ヒストリックハウス名:ダウンハウス
所在地域:イギリス、ケント
訪問:2016年6月29日

Charles Darwin (1809-82)
チャールズ・ダーウィン
ダウンハウスにチャールズ・ダーウィン(以下ダーウィン)は40年間住み、様々な実験、研究を行い「種の起源」をはじめ後世に影響を与える発表をしました。
ダウンハウス(Down House)があるのは、イギリス南部ケントのDowne村ですがこの村の名前は元はDown村でした。しかし、1850年代にアイルランドのDown Countyと区別するために「e」が追加され今に至ります。しかしすでに住んでいたダーウィンは、家の名前をDown のままとしたので、村の名前と家の名前の綴りが違うのです。
ダーウィンは医者で投資家の父ロバートと、陶磁器でよく知られるウェッジウッド家の娘である母スザンナの6人の子供のうち5人目として生まれます。ダーウィンが8歳の時に母親が死亡、ダーウィンは3人の姉に可愛がられて育ちました。そしてすぐ上の兄、エラスムスと妹のキャサリンとは生涯とても仲がよかったようです。
9歳で兄エラスムスが学ぶシュールズベリー・スクールに入学。その後、エディンバラ大学で兄同様、薬学を学び始めますが、すぐに自分が薬学に向いていないことに気づき退学、父の意向でケンブリッジ大学で神学を学びます。
在学中は、従兄弟のウィリアムと近隣の沼地でカブト虫採集に熱心に勤しみます。従兄弟ウィリアムとも生涯仲がよく、色々な意見交換を行っています。
ダーウィンは優秀な成績で神学の学位を取り1831年卒業。すぐに牧師になる気にはなれずにいたところ、ケンブリッジ大学植物学者の助手で牧師のジョン・スティーブンス・ヘンズロー(1796-1861)と出会います。
ヘンズローはケンブリッジ大学に植物園を作った人物で、植物学、鉱物学の研究に熱心に取り組んでいました。ヘンズローの調査研究への情熱に影響されたダーウィンは、「実地調査に基づく新理論の構築」に興味を持ちはじます。
その頃、主に南半球を調査航海するHMS(Her Majesty”s Ship、英国海軍ロイヤルネイビーの船の名前につけられる)ビーグル号の乗組員が募集されていて、調査員の候補としてヘンズローの妻の兄に声がかかっていました。しかしヘンズローの義理の兄は都合で参加できずヘンズロー自身も乗船したかったものの、妻が身重だったため、ヘンズローはダーウィンに声をかけます。
「君は、調査の経験が無いのだから、船長の話し相手として、リラックスして乗り込んでくればいいよ。未到達の土地にもたくさん行くから、ここでは見られないものをできるだけ多く見てくるといい。またとない貴重な経験になるよ。植物も鉱物も未知のものが多くあるはずだ。」と、本当は自分が行きたくてたまらないヘンズローに熱く語られ、ダーウィンはもはや、行かないという選択肢は自分には無いように思われ、「それでは、ぜひ、参加させてください」と回答したのでした。
HMSビーグル号の準備は遅れ、1831年10月出発の予定だったのが、結局12月27日に出発しました。そして以来5年間、ダーウィンはHMSビーグル号の船長フィッツロイの話相手兼調査員として、南米や南半球の島々を巡りました。
好奇心旺盛なダーウィンは上陸した地で、貪欲に歩き回り、植物、鉱石、動物、昆虫、海洋生物などを採集、ヘンズローに手紙と共に送り続け、その量は膨大になりました。
1836年12月にイギリスに帰国。広い世界を見て、山積みの標本を持ち帰ったダーウィンは、自然科学者として道を歩むことを決め、チャールズ・ライエル(1797-1875)、リチャード・オーウェン(1804-1892のちにダーウィンの批判者)ら時代を代表する科学者たちとの意見交換を始めます。
1839年には、従兄妹のエマ・ウェッジウッド(1808-96)と結婚します。
エマは、結婚直前に叔母に「チャールズ(ダーウィン)は、これまで出会った中で一番、誠実な男性。彼が話すことは全て真実で、この上なく彼を信頼しています。」と書いた手紙を送っています。従兄妹のエマはダーウィンのことを幼少時から知っていて、この信頼関係は生涯続きます。
結婚した年の12月には長男ウィリアムが誕生。それ以降、毎年のように子供は増え続け10人の子供に恵まれます。(うち3人は幼少時に死亡)
1842年、ダーウィンとエマは「古くて不恰好な」ダウンハウスを購入し、入居します。二人が家に求めていた3つの条件、田舎にあり、増築できる余地があり、広々とした土地があること。ダウンハウスはこれらの条件を満たしていました。(ダウンハウスは18エーカーの土地と共に購入されました。参考:東京ドームはおよそ11.5エーカー)
ダーウィンは、ダウンハウスに引っ越してから、晩年ここで亡くなるまでの40年間、断続的に家を増築、改築します。ハウスは17世紀に建てられたままで、人が住んでいない期間も長く、内装外装、設備全てが19 世紀の生活には時代遅れのものでした。
しかし、ダーウィンとエマは、自分たちの生活に合うように、部屋を増やし内装を整えていきます。中でも目を引くのは、ダーウィンが入居してすぐに増築したハウス西側の六角形のベイ。太陽光をふんだんに取り込める大きな窓がつけられ、外壁いっぱいにグリーンのトレリスが設置されています。

