ヒストリックハウス名:ファウンテンズ・アビー

所在地域:イギリス、ノースヨークシャー

訪問:2019年4月21日

圧倒される規模の廃墟、写真はほんの一部
修道士たちが集ったチャプターハウス

St Bernard of Clairvaux (1090-1153)

クレアヴォーのベルナール

少し前に、「ダウントン・アビー」というドラマシリーズがあり、日本でも人気がありました。「なぜ貴族の館なのにアビー(カトリック教会修道院)?」という素朴な疑問があったかもしれません。

15世紀までイギリス各地に建てられたアビー(カトリック教会修道院)は、1538年頃からヘンリー8世により強制閉鎖され、財産もろとも国家に没収されます。ヘンリー8世は自身の離婚を認めないローマ教皇と縁を切り、イギリス国教会を設立しました。そのため既存のカトリック修道院はもはや無くすべき存在となり、廃院されたアビーは貴族や富裕層に売却され、ヘンリー8世の収入となったのです。

購入には条件がつけられ、「教会として機能しないように、礼拝堂などは破壊する、または他目的の部屋に改築すること」。そんなことから、投資目的で購入しすぐにアビーに入居しない場合は、礼拝堂やそれに準ずる部分は、無残にも屋根が取り壊されました。すぐに入居する場合は、礼拝堂の内装を変え、ライブラリーやダイニングルームなど他目的の部屋に作り替えられました。

しかし、「〇〇アビー」というのはすでに地名に近いものになっているので、その後、貴族などの館になったあとも今にいたるまで「〇〇アビー」と呼び続けられているのです。

今回のファウンテンズ・アビーは、今では世界遺産。

ヘンリー8世によって廃院されたあと、アビー自体が館として再利用されることはなく、広大な廃墟となりました。

今回はファウンテンズ・アビーが修道院として誕生した時代を追想します。

1098年、フランス、ディジョン近くのシトーで修道士ロベールによってシトー派修道会が設立されました。シトー派修道会は設立後14年頃に参加するベルナールにより大きく発展します。ベルナールは、1115年25歳の若さで新設クレルヴォ―修道院の院長を任されます。

ベルナールの信心は深く、人望厚く、また人に教えを説く能力が極めて高いとされ、その存在感を増していきます。

そんなベルナールの導きにより、シトー派には多数の若者が殺到し、シトー、クレルヴォ―はすぐに手狭になり、フランス各地にシトー派修道院が次々と建てられます。

この頃、イギリスは1066年にウィリアム征服王がノルマンディーからやってきてイギリスを征服、統一してから50年ほど経った頃。フランス側からみれば、イギリスは植民地感覚というか、征服した地です。当然、シトー派も、では次は征服地イングランドの方に分院を。という流れで、1131年イングランド初のシトー派修道院がヨーク北方リーヴォーに設立されます。

ヨーク北方、リーヴォーの地主はヨーク大司教から、フランスの修道会が修道院を建てる地を探していると聞き、では是非我が土地へと名乗りを上げます。そして早速に材木を手配し、修道士が寝泊まりできる木造平屋をつくります。

この頃、国王はヘンリー1世(1068-1135、フランスからやってきたウィリアム1世征服王の末弟)。王権と教会は、おそらく、セットのような感じで捉えられていましたから、フランスから修道士がやってくるとなれば、地域の発展、自らの領地の繁栄につながるに違いないと、明るい将来を描いての誘致だったことでしょう。

翌年1132年、ヨークの聖メアリー・ベネディクト修道院(現在は廃墟)では、生活が華美になり、また本来の聖ベネディクトの教え(清貧、服従、純潔を基本に、祈りと労働生活を送る)を守っていないと不満をもつ13人の修道士が離反・脱走し、ヨーク北のスケル川が流れる谷にたどり着きます。そして、ヨーク大司教の取り計らいで、13人はこの地に定住することを許されます。しかし、北ヨークは極寒の地。13人は冬の間、当初木の下で昼夜を過ごし、最低限の食物はヨーク大司教から与えられたものの、あまりの厳しさに命の危険を感じ始めます。

脱走修道士たちは、リーヴォーのシトー派修道院のことは知っていて、困ったときは助けてくれるだろう、との読みで脱走したのです。しかし、リーヴォーを設立中のフランス人修道士たちは、自分たちの定住でまだ手一杯。脱走修道士たちから、食糧や資材の協力を頼む手紙を送っても「神のお導きでこちらが落ち着きましたら、喜んでサポートさせていただきます」などと婉曲に断る返事が来るばかりでした。

そこで脱走修道士たちは、意を決し、クレルヴォ―のベルナールに手紙を書き助けをもとめます。ベルナールは、ローマ教皇の選出に関わるなど、すでにカトリック教会の中枢で活躍する実績ある実力者となっていましたが、脱走修道士たちの懇願に丁寧に対応し、修道院の設立を厚くサポートします。

