ヒストリックハウス名:オズボーンハウス

所在地域:イギリス、ワイト島

訪問:2015年8月11日

タワーの後ろが、ヴィクトリア女王家族が暮らしたパヴィリオン棟。女王はこの棟一階(日本の2階)のベッドルームで亡くなりました。

Queen Victoria (1819-1901)

ヴィクトリア女王

オズボーンハウス前編では、ヴィクトリア女王とプリンス・アルバート(ヴィクトリア女王の夫、1819-1861)がオズボーンを購入し、9人の子供たちと楽しい生活を送った時代について書きました。今回後編では、アルバートの死後からヴィクトリア女王が亡くなるまでを追想します。

1861年12月14日未明、アルバートはウィンザー城で亡くなります。享年42歳。アルバートは1年ほど体調がすぐれず、食欲もなく眠れないといったことがよくありました。そして決定打となったのが、長男皇太子アルバート(バーティ1841-1910)のスキャンダルでした。バーティは女優ネリー・クリフデンとダブリン郊外のカラ基地で関係をもち、世間の耳目を集めますが、それは性的モラルを重視するアルバートには耐えられない出来事でした。11月22日アルバートはバーティがいるケンブリッジを訪ね、長時間2人で雨の中、外を歩きバーティと話し、その後アルバートは発熱、ウィンザー城で寝込みます。そして12月13日午前には小康状態だったのが夜になって病状が急変、ヴィクトリア女王と子供たちが見守る中、息を引き取りました。死因は腸チフスといわれています。

女王は21歳でアルバートと結婚してから、「完全に」と側近女官から言われるほどアルバートに依存していました。側近女官サラ・リトルトンは、女王以上に「常に要求し、常に相談を必要とし、支えに頼る」妻はいない、と表現しました。

アルバートの死後、女王は悲しみを育てていく生活を送り、生涯を終えるまでずっと喪服で過ごします。10年近く殆ど人前には姿を現さず、公務は文書を通してのみ。秘書官とも直接話すことは殆どなく、女官を通じて文書でやりとりすることが当然の日常となっていました。

親しい人を失って悲嘆にくれても、一般には日常の諸事、例えば家事や仕事をしないわけにもいかず、そうした日常の営みの中で悲しみが癒されていく、という側面があるかと思います。

しかし即位して20年余りが経つヴィクトリア女王の場合は、「悲しむ」ということを、他のなによりも優先できる立場にいて、誰もそれを諫めることはできませんでした。

18歳で女王になった女王には独特の威厳があり、また側近には恭しく忠誠をつかうことを言外に求めていて、側近も女官も同じようにずっと「悲しむ」ことを求められ、女王の周りはいつも沈んだ重苦しい雰囲気に満ちていました。

また、悲しみを分かち合う同情心を示さない人を嫌い、自分と同じような境遇におかれた未亡人と何時間も悲しみを語るのを好み、またそのような人たちだけがヴィクトリア女王と会えるという日々が数年続きます。

大きくなった子供たちとの折り合いもよくありませんでした。

アルバート死亡前に婚約が決まっていた次女アリス(1843-1878)とヘッセン大公国皇太子ルートヴィッヒの結婚式が翌年1862年7月1日にオズボーンハウスのダイニングルームで行われました。ルートヴィッヒを慕うアリス王女が、慶事を行うことを嫌がるヴィクトリア女王をやっとのことで説得し、なんとか結婚式にこぎつけました。

しかし女王は前日までアリス王女に喪服を着ることを命じ、参列する人々にも喪服の着用、アリス王女にも式が終わったらすぐに喪服を着用することを命じ、そのようなことから新郎新婦、参列する人々も笑顔を見せることもできず、結婚式はまるでお葬式のようだったと、女王自身が回顧しています。

この結婚から生まれる長女ヴィクトリア・アルベルタの息子ルイス・マウントバッテンはインド総督を務め、イギリスでは誰もが知る海軍史上に名を残す人物ですが、アイルランド紛争で暗殺されます。また四女アリックスはロシア皇帝ニコライ2世の皇后となりますが、ロシア革命で射殺されています。アリス自身も36歳で病死し、お葬式のような結婚式を強要したのが良くなかったのではと、つい気の毒に思ってしまいます。(ヴィクトリア・アルベルタの娘アリスの息子フィリップは、現エリザベス2世女王の夫。2021年3月12日時点で存命)

