
ヒストリックハウス名:ハットフィールド・ハウス
所在地域:イギリス、ハートフォードシャー
訪問:2016年4月3日
Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury (1565-1612)
ロバート・セシル、初代ソールズベリー伯爵
エリザベス1世(1533-1558-1603)が25歳で即位してから45年の治世中、女王の右腕は、バーリー卿ウィリアム・セシル(1520-1598)とその息子ロバート・セシル(1565-1612)でした。
バーリー卿ウィリアム・セシルは2度結婚し、1度目の結婚(1541? 、妻Mary Cheke)での息子がトマス・セシル(1542-1623)、2度目の結婚(1546、妻Midred Cocke)での息子が今回の主役ロバートです。ウィリアムはトマスに政治的な才能を見出さなかったようで、ロバートを自分の後継者と決め、宮廷で早くから自分の補佐役として経験を積ませます。
前回ご紹介したバーリーハウスは、トマス・セシルの子孫エグゼター伯爵・侯爵の本拠地でしたが、今回ご紹介するハットフィールド・ハウスはロバートの子孫ソールズベリー伯爵・侯爵の本拠地になります。
1558年エリザベス1世即位と同時に枢密院メンバーとなり男爵に叙爵されたバーリー卿ウィリアムは叙爵5年後に自身の本拠地となるカントリーハウス、セアボルツ(Theobalds)の地を購入し、壮麗で大規模、最新の設備を備えたハウスを新築します。
フォーマル・ガーデンはフランスのフォンテンブローをお手本に造られ、王室お抱え庭師のヘンリー・ホースローンが手がけます。セアボルツはエリザベス1世の巡幸の際の宿泊所となっていて、エリザベス1世は1572年から1596年の間に8回、訪れています。殆どの貴族にとって巡幸で訪れてもらえるのは、一生に一度あるかないかの大イベントであった時代、セアボルツが別格の扱いだったことがわかります。
1598年にバーリー卿ウィリアムが亡くなると、ロバートがセアボルツの当主となります。(バーリー卿爵位は兄のトマスが継承)父が亡くなる少し前から、ロバートはエリザベス女王に最も近い側近となっていました。エリザベス女王のもう1人の側近、機密情報面で女王を支えていたフランシス・ウォルシンガムも1590年にすでに他界し、高齢のエリザベスは政治・外交面でロバートにすっかり頼り切っていました。
そんなロバートの存在を疎ましく思っていたのは、女王の愛人、第二代エセックス伯ロバート・デバリュー(1566-1601)です。エセックス伯は女王の33歳年下ですが、ハンサム好きなエリザベスは、エリザベスの元愛人でエセックス伯の義父であるレスター伯ロバート・ダドリー(1532-1588、本サイト、ケニルワースに登場)に連れられて宮廷入りしたエセックス伯の端正な姿に目を奪われてしまったのです。
しかし、ロバートとエセックス伯の軋轢は、今に始まったことではありません。
10歳で父親が戦死したエセックス伯は、バーリー卿ウィリアムに引き取られ、ロバートと一緒に育ちますが、この2人は外見も性格も対照的でした。
小柄で背骨が曲がり虚弱体質で慎重な性格のロバート、背が高くハンサム、騎乗や剣術が得意で社交的、感情的で大胆なエセックス伯。
そして大人になってからは、父の補佐として地味な装いで事務仕事をするロバート。華やかな軍服に身をつつみ、エリザベスの愛人となったエセックス伯。
自信に溢れ、宮廷の女性たちの視線を集めるエセックス伯は、当初、ロバートなど目に入りませんでした。戦場で功績を上げて、女王の歓心を買うことのみに邁進しますが、なかなか功績を上げられず、気持ちばかりが空回り。戦費を使いすぎる、勝手に敵と休戦を決めるなど女王の意向に反くことも多々あり、エセックス伯は女王の信頼を徐々に失っていきます。
一方、ロバートは父の補佐をしながらイングランドの財政や徴税についての知識と経験を積み、国全体の舵取りに必要な実務と交渉術を身につけ、女王の信頼を得ていきます。