まず、当面の食料の手配に必要な資金とともに、冬をしのぐための衣服、そして修道院を運営する実務をマニュアルにまとめて、そのマニュアルを説明できる修道士とともに、ファウンテンズに送ったのです。近隣の木材を伐採して製品化する、羊を飼い羊毛を販売するなど修道院に収入をもたらすそのノウハウを得た脱走修道士たちは、昼夜勤勉に祈り、働き、ファウンテンズ・アビーは当初の苦難を脱し、発展していきます。

アビーでは、労働担当の”レイブラザーズ”と祈祷担当の”ホワイトモンク”に分けられ、それぞれ違う生活を送りました。祈り、讃美歌、各種記録などに専念するホワイトモンクは染色しない白い僧衣を着ていたことから、こう呼ばれました。レイブラザーズは食事の量が多く、祈りの時間は少なく、修道院のさまざまな肉体労働を担当していました。この分業制度により、修道院は効率よく運営され、木材、羊毛販売で富を蓄えていきました。

そしてファウンテンズ・アビーの建物も、レイブラザーズの作業により増築が進み、身廊、いくつかの聖堂、ゲストハウス、羊毛作業所、ビール醸造所、穀物を粉に引く水車小屋、高齢者・病人を収容する棟と、機能に特化した建物が増えていきます。

エール(薄いビール)などを貯蔵していたセラー

ベルナールは、シトー派修道会の修道院をこのようにしてあちこちで設立、発展させベルナール入会時には1か所だった修道院が、死亡時にはヨーロッパ中に343を数えるまでになります。ベルナールが22歳でシトー派に入り、63歳で死亡するまでの40年間、ベルナールのいわば「修道院グローバル経営手腕」によりシトー修道会は飛躍的に発展したのです。

シトー派修道院は、修道士がどの修道院に行っても迷わないように、どこも同じ設計、造りになっていて、そんなところにもベルナールのセンスを感じます。

修道院は、祈っているだけでは継続できず、運営できる収入を得て、将来に向けての投資をし、修道士の秩序とモラルを保ち、なおかつ近隣のコミュニティ、そしてローマ教皇を頂点とするヨーロッパ全土に及ぶカトリック組織と円滑でゆるやかな関係を保ち、続けていくという

現代なら、市場をリードし利益を上げ、倫理を守り従業員を大切にして、各国政府とも折衝していくグローバル企業のようです。

ベルナールの知恵を礎に発展したファウンテンズ・アビーは、13世紀末になって経営ミスによる財務危機に瀕し、羊の病気、凶作、飢餓に苦しむスコットランド人の侵略により傾き、さらに1349-50年には感染症ペストでアビーの人々の三分の一が死亡し、荒廃の危機に瀕します。

しかし、1500年頃修道士ハービーの経営手腕により、イギリスで一番富む修道院となり繁栄します。が、ヘンリー8世は、その富に目をつけ冒頭で述べた強制廃院を着想。1539年11月修道院は閉鎖に追い込まれ、修道院の400年の歴史は強制終了となったのでした。

その後、ファウンテンズ・アビーは、館として改築されることはなく、19世紀に発掘されるまで廃墟となり長い眠りに入ったのでした。改築されることがなかったために、この廃墟では、今でも12世紀と同じ建物の中に立つことができるのです。

・・・ネーブ(身廊)の迫力といったら。日本にあるお寺は入ると、私は包み込まれるような温かい感じがするのですが、こういったネーブは畏れを感じるというか、廃墟になっても圧倒され、呆然としてしまいます。

圧倒されるネーブ跡

私が訪れた日は、イースターのお休み中、とてもお天気が良い日で、たくさんの人々がピクニックに訪れていました。北ヨークということで、寒さ対策万全の服装で行った私は、暑くて、暑くて・・・半袖の皆さんをとても羨ましく見ていました。

真っ青な空のもと、暑い空気につつまれ、新緑美しいファンテンズ・アビー、訪れた日は北ヨークでは、稀な良い天気の日だったようです。この日はこの日で、青空とアビーの組み合わせを見ることができ良かったのですが、またいつの日か、寒風吹きすさぶ、凍りつくような日に訪れて、900年ほど前の修道士たちに、少しだけ近づけたらと思います。

次回は、ファウンテンズ・アビーを借景にガーデンを造ったアイズラビ一族についてです。お楽しみに!

参考:「Fountains Abbey and Studley Royal」National Trust

※実話に基づいたストーリーです。

窓周りの造りが、よくわかります。
外から見たネープとハービーズ・タワー、500年前に廃墟になり、そしてきっと500年先もこの姿