ヒストリックハウス名:バッキンガム・パレス

所在地域:イギリス、ロンドン

訪問:2013年8月4日

バッキンガム宮殿・東正面、ポートランド石の美しい白色が特徴

John Sheffield, 1st Duke of Buckingham and Normanby(1648-1721)

ジョン・シェフィールド、初代バッキンガム公爵およびノルマンビー侯爵

イギリス王室の象徴となっているバッキンガム宮殿ですが、昔は蚕用クワの栽培園でした。

現在のように王室のハウスとなったのは18世紀後半からです。今回は、バッキンガム宮殿の名前の由来となっている初代バッキンガム侯爵ジョン・シェフィールドをご紹介します。

バッキンガム宮殿の地は、ジェイムズ1世(1566-1603-1625)の時代、王室御用の蚕用クワの木の栽培園でした。1628年にチャールズ1世(1600-1625-1649)が栽培園をアストン卿に譲渡したときは、栽培園の作業小屋が建っているだけでした。

1633年にはゴーリング卿がアストン卿の息子から栽培園を購入し、立派なハウス、噴水庭園、テラスウォーク、中庭、洗濯用の庭を造り、栽培園から貴族の館に変わります。

のち1688年にはチャールズ2世(1630-1660-1685)の国務大臣アーリントン伯ヘンリー・ベネット(1618-85)の住まいとなっていましたが、火事でハウスは消失。しかしヘンリーは直ちにハウスを再建します。

10年後、1698年には第3代マルグレーブ伯及びノーマンビー侯爵ジョン・シェフィールドが短期賃貸契約で入居しますが、1年後ジョンはハウスと土地を買い取ります。ジョンはヘンリーが再建したばかりの家を全て取り壊し、新しいハウスを建築します。このハウスが現在のバッキンガム宮殿の原型となっています。

ジョンは、18歳から軍人として実績を積んできた人物で、1674年、26歳の若さでチャールズ2世から、名誉あるガーター騎士に任命されます。チャールズ2世の忠臣として宮廷で存在感を増すジョンは35歳の時、当時17歳のアン王女(後のアン女王1665-1702-1714)に求婚するという大胆な行動に出ます。アン王女はジェイムズ2世の次女で、当時ジェイムズ2世の長女メアリーに次いで王位継承権第3位。ジョンの自信というか野心というか、大胆な姿がうかがえます。ジョンを重用するチャールズ2世も流石にこの求婚には待ったをかけ、アン王女は翌年、デンマーク王の次男プリンス・ジョージと結婚します。

しかし、軍人特有の颯爽とした姿で、王の信頼を得ている自信からくる堂々とした立ち振るまい、なおかつ女性の心を捉える言動を心得ているジョンは、プロポーズは実を結ばなかったものの、しっかりとアン王女の心を掴みました。

そして、ジョンはジェイムズ2世の時代になると枢密院のメンバーとなり、国政の中枢メンバーに。ウィリアム3世&メアリー女王にもそつなく仕え1694年にはノーマンビー侯爵に叙爵されます。

1702年アン女王の時代が始まると、すぐさまアン女王はジョンを側近とし、翌年には

ジョンをバッキンガム公爵に叙爵、宮廷のトップクラスの役職、国璽(こくじ)長官に任命します。この頃から、元王室クワ園に建てられたハウスは、ジョンの知名度の高さからバッキンガム・ハウスと呼ばれるようになります。

国政の舞台では、大躍進のジョンですが、家庭生活は悲しみが多いものでした。

37歳で、遅い最初の結婚(1685)をしますが、妻ウルスラには子供がないまま12年後に先立たれます。50歳で2度目の結婚(1698)をしますが、やはり子供がないまま妻サラが5年後に死亡。57歳でジェイムズ2世の庶子25歳のレディ・キャサリンとの3度目の結婚(1705)で3人の息子を得ますが、長男エドマンド (1716-1735) 以外の二人は幼くして死亡。

