ノッティンガム・カースル ゲートハウス

ヒストリックハウス名:ノッテインガム・カースル

所在地域:イギリス、ノッティンガムシャー

訪問:2017年3月29 日

Richard III  (1452- 在位1483-1485)

リチャード3世

ノッテインガム・カースルの「負の拠点」前編では、エドワード2世、エドワード3世に関連するロジャー・モーティマーをご紹介しました。

イギリス王の歴史を俯瞰すると、私が愚王のみならず愚人と呼びたくなるのは、エドワード2世とジョージ4世です。そして一般的に「悪王」とされるのがリチャード3世ですが、これはシェイクスピアの影響が非常に強いと思われます。

シェイクスピアは、エリザベス1世のいわば御用劇作家で、史実をベースにしながらもテューダー王朝つまりエリザベス1世の意向に合うように創作したとして差し支えないと思います。シェイクスピア作の「ヘンリー6世」「リチャード3世」で、わかりやすい悪王に仕立て上げられているのがリチャード3世という見方ができます。

しかし、史実そのものから見ると、リチャード3世は必ずしも悪王と言い切れない気もします。今回は、ノッティンガム・カースルからヨーク家最後の決戦「ボズワースの戦い」に出陣し戦死した「戦場で死んだ最後の王」リチャード3世について書きます。

リチャードは、1452年ヨーク公リチャードの8男、 12番目の子供としてピーターバラ南西のフォザリンゲイ城で生まれます。父親リチャードは、エドワード3世5男エドマンド・オブ・ラングリー(1402 死亡)の孫です。ですからリチャードはエドワード3世の曾孫となります。リチャードが生まれた頃は、エドワード3世子孫のランカスター家、ヨーク家が王位をかけて戦う、後に「バラ戦争」と呼ばれる時代でした。

リチャードが9歳のとき、10歳年長の兄エドワード(1442-在位1461-1483)がヘンリー6世(1421- 在位1422-1461 死亡1471)から王位を簒奪し、エドワード4世として即位。19年の治世後、エドワード4世は40歳の若さで突然に病死。そののちリチャードがリチャード3世として即位します。しかし、この王位継承はいくつもの不自然な点があり、それらが物語化され、シェイクスピアによってリチャードは完全なる悪者に創作されました。

その不自然な点とは主に

①1478年2月18日(リチャード26歳)

 リチャードの兄、エドワード4世の弟のクラレンス公ジョージがロンドン塔で暗殺されたこと。

② 1483年4月9日(リチャード31歳)エドワード4世が40歳の若さで突然死したこと。

③ 同 1483年エドワード4世死亡後リチャードがエドワード4世の息子二人、エドワード皇太子(1470-1483?) と次男ヨーク公を戴冠の名目でロンドン塔に監禁。リチャードはエドワード5世の摂政に就任するとエドワード5世に王位継承権がない説を打ち立て、同年6月26日にリチャードの治世を始め7月6日に戴冠し王位簒奪。エドワード5世とヨーク公の少年二人はその後行方不明、おそらく暗殺された。

④1485年、王妃アン・オブ・ウォーリック(リチャードの妻、1456-結婚1472-死亡1485) がリチャード在位中に29歳の若さで死亡。

⑤エドワード4世臣下リヴァース伯、グレイ卿、ヘイスティング卿の処刑。

以上を繋ぎ合わせ、リチャード3世が着々と王位簒奪に向けて準備し、エドワード4世には息子二人がいたにもかかわらず、王位簒奪を実現したというシェイクスピアの流れができたのです。

500年以上前のことで、残されている史実にも矛盾、相違などありますが、当時の記録を元に現代では概ね①クラレンス公の死、②エドワード4世の死、④王妃アンの死がリチャードの奸計によるものではないことが理解されています。そして⑤に関しては、中世の権力争いでは日常茶飯事のことで処刑そのものを問題視するというよりも、処刑の背景や経緯が議論されています。