グリーンのトレリスは、ダウンハウスに個性を与えていますが、これはダーウィンのツル植物(蔦など)の実験研究に、欠かせないものでした。

そして荒れ果てていたガーデンには、研究目的の植物を植え、温室、暗室を作ります。
ダーウィンが研究設備を充実させていく一方、エマは花壇を作り、ガーデナーと共にキッチンガーデンに野菜や果物を植え、家畜を飼育して家族が十分に自給自足できるように整えていきます。
ダーウィンの毎日は、平穏な日課の繰り返しでした。朝食を食べ、書斎と庭で研究、敷地を取り囲む散歩道サンドウォークを散歩、午後1時ぴったりに昼食を取り、昼寝、そしてまた研究、夕食後はエマと毎晩バックギャモンをしながら談笑。


引っ越してからの4年間で、ダーウィンはHMSビーグル号の旅での調査をまとめ、3部作「珊瑚礁の構造と発展」「火山の島々」「南米の地学考察」を発表します。
その後持ち帰った少なくないフジツボの標本の系統分類研究をはじめ、没頭します。この頃、6歳ほどの長男ウィリアムが友達に、「それで、君のお父さんはどこのフジツボの研究をしてるの?」と尋ねたと。お父さんの仕事は、皆、フジツボの研究と思わせるほど、ダーウィンがフジツボに熱心だったことをうかがわせるエピソードです。
研究を進める中で、ダーウィンは、主にヴィクトリア時代を代表する以下の自然科学者たちと文通で頻繁に意見交換をしていました。
生物学者トーマス・ヘンリー・ハクスリー (1825-1895、ダーウィンの番犬と呼ばれた)
地質学者アダム・セジウィック(1785-1873、進化論には反対)
地質学者チャールズ・ライエル(1797-1875、地質学の父と呼ばれる)
植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー(1817-1911、自身の実地調査研究に基づき「南極大陸の植物相」「ニュージーランドの植物相」「タスマニアの植物相」「英領インドの植物相」などを発表)
ダウンハウスで研究に没頭し、家族との時間を送るダーウィンは病気がちだったこともあり、ロンドンには滅多に行かず、研究に関する意見交換は手紙で行っていました。
そして、1851年、1854年にフジツボの系統分類を発表した後は、鳩のブリーディングを始めます。助手は12歳程の次女のヘンリエッタ(エティ)です。ブリーディング仲間と意見交換をしながら、ダウンハウスの鳩小屋で優れた新種の鳩を作ることに没頭します。このブリーディングの過程で、ダーウィンは求められた性質のみが子孫に受け継がれる可能性の意味に気づき、「種の起源」の理論へ発展していきます。
またブリーディングと並行して植物の種の保存実験を行い、塩水に1ヶ月浸した後でも種は発芽することを実証し、植物が海を渡って子孫を残していく可能性を実証します。
1859年11月24日、ダーウィンは20年超の実証研究をまとめた「種の起源」(ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION, ON THE PRESERVATIONS OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE )を出版します。わずか500部の初版でしたが、すぐに完売。
ダーウィンの科学者仲間から拡がり、自然科学者の間で評判の著作となります。
「種の起源」は、英国国教会から批判を受け(神が創造主であることに反するため)、また自然科学者の中からも反対論者が出ましたが、ダーウィンは論争を好まずハクスリーやフッカーら、「種の起源」を支持する科学者がダーウィンを代弁し続け、「種の起源」は英国科学界で認められていきます。
1868年には 初めて「適者生存」(Survival of the fittest)の表現が用いられた 「The Variation of Animals and Plants under Domestication」をダーウィンは発表します。
ダーウィンは、科学者仲間からだけでなく、子供たち、使用人、地域の人々からとても慕われていました。子供たちは、ダーウィンの書斎を尋ねては一緒に遊ぼうと誘います。息子のレオナルドは、4歳の時、研究中のダーウィンを「6ペンスあげるから一緒に遊ぼう」と誘ったという微笑ましいエピソードも。
また使用人の殆どは長期間ダウンハウスで働き、執事のパースローは1839年から1876年まで37年間、長い髪を切ることを勧められながらも切らずにダーウィンに仕え続けました。パースローはダーウィンのビリヤードの良き相手でもあったようです。
ダウン村では、ダーウィンは村の名士で裁判の判事を務めていましたが、その判決の際、人間はもとより動物や家畜に対して残虐な行為を行なった者には厳しい態度で臨んだことが、知られています。
また、ダウンの大地主ジョン・ラブロック卿の息子ジョン(1834-1913)は、ダーウィンから非公式に自然科学の教えを受け、のちに著名な自然科学者になります。父親ジョンは息子に対して厳格で、自然科学を穏やかに説いてくれ、慈愛に満ちたダーウィンを、ジョンは慕っていました。
そして、ダーウィンの長男ウィリアム(1839-1914)、3男フランシス(1848-1925)は、それぞれ成人してからもダーウィンと共にダウンハウスでの研究に取り組み、実績を残しています。父親と同じ道を選び研究者になった息子が二人。父親への尊敬と信頼が自然に導いた結果でしょうか。
1882年4月初め、サンドウォークを散歩中にダーウィンは狭心症の発作で倒れ、4月19日
エマと子供たちに見守られて亡くなります。自然科学者として多くの実績を残し、多くの人に慕われた73年の生涯でした。
ダーウィンの73年間の生涯のうち、半分以上の40年間を、ここダウンハウスで家族と共に研究生活を送り、地域社会に参加、貢献しました。
そしてHMSビーグル号航海の5年間の記録と収集した標本を、ここダウンハウスで20年以上をかけて歴史的な著書「種の起源」に昇華させたのです。
ダーウィンの死後、ハクスレー、ジョン・ラブロックらダーウィンを支持する科学者達が議会に強く働きかけ、国家的英雄ダーウィンのウェストミンスター寺院への埋葬を訴え、家族は躊躇ったものの、現在ダーウィンはニュートン、ホーキング博士らと共にウェストミンスターに眠っています。
ダーウィンの書斎には、部屋中、どこからでもよく見えるように暖炉の上に、3枚の写真が吊り下げられています。