ジョンは、57歳の3度目の結婚の直後に、庶子チャールズ・ハーバート・シェフィールド(1706-1774)を22歳のフランシス・ステュワートとの間に設けています。

バッキンガム公爵に叙爵され、国璽長官になり、バッキンガムハウスに住んでいても、57歳のジョンは、跡を継ぐ息子がいないことが、何よりも悩みの種でした。もう自分は57歳、2度の結婚で子供ができなかったことは過去のこととして、今はなんとしても可能性に賭けたいということで、25歳の若い妻と結婚しつつも、さらに若い22歳の愛人との関係を続け、息子チャールズを得て安堵したのです。

10年後に妻との間に得たエドマンドは、順調に育つものの多くの子供が病で命を落とすこの時代、ジョンはエドマンドを見るたびに、どうか健康に大きくなってくれと心の底から願うのでした。エドマンドが5歳、チャールズが15歳のとき、ジョンは73歳で死亡。

エドマンドが5歳でバッキンガム公爵位を継ぎますが、肺結核で独身のままローマにて19歳で死亡。ジョンの切なる願いは叶いませんでした。バッキンガム公爵位は継ぐ人が無く、廃絶します。

しかし、王室に対しての貢献度が高かったジョンの庶子チャールズは、急遽ジョージ2世によりシェフィールド子爵に叙爵され(1735)て、バッキンガムハウスを継承することを許され、バッキンガムハウスの主となります。

 棚からぼた餅・・・という感じで、子爵になりバッキンガムハウスに住むことになったチャールズ。

バッキンガムハウスは、ジョンの美意識から当時最高の芸術家や職人により造られ、彫刻家ジョン・ノスト(1729没)による正面最上にそびえる彫像「アポロ」「自由」「公正」「メルクリウス」「真理」「秘密」が、ハウスに芸術的な趣向を加えていました。(現在はこの彫像はありません)

ほど近くには、王が住むセント・ジェームス宮殿がありますが、この宮殿より遥かに洗練され美しいバッキンガム・ハウスは王室から羨望の目を向けられ続けることになります。

そして、1760年に即位した若き王ジョージ3世(1738-1760-1820、22歳で即位、ジョージ2世の孫)には、すでにジョンに対する恩義や遠慮といったものは無く、バッキンガム・ハウスは若き王に相応しい住まいとして映ります。

ジョージ3世は側近の第3代ビュート伯から、チャールズにハウス売却の交渉を行わせます。王室からの売却の依頼では、チャールズには断るという選択肢はありませんでした。

1761年、チャールズは、バッキンガム・ハウスを王室に売却、その後1762年から1776年にかけて大規模に改修、増築されます。1775年にジョージ3世王妃シャーロットが入居するとバッキンガムハウスは、「王妃の館」(Queen’s House)と呼ばれるようになり、ジョージ3世とシャーロット妃の15人の子供のうち1人を除いた全員が、ここ「王妃の館」で生まれました。

以来、歴代の王、女王はバッキンガム・パレスをロンドンでの住まい、執務場所としています。ヴィクトリア女王の時代、夫君アルバート公が亡くなってからは、ヴィクトリア女王はバルモラル城、オズボーンで40年に渡り喪に服していたため、バッキンガム宮殿は君主不在でした。訪れる人もなく、暗く朽ちていくだけの休眠状態でしたが、続くエドワード7世の時代からは活気をとりもどし、戦時中は爆撃の的となるという厳しい時代を経て、今では英国王室の象徴のように見られています。

バッキンガム宮殿は、夏の間、予約制で一般公開されていて、宮殿2階の主要な部屋をゆっくり見学できます。(2021年夏は公開があるようです。宮殿内は撮影禁止)

公式行事の時などに王族がバルコニーに姿を見せることがありますが、このバルコニーに向かって左手に「大使の入り口」というゲスト用の入り口があり、そこから入ります。大使を迎える公式の入り口ですが、こじんまりとしています。圧倒されるのは、武具、武器、鎧の類がこれでもかと壁を飾っていることです。

