかし当時のドーバーカースルは、味気ない要塞そのもの。賓客を迎える部屋も設備もなく、調度品もない、すきま風が吹き抜けるみすぼらしい部屋でルイ7世を迎え、ヘンリー2世は恥じ入ります。

翌年1180年からヘンリー2世は当時としては巨額の£6,000を投じてドーバーカースルを10年かけて大規模改修、4階建てのノルマン様式グレートタワーを新たに建築。立方体に建てられたグレートタワーは、タワー・ロンドンにあるホワイトタワー(ウィリアム征服王が建築)によく似ていて、この時代の「城といったら、この様式」というような確立した建築観が伝わってくるようです。タワーの中には、賓客用の大広間、寝室、大規模な厨房が造られ、タペストリーや調度品を置いて、おもてなしできる設備が整います。

グレートタワー 壁の厚さは最大で6.4m

ヘンリー2世の妙案として、美しいステンドグラス(カンタベリー大聖堂を模している)で飾られた「トマス・ベケット・チャベル」も造られました。ドーバー海峡を渡ってきたヨーロッパの賓客が、「一刻も早くカンタベリーへ」と急ぐとき、「まあまあ、お疲れでしょうから、今晩はこちらでお休みください。まずは、トマス・ベケット・チャペルでお祈りしていただくのが、巡礼の順番となっております。」となだめて、ドーバーカースルで懇親の時間をもち巡礼で気持ち高ぶる賓客から、「ここだけの話し…」を引き出すのでした。

トマス・ベケット・チャペル

ルイ7世のベケット廟への巡礼のあと、フィリップ・オーガスタスは無事に大病から回復し、またこの事実が、ベケット廟への信頼を高めます。ベケット廟を訪れるヨーロッパ各地からの賓客は後をたたず、ドーバーカースルは、いわば「ベケット廟迎賓館」だったのです。

ドーバーカースルは、第二次世界大戦では海軍司令部。ダンケルク救出作戦はドーバーで計画され、軍基地のイメージが強いカースルです。しかし、ヘンリー2世の時代は、そもそも現在のフランスの大部分がヘンリー2世の領土であり、ドーバーは戦時拠点ではありませんでした。

ヘンリー2世は、トマス・ア・ベケットに「クラレンドン法」、「ル・ジューン」の件で怒ってはいましたが、嫌うことはありませんでした。ヘンリーにとって、「頼れる兄さん」であったトマスへの好意は変わることなく、トマスへの怒りは立場上、必要といった性質のもので、それを忖度しすぎた、または忖度するふりをした騎士4人による誅殺は、トマスを呆然とさせました。

騎士4人は、キリスト教政治介入のシンボルであるトマスの抹殺=ヨーロッパキリスト教世界からの離脱の機会を虎視眈々と狙っていた、かもしれません。その背後に、イギリス貴族勢力(おそらく北部の)があったことは容易に想像できます。

なので、政治的必要性があった以上に、カンタベリーでの贖罪、トマスの聖人化、トマス廟の巡礼地化の流れは、トマスへ罪ほろぼしでもあり「この流れにのらないと、ヨーロッパから孤立する、耐えるしかない」という感じでヘンリーは受け止めていました。

カンタベリー大司教であったトマスを、イギリス王に仕える騎士が誅殺するというのは、

「ローマ教皇を頂点とするキリスト教世界への決別」を意味するものともいえ、12世紀にイギリスはすでにヨーロッパ離脱、Brexit を試みていたともいえます。が、トマスの聖人化&巡礼という流れに、ヘンリー2世が乗り離脱がうやむやになる。そして16世紀にヘンリー8世が自身の離婚再婚を可能にするためにイギリス国教会をつくり、再度ヨーロッパ離脱。しかし大戦のあとまた結束。今回21世紀になりまた離脱、ということで400~500年おきに離脱を繰り返してきています。とすると今回のEU離脱は、イギリス国民からすると、案外自然な流れだったのかな、とも思えます。

ドーバーカースルから臨むドーバー海峡

映画「冬のライオン」で、ヘンリー2世は骨太でワイルド、野蛮な人物として描かれていますが、私のイメージは違います。私のイメージでは、細身で神経質、身なりや持ち物にこだわりがあるインテリ風の方だったと思います。

参考:「Dover Castle」 English Heritage, 「英国王室史話」上下 森譲

※実話に基づいたストーリーです。