向かって右は、ダーウィンとエマ2人の祖父であるジョサイア・ウェッジウッドI (1730-95、ウェッジウッドの創始者)、左はジョセフ・ダルトン・フッカー、真ん中は、チャールズ・ライエル。
祖父のジョサイアは、ウェッジウッドの創始者で、大変な苦労をして陶器生産の実験を重ね、のちに王室御用達になるまで陶器事業を成長させました。ジョサイアの苦労と成功は
ストークオン・トレントにあるウェッジウッドミュージアムで詳細に展示されています。
フッカーは、ダーウィンと同じく南極からインドまで幅広い現地調査をして植物を研究した経験があり、ダーウィンが生涯の「ソウルメイト」(魂の友人)と呼んだ人物です。ライエルは、実地調査研究の先駆者。
ダーウィンは、研究で迷いが生じた時、孤独や行き詰まりを感じた時、祖父、フッカー、ライエル、の写真を見て、自分を励ましました。
そして、地質研究で自然が自然を導くことを実証したライエルの顔を見ていると、生物の系統研究に取り憑かれている自分も、また自然現象の一部なのだと、納得するのでした。
幼少時に、3人の姉から可愛がられ、優しい兄と妹に囲まれて育ったダーウィンは、結婚してからはエマと子供たちに囲まれ、研究の苦悩はあっても、心の穏やかさ、豊かな慈愛は変わることはありませんでした。
ダウンハウスに入ると、その穏やかな毎日が、今でも感じられるのです。
一番、印象に残ったのは、ダーウィンが考案し村の大工が作った子供達用の「滑り板」です。階段に置いて、子供たちが滑り降ります。こんな滑り板があったら、子供は大喜び、順番を競って、いつも遊んでいたことでしょう。小さい子は、ダーウィンがだっこして、一緒に滑り降りていたかもしれません。

書斎は、ダーウィン当時を再現していて、多くの家具もオリジナルのものとのこと。暖炉右の書類棚は、ビーグル号の仕様を模しているそうです。ダーウィンの几帳面さが伝わってきます。
ダーウィンの子供たち、孫たちが楽しい時間を過ごしたダウンハウスは、のちにダーウィン博物館となり、今はイングリッシュ・ヘリテッジにより管理・公開されています。



ダーウィンの育てた蔦が影を落とす
参考:「Down House:THE HOME OF CHARLES DARWIN 」English Heritage、「ビーグル号航海紀」平凡社、「ダーウィン『種の起源』を漫画で読む」いそっぷ社