ヒストリックハウス名:オズボーンハウス

所在地域:イギリス、ワイト島

訪問:2015年8月11日

Queen Victoria (1819-1901)

ヴィクトリア女王

アイル・オブ・ワイト 、地元の人たちが親しみを込めてIOWと呼ぶワイト島はサウサンプトンから船で南へ約1時間。今も橋やトンネルはなく、船で渡っていきます。この風光明媚な離れ島、ワイト島にあるのが、ヴィクトリア女王とプリンス・アルバート(ヴィクトリア女王の夫、1819-1861)が幼い9人の子供たちと楽しい時間を過ごしたオズボーンハウスです。

ヴィクトリア女王は、18歳と約1ヵ月で女王に即位(1837年6月20日、ヴィクトリア女王の誕生日は5月24日なので正確には1ヵ月未満)。1840年2月に21歳でアルバートと結婚するときには、ウィンザー城、バッキンガム宮殿、そしてブライトンにあるロイヤル・パビリオンの3つの宮殿を居城として持っていました。しかし、ウィンザー、バッキンガムは公務の場であり、ジョージ4世が建てたロイヤル・パビリオンは独特の東洋風、ブライトンの町中にありヴィクトリアの趣味に合うものではありませんでした。ロイヤル・パビリオンは以前に訪れましたが、西洋人が東洋を強調しすぎました、という趣でジョージ4世(1762-1830)の時代の流行りではあったのかもしれませんが、時代を超えるものはもっていないように思います。ヴィクトリア女王は後に、ロイヤル・パビリオンをブライトンの町に寄贈しています。

結婚した同年に、2人には第一子ヴィクトリア(ヴィッキー1840-1901)が生まれ、翌年1841年には皇太子アルバート(バーティ1841-1910)が生まれ、その後末子ベアトリス(1857-1944)まで9人の子宝に恵まれます。

子供が次々と増えていく若いファミリーには、プライベートと自然環境を楽しめる家が必要でした。1844年にオズボーンを訪れたヴィクトリアは、一目でこの地を気に入り翌年、私費で辺り一帯の土地を購入します。ハウスはありましたが、古く小さかったためロンドンの建築家トマス・キュビットにアルバートの指揮のもと新ハウスの建築が任されます。

イタリア古典芸術を好むアルバートは、イタリア建築様式でオズボーンハウスを設計します。

オズボーンハウスは、他宮殿・ハウスと違い、居住した王族はヴィクトリア女王とアルバート一家のみでその期間もわずか55年間。ヴィクトリア女王死後は、軍病院、海軍学校の施設として使われましたが、建物自体に大きな変更が加えられることはありませんでした。よって、オズボーンは、外装、内装共にヴィクトリア女王とアルバート2人の好みや思い入れがそのまま保存されているハウスなのです。

オズボーンハウスは、バルモラル(当サイト、バルモラルをご参照ください)と並んでヴィクトリア女王が多くの時間を過ごした場所です。オズボーンもバルモラルも、アルバートが主導して建築したハウスではありますが、バルモラルが増築・改築であったのに対し、オズボーンは全くの新築なので、よりアルバートの好みやこだわりが反映されています。

アルバートはヴィクトリア女王にとってなくてはならない唯一無二の存在で、2人は大変深い信頼と愛情で結ばれていました。しかし、アルバートは、1861年にわずか42歳で病死。ヴィクトリア女王の生活はアルバートの存命中と死後で大きく変わります。オズボーンハウス前編では、アルバート存命中について、次回:後編ではアルバートの死後のオズボーンハウスでのヴィクトリア女王について書いてゆきます。

ヴィクトリア女王一家は5人の小さな子供たちと1846年にオズボーンハウスに入居。一家が住むパヴィリオン棟の2階(日本の3階)は全てナーサリー(小さな子供たちが生活する部屋)と乳母の部屋、そのすぐ下1階(日本の2階)には、ヴィクトリア女王とアルバートの居室がそれぞれフロア半分ずつのスペースで設けられました。

ヴィクトリア時代、上流階級では親と子供は別々に生活し、顔を合わせるのは、1日に数分という家族も多かった時代に、ヴィクトリアとアルバートは子供たちと多くの時間を一緒に過ごしました。子供たちがヴィクトリアたちの部屋にくる、ヴィクトリアたちがナーサリーに行くというように、頻繁に行き来し、年長の子供たちとは一緒に食事もしていました。

また、アルバートは子供たちの教育にとても熱心でした。子供たちの実践教育の場として、

敷地内に「スイスコテージ」を建てます。コテージの中には、子供たちが使うのにちょうどよいサイズのキッチンや食糧庫があります。子供たちは、自分で育てたフルーツや野菜をコテージに貯蔵し料理しました。またコテージ内には、子供たちが運営する「小さいイワシたちの女王陛下御用達八百屋さん」(Spratt ,Grocer to her Majesty)があり、自分たちが育てた野菜や果物を販売し、子供たちが帳簿をつけ、アルバートがそれを指導していました。

スイスコテージの周りには、子供たち専用ガーデン、野生の花専用ガーデン、戦争ごっこ用の塹壕まであります。子供たちは、それぞれのイニシアルが記された手押し車が与えられ、農作業をするときは、自分専用の手押し車を使っていました。

スイスコテージのキッチンでは、自分たちが収穫したフルーツを使い、ケーキやお菓子を焼き、ヴィクトリア女王と一緒にティータイムを楽しみました。

のちに、子供たちはスイスコテージでの思い出を「最高の子供時代」と呼んで、懐かしんでいます。

森と庭に囲まれた山小屋風木造のスイスコテージは、大人の私でも、なんだか気持ちがワクワクする場所でした。そこにいるだけで、なんだかとっても嬉しくなる。そんな建物がありますよね。スイスコテージは、まさにそんなコテージ。アルバートとヴィクトリアは、子供たちに宮殿やハウスでは得られないアットホームな時間と、自然の中で生活する貴重な体験を与えたのです。

