ヒストリックハウス名:オケハンプトン・カースル

所在地域:イギリス、デボン

訪問:2016年6月23日

ウィリアム征服王の時代から残るモット(後述)
モットから臨むベイリー(後述)部分、左はグレートホール、右は宿泊用ロッジング
ベイリー、チャペル跡

Henry Courtenay, Marquis of Exeter, the 9th Earl of Devon  (1539 死亡)

ヘンリー・コテネー、エグゼター侯爵、第9代デボン伯爵

今は廃墟のオケハンプトン・カースル。12世紀初頭までは王家側近ボルドウィンの主城であり、12世紀初頭から16世紀中頃までは、広大なディアパーク(鹿を放し飼いしている庭園)を持つデボン伯爵の贅沢なハンティング・ロッジでした。

オケハンプトンは、ウィリアム征服王(1027?-1066-1087)が忠臣ボルドウィンに与えた土地の一つでボルドウィンは征服王の従姉妹エマと結婚しています。ボルドウィンは、征服王から城の建築許可を与えられ、オケハンプトンの地形を生かして(川があり丘がある)、当時の典型的な防衛城「モット&ベイリー」(土塁の上に塔が立ち、土塁の下に外壁に囲まれた平らな領域ベイリーがある)を築きました。

オケハンプトンは、デボンの中心地であり、コーンウォール(2021年6月G7サミット開催地)への主要ルートの途中にあることから、征服王としてはきっちりと抑えておきたい要所。忠臣ボルドウィンに城を築かせ、守りを固めていたのです。

1173年ボルドウィンの女系子孫ホウジアがレジナルド・コテネーと結婚し、二人の間に生まれたロバート・コテネーがオケハンプトンを相続。そしてロバートはデボン伯爵の女相続人メアリーと結婚したことから、オケハンプトンはデボン伯爵領となりました。デボン伯爵の本拠地はティバートン・カースルであるため、以来、オケハンプトンはデボン伯爵コテネー家のハンティングロッジとなります。

ヒュー・ド・コテネー(1276-1340)初代伯爵(伯爵位は一旦エドワード1世が剥奪、後に1335年にエドワード3世により復活されたため初代となる)は父ヒューが死亡したとき未成年の15歳だったためオケハンプトンとその他領地は、時の王エドワード一世(1239-1272-1307)の管理地となってしまいます。しかし、デボンは、ロンドンから遠く、実質的な運営は若いヒューが地域住民と行ない、その報告のために宮廷に煩雑に出向くことになりました。

そうして、ヒューは急速に王家との距離を縮めます。ヒューはオケハンプトン・カースルの改築、増築を王同意のもとスピーディに行い、賓客が毎週のように訪れる社交の場となります。

ヒューの伯爵位を継いだ次男ヒュー第2代伯爵は、エドワード1世の孫マーガレット・ド・ブーンと結婚し、マーガレットの持参財産パウダーハム・カースルを得て、王族の姻戚となります。ここで、デボン伯爵家の地位は盤石なものとなったと言えるでしょう。

さらに、ヒューとマーガレットの息子第3代伯爵ヒューはエドワード3世(1312-1327-1377)が創設し今も継続するガーター騎士団の創設メンバーに指名され、王家密接の最右翼伯爵となります。

時代は流れ、子孫の第5代伯爵トーマスは、ヘンリー4世(1367-1399-1413)VSリチャード2世(1367-1377-1399-1400)の対決では、幸運にも勝利を納めたヘンリー4世側で安泰。

しかし、第6代伯爵トマスはヘンリー6世(1421-1422-1461,1470-1471)VSエドワード4世(1442-1461-1470,1471-1483)の対決で負けたヘンリー6世側だったため、タウトンの戦い(1461)で捉えられ斬首され、息子の第7代伯爵ジョンは決戦テュークスベリー(1471)で戦死。

そしてオケハンプトン及び所領はエドワード4世に没収されてしまいます。

第8代伯爵ウィリアム(1511年死亡)は、おそらくリチャード3世(1452-1483-1485)の計らいでエドワード4世の6女キャサリンと結婚します。リチャード3世はヨーク側の体制強化を狙い、影響力のあるコテネー家との関係強化を狙いました。

しかし、リチャード3世はヘンリー7世(1457-1485-1509)にボズワースで敗戦(1485)。

ヘンリー7世の時代となると第8代伯爵ウィリアムは息子、孫息子と共にロンドン塔に収監され、ヘンリー8世(1491-1509-1547)の時代になり、やっと釈放されます。