お世話になった重鎮バーリー卿が亡くなると、エセックス伯は女王に重用されるロバートへの敵意を、あからさまにするだけでは足りず、1601年1月に遂に仲間と共にクーデターを起こすも失敗。このクーデターはロバートが仕切る政府議会に対するものであり、女王に対してではないと裁判で申し開きをするものの、女王の怒りは収まリません。愛人ではあったものの国政上、謀反を見過ごすわけにもいかず、エセックス伯は同年2月に斬首刑となりました。
エセックス伯の処刑で、女王を支える実力者はロバートのみとなります。この頃、女王は68歳、目に見えて衰えが目立ち、誰もが王位の継承のことを考えずにはいられませんでした。
女王は継承者を明示しませんでしたが、スコットランドのジェイムズ6世(1566-1603-1625、イングランド王としてはジェイムズ1世)が継ぐことを暗黙のうちに認めていました。その女王の暗黙の意思は、国家の意思であるとして、ロバートは女王の生前からジェイムズ6世との交信を、密かに進めていました。
1603年にエリザベスが崩御するやいなや、ロバートはスコットランドに早馬を走らせ、大きな混乱なく王位は承継されました。
恐る恐るといった感じで、王妃、家族と共にロンドンにやってきたジェイムズ1世を、ロバートは最高の敬意を払う儀礼で、恭しく出迎え、民衆に正当な後継者であることを強烈に印象付けます。
ジェイムズ一世は即位後、ロンドンに着くとすぐにロバートをエッセンドン男爵に叙爵し、功を報います。そして1605年には初代ソールズベリー伯爵に叙爵します。
ジェイムズ1世は、スコットランドから連れてきた廷臣を取り巻きとし、ジョージ・ヴィリアーズ(1592-1628)を個人的好みから重用するも、ロバートが国政の要であることは十分に承知し、疎かにすることはありませんでした。
ジェイムズ1世はロバートの本拠地、壮麗、快適で洗練されたセアボルツの館をとても気に入り、頻繁に訪れるようになります。
当時、スコットランドは辺境の地といった感じで、ジェイムズ1世のスコットランドの宮殿、スターリングやホリールード、リンリスゴーは中世の要塞そのもので、快適、豪華とはほど遠い造りでした。
ロンドンのホワイトホール宮殿もヘンリー8世の時代の設備から大して変わっておらず、ジェイムズ1世にとってセアボルツは始めて体験する豪邸の居心地の良さだったのです。
そして、その豪華さを気に入るあまり、王妃アン・オブ・デンマークの兄でデンマーク王クリスチャン4世(1577-1648)が1606年7月、イングランドを訪問する時に、セアボルツで歓迎晩餐会を開くことを決めたのです。
王妃の兄デンマーク王を迎える晩餐会を、我が家で開催・・・ロバートは、ジェイムズ1世から「デンマーク王は、君の家で迎えようと思うが、差し支えはあるか?」と聞かれたとき、耳を疑いましたが、Noと言える訳がありません。「大変な光栄でございます」と
後ろに下がりながら返事をし、君主に相応しい晩餐会に向けて周到な準備を始めました。
ジェイムズ1世は長時間かけて深酒をするのでよく知られ、しかもその姿は、とても上品とは言い難いものだったようです。口いっぱいに酒を溜め、頬を膨らませてもぐもぐしながら、ギョロギョロと周りを見渡し、所在なく歩き回るので、臣下の者は落ち着かないばかりか、その醜悪な所作から目を背けたくなるのでした。
そして1606年7月、イングランドの気候が最も快適な時、ジェイムズ1世(40歳)とクリスチャン4世(29歳)は、セアボルツにやってきます。
ロバートは、2人の王を楽しませるために、その当時流行していた本格的な仮面劇の上演を用意、この上演のために人気の俳優、楽団を手配し、衣装、舞台装置、仮面を全て最新のデザイン、最高のクオリティで用意します。
しかし、上演前に、ジェイムズ1世とクリスチャン4世はすでに泥酔、出演する女優たちも劇中に2人の王が酒を勧めるため、女優たちもすっかり酔っ払ってしまい、セリフを言えないばかりか、2人の王の前でふらつき、渡そうとした贈り物を王の膝に落として倒れ込むといった、「目を覆うばかりの乱れた宴会」になってしまったようです。