残る問題は、③です。

この背景には、エドワード4世妃エリザベス・ウッドヴィル(1437?-王妃1471-1483- 死亡1492) 一族との権力争いがあります。エリザベスは王族・貴族の出身ではなく1騎士の未亡人でエドワード4世の5歳年上、全夫との間に子供もありました。しかしエドワード4世は広大な領地と強大な軍事力を持ち、自分の結婚をも仕切ろうとする(仏王ルイ11世の義妹との結婚)ウォーリック伯リチャード・ネヴィルへの対抗から、周りと相談することなくウォーリック伯には内緒で、エリザベスと結婚しました。

エドワード4世のウォーリック伯への対抗心から、エドワードは妻の父、兄弟、子供を宮廷で重用する人事を行い、宮廷は新興勢力ウッドヴィル一族が占拠する様相となって行きます。しかしエドワード4世存命中はそれでも大きな問題にはならなかったのですが、エドワードの死により、皇太子がまだ幼い(13歳)ことからこのままでは、ウッドヴィル一族に国政を仕切られる恐れが出てきます。

実際、パワーバランスを配慮したエドワード4世は遺言で、リチャードを皇太子エドワードが成人するまでの摂政に任命していますが、エドワード4世の死後すぐにこの遺言は曲解されリチャードの摂政位を「名誉職」とし権限を持たせない決議を、リチャード抜きで諮問委員会が行いました。そして、ヨークを拠点とするリチャードを無視する形で、リチャード不在でエドワード4世の葬儀が行われます。

これでは、国王の弟リチャード3世の面目は丸潰れですし、このままではエドワード5世はウッドヴィル一族の言いなりとなってしまい、プランタジニット王家(バラ戦争で争っていたランカスター家、ヨーク家は両方ともプラタジネット王家の子孫)の実権は失われてしまいます。

リチャード3世は、エドワード治世中はヨーク近くのミドラム城を拠点とし、スコットランドとも折り合いをつけ、北部諸侯をうまく取り仕切っていました。十二番目の子供、8男として生まれたリチャードは、王になりたいという発想など全くなく、兄エドワード4世に忠義を持って仕える、その忠誠心が彼の根幹を成していました。

そしてスコットランドの脅威が日常である北部を統治する毎日では、偉大なる王エドワード1世(スコットランドを制圧、イングランドへ併合、その後エドワード2世がスコットランドに敗北)の子孫としての誇りと責任感はいつも彼の中に鮮明にありました。

ウッドヴィル一族の存在が弱いものであるならば、リチャードが「名誉職」ではない摂政となりエドワード5世が成人になるまで実質的に政治を取り仕切るという道もあったと仮定できるかもしれませんが、実際のウッドヴィル一族は政治を取り仕切る段取りを早急に始めていて、ことの運びによっては、リチャードがウッドヴィル一族により暗殺されてしまう可能性もあります。

そこでリチャードは、エドワード5世からの王位簒奪を2ヶ月という短期間のうちに、強引に推し進めたのです。しかし、幼いエドワード5世とヨーク公の暗殺については、現代になっても誰の手によるものかはわかっていません。私は、リチャードではなく、ヘンリー7世によるものではないかと思います。

というのもリチャードが王位についた根拠は、エドワード皇太子に王位継承権が無いとの説によるもの(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚前にエドワードに婚約者がいたことで結婚を無効とすることから)なので、そうであればむしろエドワード皇太子を生かしておいた方が、リチャードの正当性が保たれとの見方もあります。

しかし、ヘンリー7世の王位継承権は、エドワード3世の4男ジョン・オブ・ゴーンと3番目の妻キャサリン・スウィンフォードの結婚によるものですが、二人の子供たちは結婚前に生まれていることから、子供たち及びその子孫に、王位継承権は無しと取り決められていました。よってヘンリー7世の王位継承権の正当性は極めて脆弱で、エドワード4世の娘エリザベスと結婚することにより、補完されるのです。よって、ヘンリー7世にとって王位継承権を持つエドワード皇太子とヨーク公が生きていると、この上なく不都合と考えられます。(リチャードが唱えるエドワード4世結婚無効説はヘンリ7世の祖先の結婚を想起させるものとなるためヘンリー7世にとっては極めて不都合)