そして、いよいよ今回の主人公、第9代伯爵ヘンリー(1539年死亡)の登場です。ヘンリーは、父と一緒にロンドン塔に収監されていましたが、年が近いことからヘンリー8世の青年時代の遊び友達の輪に加わり、お気に入りの一人となりました。コテネー一族は、テューダー朝とは敵対関係にありましたが、それはもう昔のこと、といった感じで、むしろ由緒ある家系のコテネーの後継青年がロンドン塔に収監されていたことを、ヘンリ8世は大いに面白がり、ことあるごとに、「罪人ヘンリーよ!」などと読んでは、大笑いするのです。

ヘンリーは、広いディアパークでの鹿狩に慣れており、狩好きのヘンリー8世と趣味が合ったことが大きかったようです。狩はダイナミックなスポーツで、各人の乗馬や射的の技量に加え、チャンスやリスクを瞬時に計算する知的なセンスも必要。ヘンリー8世はそれらを見ることで、貴族たちの力を量っていました。

ヘンリー8世は、ヘンリー・コテネーの狩のスタイルを高く評価しており、徐々に信頼を高めていきます。

1525年、ヘンリー8世はヘンリー・コテネーの忠誠を認め、王からの信頼を形にするべく、ヘンリーをエグゼター侯爵に叙爵。当時、侯爵位を与えられることは、滅多にない名誉で、ヘンリーは大いに感銘を受け、王家への忠誠を改めて誓います。

しかし、クーデーターとも言える反乱で王位を手にしたヘンリー7世。その後を嗣いだヘンリー8世の時代、まだまだ政治は不安定。常にクーデターが起きる空気が流れており、ヘンリー8世は反逆者と聞けば、すぐに極刑で処していました。

光あるところには影がある・・・侯爵に叙されたヘンリー・コテネーをじっと陰から見つめていたのは、ヘンリー8世の側近中の側近トマス・クロムウェル (1485-1540)でした。貴族出身でないクロムウェルは、どんなに望んでも侯爵の叙されることはありえなく、ウィリアム征服王の時代から続く家系、王家につながる血脈を持ち、鹿狩りが得意なコテネーの栄進をなんとも言えない思いで見守っていました。

そして、クロムウェルはコテネーが新興宗教集団とともに、謀叛を図っているという、まことしやかな噂を流し始めます。謀反に敏感なヘンリー8世は、この噂に激怒、コテネーは必死に否定するも、クロムウェルが手配した偽りの証人が決め手となり、ヘンリー8世はヘンリーを1539年斬首したのでした。

クロムウェルは、ヘンリー8世にヘンリー・コテネーの息子の危険性を進言し、処刑を求めますが、ヘンリー8世は無実の子供を処刑する気にはなれず、息子エドワードは、ロンドン塔に収監され、その後メアリー女王(1516-1553-1558)の時代になるまで14年間にわたる日々をロンドン塔で過ごすことになります。

オケハンプトンは、ヘンリー処刑前に王室に没収されますが、後にメアリー女王の時代に伯爵位とともにエドワードに返却されます。第10代デボン伯爵となったエドワードはエドワード4世の曾孫であることからメアリー女王との結婚を打診されます。しかし答えを渋っていたところ、痺れを切らしたメアリーが自分を侮辱したと怒り、エドワードをイタリアへ追放してしまいます。エドワードは1556年に死亡。息子がいなかったため、4人の娘の女系子孫で領地は分散相続となります。

その後、地元住民は少しずつ周辺領地の買取を進め、ディアパークも耕作地や森林となっていきます。オケハンプトン・カースルは、子孫の住居となることはなく徐々に荒廃の道を辿り、やがて廃墟となったのでした。現在では、イングリッシュ・ヘリテッジが管理しています。

オケハンプトン・カースルを訪れたのは夕方で、幼稚園帰りのママと子供たちがピクニックをしていました。とても和やかで、きっと毎日のように来ていて、オケハンプトン・カースルは子供たちの大切な思い出の場所になることでしょう。

エド・シーランの” Castle on the hill “を聞くたび、オケハンプトン・カースルを思い出します。イギリスのカントリーサイドには、どこでもカースルがあり、 人生の風景に溶け込んでいます。

”Castle on the hill” 、心を動かされる歌です。

16世紀中盤まで、華やかな鹿狩り社交を見てきたオケハンプトン・カースルの石壁は、今は地元住民の和やかなピクニックを静かに見守っています。

子供達が着ている赤いセーターは、イギリスでよくある制服。
カースルの歴史がわかる大きな絵本(防水素材、多くのページがあり、めくることができる)、めくらずにはいられません!

参考:”Okehampton Castle” English Heritage, 「英国王室史話」森譲、映画「ウルフホール」(ヒラリー・マンテル原作)