おそらく昔、実戦で使用したものでしょう、鈍い光を放っています。

2階に上がり、順路に従い王座の間(王族の結婚式の写真を撮る部屋)や絵画の間など、2階の主な部屋が見学できます。もちろん壮麗なのですが、今から思うとブレナムパレスなど他の大規模カントリーハウスと比べると、若干地味で、独自の飛び抜けた何かに欠けるようにも思えます。

もともと、バッキンガム公の家だったものを改築、増築しているのでかつてのカントリーハウスっぽさが、どうしても残る、といった印象です。

ただ、エリザベス女王がこの建物で現在執務されていることや、歴代の王・女王が歩いた廊下や部屋と思うと、とても感慨深いものがあります。

裏手のテラスでは、テントが張られてティールームとなっていました。見学後、ここで一息。バッキンガム宮殿でティーをいただくのは、とても特別な気分でした。(2021年夏の公開では、このテントは無いようです)

バッキンガム宮殿・庭園に面した西正面、白いテントの下がティールーム

少し離れた王室の厩(ロイヤルミューズ)にも行きました。王室の車やエリザベス女王が戴冠式の時に乗られた馬車が展示されていました。馬車は金色で、これ以上は豪華にできないという感じで、ハウスは他にもっとも壮麗なものはあるけれど、馬車は王室に勝るものなしと、確信しました。

戴冠式でエリザベス女王が乗った馬車、馬の飾りもすごい、御者は蝋人形
現エリザベス女王がご成婚の時に故フィリップ殿下と乗った馬車。御伽話に出てきそうな赤い車輪。

バッキンガム宮殿の名前の元になったバッキンガム公爵の公爵位は、過去4回、叙爵があります。

①スタッフォード家(1444-1521) 初代はヘンリー5世忠臣、ヘンリー6世により叙爵。第2代はリチャード3世からヘンリー・テューダーに鞍替えし、リチャード3世により処刑され、第3代はトマス・ウルジーにより処刑され公爵位廃絶。

②ヴィリアーズ家(1623-1681) ジェイムズ1世寵臣ジョージ(ジェントリ出身)が叙爵されるが第2代死亡後、継承者いなく廃絶。

③シェフィールド家 (1703-1735) 今回の主役ジョンが叙爵されエドマンドの死で廃絶。

④グレンヴィル家(1822-1889)  初代は元首相ジョージ・グレンヴィルの息子、ジョージ4世により叙爵、第3代公に継承者いなく廃絶。

グレンヴィル家で廃絶されて以降は、叙爵がないのでバッキンガム公は、歴史上の人物となってしまいました。上記①②③の公たちはそれぞれ、歴史上とても存在感がある方たちですが、イギリスの歴史で単にバッキンガム公というと、①のバッキンガム公となるかもしれません。

チャールズから購入したバッキンガム・ハウス、宮殿前に設置したヴィクトリア女王の像、衛兵交代、バルコニーでの王族の挨拶などの付加価値で、王家宮殿としての存在価値が高まり、英国王室のみならずイギリスのシンボルとして知られる存在となっています。

バッキンガム・ハウスを買い取ったジョージ3世は、静かな住まいとすることを目的としていたようですが、国のシンボルの一つとなった今、なかなか先見性があったといえます。

ただ歴史を振りかえると、英国王室の本丸といえるのはウィンザー城(ウィリアム征服王が建築)なので、海外賓客を迎えての晩餐会、VIPのティーへのご招待はウィンザー城で行われることもあるようです。(2021年6月G7サミットの後、エリザベス女王はバイデン米国大統領夫妻をティー@ウィンザー城に招かれました)

ジョンもチャールズも立派になったバッキンガム・ハウスに苦笑いしつつも、バッキンガムの名前が残っていることにきっと満足していることでしょう。

宮殿前に建つのは進歩、平和、工業、農業、絵画、建築、造船、戦争の8体のブロンズ像に護衛され玉座に着くヴィクトリア女王の彫像
バッキンガムパレス前からトラファルガー広場につながるザ・マル

参考:「バッキンガム宮殿公式ガイドブック」、「英国王室史話」森護、Wikipedia