アルバートが女王と人々の間にいることにより表出せずにすんでいた女王の同情の強要、お気に入りの人々を過度に特別扱いすること、子供たちや女官、側近の行動を規制・監視すること、自分の欲求にのみ基づいて直情的に行動する傾向などが明るみにでてきます。

しかし、女王の贅沢とは無縁で、質素堅実、文化・芸術を好み、貴族社会を嫌い、田舎生活を好む、労働者階級に無限の親しみをもつ、直感的な政治外交センスを持つ、という性質に変わりはありませんでした。

自分の感情に正直でありつづける女王は、ジョン・ブラウン(1826-1883)というスコットランドの下僕を超がつくくらい特別扱いし、子供たち側近たちから大変な不評をかいます。皆が女王の顔色をうかがって恐々行動するなか、ジョンの遠慮ないラフな言動、ハイランドの田舎育ちの立ち振る舞いが女王に気に入られたようです。

女王は貴族階級の男性が群れて行動するのを嫌っていて、一匹狼で無骨に立ち働くジョンは女王のお気に入りとなります。一説には愛人、結婚をしていたという説がありますが、おそらくそれは憶測のみであると私は思います。ジョンがいると女王が元気になり機嫌がよくなるので、秘書官の判断でジョンは、オズボーンハウスでも女王に仕えています。

しかし、ジョンは女王に先立ち57歳で死亡、女王はまた深い悲しみに打ちひしがれます。

ジョンの死後、使用人にすぎなかったジョンの銅像を女王はバルモラルに建てますが、女王の死後エドワード7世(バーティ)によってその銅像は撤去されます。

アルバートの死後、ジョンの影響からかバルモラルで過ごすことが多くなっていた女王ですが、人生の最期はオズボーンで迎えます。

1900年のクリスマスイブに、身体が弱っていた女王はオズボーンハウスのダーバールーム(豪華なインド風内装のバンケットルーム)に贈り物を配りになんとかやってきましたが、視力が衰えて贈り物の判別もつかないまでになっていました。そして、翌年1月中旬から体調を崩した女王はベッドに臥せ、1月22日、女王は子供や家族、側近に囲まれ孫のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に手をにぎられながら亡くなります。81歳でした。

女王の亡骸はダイニングルームに安置され、遺体には結婚式で身に付けたウェディングベールがかけられます。

女王の遺体は、2月1日ワイト島トリニティ埠頭から王室専用船で最も小さいアルバータ号の甲板にのせられ、ポーツマスへ出発。ポーツマスからヴィクトリア駅へは列車で運ばれ、ヴィクトリア駅からパディントン駅へは8頭の白馬に引かれた馬車で運ばれました。沿道には白や紫の花やリボンが飾られ、多くの国民が沈痛な面持ちで静かに見守る中、馬のひづめの音だけが響いて葬列が進みました。

ウィンザー駅からウィンザー城までの最後の区間は水兵たちが棺を載せた砲架を引き、その間81発の礼砲が放たれました。最後に王族が見守る中、アルバートが眠るフロッグ・モア霊廟のアルバートの棺の隣に女王の棺が置かれ、ヴィクトリア女王は再びアルバートの側に戻りました。

オズボーンで亡くなり、アルバートの隣に帰る。私はヴィクトリア女王のこの最後の日々に、なにか抒情的なものを感じます。1年の殆どをバルモラルで過ごしていたのに。亡くなったのは、人生でもっとも幸福な時をアルバートと過ごしたオズボーンだった。

自分中心・直情的で、側近や家族から疎まれたヴィクトリア女王ですが、63年の治世の間、イギリスは大きく発展しました。また9人の子供たちからつながる子孫のうち現時点で君主だけでもエリザベス2世女王、スペインのフェリペ国王、ノルウェーのヘラルド国王、スウェーデンのカール・グスタフ国王、デンマークのマルグレーテ2世女王と5人います。

そして前にも述べたようにエリザベス2世女王の夫フィリップ殿下もヴィクトリア女王の次女アリスの曾孫です。(エリザベス2世女王はエドワード7世の曾孫)

イギリスの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史においてヴィクトリア女王が残した足跡は大きく、そしてその女王の幸せにオズボーンハウスが果たした役割はとても大きいのです。

パヴィリオン棟海側、この出入り口から女王たちは海へでかけました。

参考:「Osborne」 English Heritage、「ヴィクトリア女王の王室」ケイト・ハバード、橋本光彦訳、「英国王室史話」上下 森譲

※実話に基づいたストーリーです。