これは一般的な推理で、これまでに多くの同様の推察がなされています。

そうして、王位についたリチャードですが、野心に燃えるウッドヴィル一族とリッチモンド伯ヘンリー(ヘンリー7世)、その他の有力貴族が手を結び政権奪還を挑んできます。

そして、即位後2年が経ち1485年8月決戦ボズワースの戦いとなります。

リチャードは、19日ノッティンガム城から移動し、ボズワースで前夜を過ごしますが、心身の不調からかこれまでに死んだ身内が次々に夢に現れうなされます。

22日決戦の早朝、悪夢から目覚め真っ青な顔をしたリチャードは、全身が鉛のように重く感じられました。朝食も食べられず、水を飲むのが精一杯。装備を整え、暗い顔で兵士たちの前に立ちます。そのどす黒く青ざめた顔、覇気のない声に、兵士たちは全く士気が上がらず、きっかけがあれば敗走する考えが皆の頭にちらつきます。

リチャードの体は細く、背中は丸く、鎧をつけても、なんとも華奢で頼りない姿なのです。その上に、表情暗く、姿勢は曲がり、小さな声。

見るからに弱々しく、この人のために命を賭けようなどと、とても思えない有様でした。

しかし、時間がきたため、リチャード軍は士気が上がらない兵を率いて出陣。

当初、リチャードは北部ノーザンバーランド伯の大部隊などを味方につけていたことから圧倒的優勢と見られていました。しかしノーザンバーランド伯が戦場でほとんど動かず、またヘンリー側のオクスフォード伯がフランスの「プロ戦士」を連れてきたことなどから戦いは拮抗。

ヘンリー軍旗を見つけたリチャードは一人、ヘンリーに向かって猛突進し、何人もの強豪兵士を単独騎乗戦で倒しヘンリーに突き進み、その猛戦ぶりからヘンリー最後かと思ったその時、ヘンリー側へ寝返ったスタンリー卿(妻マーガレットがヘンリーの母)の大部隊が突然現れ、リチャード軍兵士は驚愕し、撤退。

リチャード一人が敵陣の中で戦い抜き、戦死したのでした。

そしてヘンリー7世が即位し、テューダー朝が始まります。

スタンリー軍が現れた時に、側近はリチャードに駿馬を差し出し、一旦逃げるように強く説得しましたが、リチャードは「今日は戦いを終わらせるか、自分の命を終わらせるか、だ」とキッパリ断ったと言います。

そして、その最後の戦いぶりは実に見事なものだったそうです。

正統なプランタジニット王としてのプライドから王位簒奪し、王位をかけて戦死したリチャード、そんな風に思えます。「悪王」ではなく、「プライド王」だと、思うのです。

ただ、決戦の時に自分と自軍をピークに持っていけなかった弱さ、自軍をまとめきれなかった情報戦での弱さ、が彼を滅ぼしてしまいました。

リチャード3世の遺骨は、近年レスターで発見され、イギリスでは大きな話題となりました。DN A鑑定の結果、間違いなくリチャード3世ということです。YouTubeでその記者会見の様子、リチャード3世の遺骨も見ることができます。会見の中で、強調されていたことの一つが、リチャードがとても華奢な体格だったことです。

戦死した最後の王は、リチャード3世ですが、戦場へでた最後の王はジョージ2世(1683-1727-1760)で、1743年にドイツ・バイエルン近くのデッティンゲンの戦い(オーストリア継承戦)に自ら参戦しています。ジョージ3世以降、実戦に王自らが参戦することはありませんが、最近ではハリー王子がアフガニスタン前線に出るなど、王族が参戦することはあるようです。

エリザベス女王は95歳の今も騎乗されているとのこと、昔は戦いと言えば騎乗ですから騎乗は王族のDNAに深く刻まれているんだなあと思います。

敗れたリチャードを送り出したノッティンガム・カースルですが、17世紀には斬首された唯一の王、チャールズ1世がノッティンガムから出陣しています。

ノッテインガム・カースルが「負の拠点」と思えてしまうのは、このような経緯からなのです。

チャールズ1世が軍旗を上げたとされる場所

ノッティンガムには、日本でも人気のあるブランド「Paul Smith 」の創業店(ポール・スミスさんの自宅だった)があり、行ってきました。中心からちょっと離れたところにあり、瀟洒な館がブティックになっていて、落ち着いた素敵なお店でした。

参考:「悪王リチャード三世の素顔」石原孝哉著、「英国王室史話」上下 森護著、「Richard III Society」webpage