そんな乱れた宴会を、柱の陰からじっと見ていたのは、ロバートの長男15歳のウィリアム (1591-1668、後の第2代ソールズベリー伯爵)でした。ウィリアムはロバートに連れられてエリザベス1世に折にふれて挨拶に行っており、俗人とは違う威厳ある君主の姿を幼い頃から見ていました。エリザベス1世は臣下と一緒に飲食はせず、酔った姿を臣下に見せるなど論外でした。そしてウィリアムのことを自分の孫のように、優しい眼差しで見てくれていたのです。
そんなエリザベス女王を、はっきりと覚えているウィリアム。
他国の王であるクリスチャン4世はともかく、スコットランドから来たとはいえ自国の王ジェイムズ1世が、臣下の家で口いっぱいに酒を含みもぐもぐしながら、ふらついて女優とだらしなく戯れている。ウィリアムは驚くというよりも、軽蔑が心の底から湧き上がってくるのを抑えられず、また青年特有の潔癖さからジェイムズ1世の醜悪さに嫌悪感さえ持ってしまうのでした。
しかし、ジェイムズ1世にとってはこの放埒豪華な宴会が、忘れられない楽しい思い出となりました。
というのも、前年1605 年にはガイ・ホークス (1570-1606)による議会爆破未遂事件があり、ロバートの情報網による陰謀の発覚がなければ、ジェイムズ1世は議会もろとも爆破され暗殺されるところだったのです。
この陰謀の発覚で、ジェイムズ1世反対派を一気に処刑する事が出来、ロバートはジェイムズ1世にとってはまさに命の恩人となったのです。ジェイムズ1世は、不穏な輩を処刑したあと、全幅の信頼をおくロバートの館での宴会。迎えているのは気が合う若者王クリスチャン4世、気持ちの良い7月の夕刻、ということで即位後、最も心が安らぎ、解き放たれた幸福感を味わったのでした。
翌年、1607年になるとジェイムズ1世は、セアボルツを自分の宮殿にしたい気持ちを抑えきれなくなります。
王妃アンもホワイトホール宮殿やグリニッジ宮殿の古さに不満がいっぱいで、「セアボルツに住めたらいいのに」などとはっきりと言ってきます。
「そういえば、ヘンリー8世(1491-1509-1547)はウールジ(トマス・ウールジ1475?-1530)からホワイトホール(後のホワイトホール宮殿)とハンプトンコート(後のハンプトンコート宮殿)を没収したよな・・・」と過去の実例を思い出すと、むしろセアボルツは、自分のものにするべく建てられたような気さえしてきます。
ある日、ジェイムズ1世は、ロバートに、「もし君がよければ・・・の話なんだが、セアボルツとハットフィールドを交換しないか?ハットフィールドは、王家の由緒ある館、エドワード5世、メアリー女王、エリザベス女王の3人が育ったところでもある。そんな王室の家がソールズベリー伯爵の代々の館になったら、子孫も誇りに思うのではなかろうか?」といつになく、微笑みながら、快活に語りかけてくるのです。
ロバートは、腰を抜かさんばかりに驚きます。
父自身がこだわって設計した中庭を囲む壮麗なエリザベス様式の3階建ての館、ハンマービームの天井、大理石の暖炉、オークに紋章の彫刻をした大階段、紋章が刻まれたガラス窓の数々(当時ガラスは大変な贅沢品)、フランス風に整えられた庭園、美しい噴水。ロバートが育った館でもあり、父から引き継いでからも、次のウィリアムに引き継いでいくようにメンテナンスを丁寧に行ってきています。
それをあの古ぼけたハットフィールドの館と交換・・・
セアボルツよりさらにロンドンから離れているハットフィールドは、ヘンリー8世の時代からの王家の館の一つ。ヘンリー8世の子供達、メアリー、エリザベス、エドワードは、ここで育ちました。土地全体の面積はセアボルツより、はるかに広いのですが、館は15世紀後半に建てられたもので1558 年にエリザベス1世が女王に即位し出て行ってから早50年・・・手入れもされず廃墟に近づきつつありました。
とても賓客を迎えたり、ましてや君主を迎えられるような体裁の館ではありません。
ロバートは、仕方なくセアボルツからハットフィールドに移り、古い館に住みながら、猛スピードで新しい館の建設を始めます。早く建設するのと経費節約のために、古い館4棟のうち3棟を取り壊し、取り壊した建物のレンガを使って、新館を建築します。