この時代、「子供時代」は軽視されていました。労働者たちの子供は、小さいうちから働かされ、中流・上流階級では、家庭教師や学校による厳しい規律に縛られ、家族で楽しい時間を過ごすという発想が無い、そんな時代でした。

オズボーンには、ソレント海峡に面する広大なプライベートビーチがあります。アルバートは海で泳ぐことが健康に良いと強く信じていて、子供たちは皆、アルバートから泳ぎを習いました。ヴィクトリア女王もアルバートの影響で海水浴を楽しみました。しかし、女性が海に入るなどめったにない時代、しかも女王が肌を人目にさらすなどありえないことですので、「ベイジングマシーン」(水浴車)が考案され、使われました。女王が使ったベイジングマシーンは今も保存されています。

ヴィクトリア女王が使った水浴車
ソレント海峡を臨む、オズボーンのビーチ

オズボーンには美しいテラスガーデンがあります。ここには「ロイヤル・マートル」(ギンバイカ)が植えられています。このマートルは、アルバートの母がヴィクトリアに贈った苗から育ち、ヴィクトリア女王はこのマートルを長女ヴィッキーが結婚するときのウェディング・ブーケに加えます。外国へ嫁ぐ娘(ヴィッキーはドイツ皇帝フリードリヒ3世に嫁ぐ)を想ってウェディング・ブーケに束ねる花を自ら選ぶ、女王の繊細な心遣いが感じられます。

以来、ロイヤル・ウェディングの際に花嫁が持つウェディング・ブーケにはここオズボーンで摘んだマートルが束ねらます。

現女王エリザベス2世の結婚式のときにも、オズボーンのマートルが加えられ、エリザベス女王はオズボーンのマートルを株分けして自分の居城で植えています。(どこかは不明、ウィンザー?)そして、キャサリン妃(ケンブリッジ公爵夫人)のウェディング・ブーケにはオズボーンとエリザベス女王の両方のマートルが束ねられました。ヴィクトリア女王の先例に倣い、イギリスではロイヤル・ウェディングのみならず一般のウェディング・ブーケでもマートルを束ねる方が多いようです。

テラスガーデン

ヴィクトリア女王は、水彩画やスケッチが趣味で、ミントンのタイルが貼られたビーチのアルコーブ(屋根付きベンチのような場所)で、よく子供たちが遊ぶ姿をスケッチしていました。ヴィクトリア女王が描いた多くの絵が、オズボーンに飾られていますが、その素晴らしさに驚きました。プロの画家の指導を受けられていたということですが、子供たちへの愛情がにじみ出る丁寧に描かれた数々の絵。ヴィクトリア女王の鋭い観察眼と豊かな感情が感じられます。

ヴィクトリアは、自分のスケッチをアルバートによく見せました。するとアルバートは

「ヴィッキーの愛らしいほっぺのラインを、君は実によくとらえているね!君は女王であり稀に見る芸術家だ。この国に大きな芸術の波を起こすとしたら君だね!」とヴィクトリアの目を見ながら、優しく言うのでした。ヴィクトリアはそんなアルバートの批評が大好きで、スケッチを描くのが益々楽しくなるのでした。

ヴィクトリアとアルバートは、お互いの誕生日には、彫像や相手の肖像画や彫像を贈り合い、

それらはオズボーンに次々と飾られていきました。

2人の思い通りにアルバートが設計した家に、2人が選んだものを置き、子供たちに楽しく充実した時間を過ごさせ、美しい海を見て、泳いで、日々を過ごす。

子供たちが育っていく1840年からアルバートが亡くなる1861年まで、ヴィクトリア女王は幸せに満たされた時間を過ごしました。1852年には、もう一つのカントリーハウス、バルモラルを購入します。暑がりだったヴィクリア女王には8月のワイト島は過ごしにくかったようで、8月はバルモラルでの避暑を好んだのでした。皇太子バーティは大きくなるにつれ、夫妻には頭が痛い子供になっていったようで、夫妻にとって1840年~バルモラルを購入する頃までが、小さな子供たちに囲まれ、自分たちも若く健康の心配もなく、最高に幸せだった時期だったといえるでしょう。

ヴィクトリア女王の時代、イギリスは大英帝国として大きく発展しました。ヴィクトリア女王以前のイギリスは、在位期間は長いものの精神病のジョージ3世(在位1760-1820)、愚行を極めたジョージ4世(在位1820-1830)の10年、老境のウィリアム4世(在位1830-1837)の7年と落ち着かない治世が続きました。しかし、ヴィクトリア女王が即位し、アルバートと共に家族を大切にし、科学技術、文化芸術を重んじ、子供の教育を重視する「生き方」を実践発展させ、国民も自然とその「生き方」に感化されていったのです。

落ち着いた家庭生活、科学・文化を重視する姿勢は、王室と距離の近い貴族や政治家たちの生活をまず変え、そして中流階級、労働者階級へとその影響は拡がります。

世界へ発展した大英帝国のその基礎には、止まることなく新しい発想を持ち、ヴィクトリアを幸せな家庭生活に導き、子供たちに楽しい子供時代を与えたアルバートのたゆまぬ尽力があると私は思います。

次回後半は、アルバートの死から一変するヴィクトリア女王とオズボーンについてです。

お楽しみに!

参考:「Osborne」 English Heritage, 「英国王室史話」上下 森譲

※実話に基づいたストーリーです。