ロバートの立場では、君主を迎えられる館を持つのは、当時は当然のことでした。
新館が完成して間もなく1611年、ジェイムズ1世が自分の等身大の石像を新築祝いに携え、意気揚々とやってきます。臣下が君主の訪問を受けるのは、大変に光栄なことではあるのですが、ジェイムズ1世の石像をもらってもロバートはあまり嬉しいとは思えないのでした。
その像は、今も飾ってあり、ジェイムズ1世の部屋と名付けられています。

元々の虚弱体質の上に、セアボルツを没収されたこと、ジェイムズ1世と議会の調整役の心労があったのか、父ウィリアムが78歳とこの時代では長寿だったのに対し、ロバートは
1612年49歳で亡くなります。
柱の陰から、ジェイムズ1世を見つめていたウィリアムが第2代ソールズベリー伯となりました。ウィリアムは常にジェイムズ1世とは距離を置き、ウィリアムの時代になってからはジェイムズ1世はハットフィールドを訪れることはありませんでした。
ジェイムズ1世は晴れて自分の宮殿となったセアバルツを頻繁に訪れては、狩や宴会を楽しみ、1625年に59歳でセアボルツで亡くなります。
ジェイムズ1世の次男チャールズ1世(1600-1625-1649、ジェイムズ1世の長男ヘンリー・オブ・スターリングは18歳で病死、本サイトBolsover Castleボルズオーバー・カースル参照)が即位するとウィリアムはさらに国王から距離を置き、もはや王家の忠臣という立場では無くなります。
そして、チャールズ1世が処刑されると、王家と距離をとっていたことから貴族としては数少ないイングランド共和国国務会議のメンバーとなります。ジェイムズ1世、チャールズ1世に冷ややかに接してきたウィリアムだからこそ、あり得た事でした。
ウィリアムの子孫は、この後、代々政治家として活躍し、第7代伯爵ジェイムズ(1791-1868)はジョージ3世により、ソールズベリー侯爵に叙爵されます。そして、第3代侯爵ロバート・ガスコイン・セシル(1830-1903 )は、インド大臣、外務大臣そして首相を3度務めます。現在は1946年生まれの第7代公爵ロバート・ガスコイン・セシルが貴族院院内総務を務めておられるようです。
ジェイムズ1世お気に入りのセアボルツは、清教徒革命の際に、議会派に破壊されてしまい、今は小さな部分廃墟が残るのみです。
私がハットフィールドを訪問したのは4月初めで、イギリスでは春の象徴とされるダフ(水仙)がきれいでした。

ハットフィールドの顔と言えば、「マーブル・ホール」。Netflix「Crown」シーズン2ではフィリップ殿下が戴冠式準備委員会の総裁になり、会議で熱弁するシーンがこの部屋で撮影されています。また、ケイト・ブランシェット主演の映画「エリザベス・ゴールデンエイジ」ではウォルシンガムの臨終のシーンがこの部屋で撮られています。ウォルシンガムの臨終のベッドルームがハットフィールドのマーブル・ホールというのが、ひねりが利いています。他にもこの部屋はよく撮影に使われています。



エリザベス女王、メアリー女王、エドワード5世が育ったオールドパレスは今もあり、
イベントや結婚式の会場として貸し出されています。
エリザベス1世は、メアリー女王の死=自身の即位を、パークランドを散歩中にオークの木の下で知らされました。そのオークの木はすでに枯れてしまったのですが、同じ場所に現女王エリザベス2世陛下がオークの木を植樹されています。


参考:Hatfield House website, Burghley House website, 「英国カントリー・ハウス物語」彩流社、「英国王室史話」森護、Wikipedia, Cambridge University Press 「Theobalds , Hertfordshire :
The Plan and Interiors of an Elizabethan Country House」 17November 2017 Emily Cole,