
ヒストリックハウス名:ハンプトン・コート
所在地域:イギリス、ロンドン近郊サリー
訪問:2015年8月1日、2017年4月2日

Thomas, Cardinal Wolsey(1472/3-1530)
トマス・ウルジー枢機卿
イギリス全土のカントリーハウスの中で、おそらく一番観光客が多く訪れると思われるハンプトン・コート。テムズ川沿いにあり、ロンドンからボートで行き来できるロケーション。30分程度でロンドン中心部から移動できるのに、狩猟ができる広大な土地がある。その地の利から、ハンプトンはウィリアム征服王の時代から近世まで、王室に近い廷臣のカントリーハウスであった時期が長いのです。
テムズ川が大きく曲がり、なだらかな丘がある「ハンプトン」の地は、サクソンの時代から要衝の地でした。ウィリアム征服王(1027?-1066-1087)がイギリスを征服したとき、おそらくここにはすでに要塞があったと思われます。サクソンの要塞を征服したウィリアムは、この要塞と周辺一体の土地を腹心の部下の1人、ウォルター・セントヴァレリーに与えます。商才豊かなウォルターはフランスから牧羊を導入し、ハンプトンを豊かな領地へと発展させます。
ウォルターの子孫達は、ハンプトンの領地経営を続けながらも、トレンドの聖地奪回に情熱を燃やし、十字軍に参加、エルサレムへ赴きます。そしてウォルターの子孫は、十字軍に参加しているうちに、ホスピタル騎士団との関係を深め、1180年頃までに、ハンプトンの領地全体をホスピタル騎士団にリースするようになりました。
ホスピタル騎士団は、324ヘクタール(800エーカー)の土地で農業を営み、2000匹の羊を飼い、領地を順調に運営していました。しかし時が経つうちに、ロンドンに近いこの土地を、王室廷臣などにリースに出した方が良いのではないか、ということになります。
最初はエドワード4世、リチャード3世に仕えた、ジョン・ワード。しかしリチャード3世の治世が終わったことでジョンのリースも終わり、10年間、再び騎士団にリースが戻った後、ヘンリー7世( 1457-1485-1509) の廷臣ギルス・ドベニー(1451-1508)がリースします。
ドベニーは、「機を見るに敏」という表現がぴったりくる人。 24年間に3人の王、 エドワード4世 (1442-1461-1483)、リチャード3世(1452-1483-1485)、ヘンリー7世が騒乱、戦争を経て即位する激動の時代に、俊敏に対応し、「誰にいつ付くか」を見事に判断、そして王への忠誠ぶりは高く評価され、今はウェストミンスター寺院に眠る、歴史的忠臣と言える人物のようです。
ドベニーはハンプトンの地を買取りたかったのですが、ホスピタル騎士団はリースの解約を拒否、借地のまま、ドベニーはハウスを充実させていきます。
1494年からのドベニーのリースの期間は99年間、条件は、使用、改築、新築、増築、破壊のいずれもOKというものでした。ドベニーは、コートヤード(中庭)、ゲートハウス、キッチン棟、塔がついた宿泊棟を新築し、王族や外国の賓客を迎えられる立派なカントリーハウスに整えます。
99年間のリースといえば、バーリントンコート(本サイト、別記事参照)もそうでした。バーリントンコートが建つ地は、15世紀頃はドベニー一族の領地だったので、もしかしたらドベニー繋がりで、バーリントンコートのリースも99年になったかもしれません。(バーリントンコートのリースは、1919 年から)
ドベニーは、ハンプトン・コートで王族、賓客をもてなし、またそのおもてなしが、彼を次の昇進へと導き、ドベニーは、1495年ヘンリー7世の宮廷長官に上りつめます。
ヘンリー7世は、ドベニーのハンプトン・コートをほとんど自分の別荘のように使い、「1人で一息つきたい」時は、最小限の侍従だけを連れて、ハンプトン・コートにやってくるのでした。
1508年にドベニーが56歳で亡くなるまで、ヘンリー7世はハンプトン・コートを頻繁に訪問します。まだ幼い次男ヘンリー(後のヘンリー8世1491-1509-1547)を一緒に連れてくることもありました。ドベニーが亡くなった翌年、ヘンリー7世はドベニーを追うように亡くなります。
ドベニーがハンプトン・コートをリースしていた期間は14年間。ドベニーの死後、息子はリースを売却します。
この頃、宮廷で、趨勢を増していたのが、トマス・ウルジーでした。ウルジーの父親は、畜産業者、貴族どころかジェントリでもありませんでした。しかしウルジーは、聖職者としてキャリアを積み、ヘンリー7世のプライベート司教に抜擢され、その機敏さ、独創的な策略でヘンリー7世の信頼を得てフランスに渡り、ヘンリー7世の私設スパイのような役目を任されていました。
私設スパイの役目をそつなくこなすウルジーは、イングランドに帰国してからはヘンリー8世にも重用され、ヨーク大司教を経て1518年にはイングランド枢機卿に就任、宗教的トップの立場になり、ヘンリー8世の超側近となります。
ウルジーは、父親が残した負債に苦しむドベニーの息子から、1514年にハンプトン・コートのリースを買い取ります。リースの買取なので、まだ持ち主はホスピタル騎士団のままです。
教会トップとして、怖いもの無しのウルジーは、借地であることなど気にせず、ヘンリー8世とその家族を迎えるために、ハンプトン・コートの大増築を急ピッチで進めます。今では、ハンプトン・コートの象徴となっているグレート・ゲートハウス、堀(今は無い)、60mのロングギャラリー、その頃、最新だったルネッサンススタイルをふんだんに取り入れて、ローマ風の月桂冠の円型装飾が外壁につけられます。
新宿泊棟には、スイートルームが30室。全室に銀製の水差しと洗面ボウルが備えられ、高価なタペストリーが惜しげもなく、掛けられます。
ヘンリー8世、キャサリン王妃、メアリー王女滞在用のそれぞれの専用ロイヤル・ロッジングは特に豪華を極めた造りでした。ヘンリー8世の部屋は2階(日本の3階)にあり、ガラス窓は巨大な造り(当時ガラスは大変な贅沢品)で、石床の通路と豪華な造りの暖炉が今も残ります。
しかし、ヘンリー8世の従者は800人、王妃の従者は200人、王女の従者は160人だったので、これらのスタッフを一度に全員宿泊させることは、さすがにできなかったので、3人が一緒に滞在することはなかったとのこと。
ウルジー自身用のスイートは、こじんまりとした、しかし天井の皮細工(小天使が遊ぶ図柄)など細部に凝った造りでした。
ウルジーは、フランス宮廷でベルギー製タペストリーの素晴らしさに魅了され、次々と高価なコレクションを増やしていきました。豪華とはいえ、ハウスは借地の上。タペストリーは持ち運びできる自分の財産であることも、ウルジーがタペストリーに執心する一つの理由でした。
ウルジーにしてみれば、ハンプトン・コートを豪華に増築することは、ヘンリー8世への「おもてなし」に他なりませんでした。ドベニーがヘンリー7世のためにハンプトン・コートを借金までして増築したのと同じで、ウルジーはヘンリー8世のためにハンプトン・コートのリースを買取、美麗に整えたのであリ、それ以外の目的はありませんでした。
ヘンリー8世は、子供時代に父親がハンプトン・コートを別荘扱いしていたのと同じように、たびたびハンプトン・コートにやってきては、狩猟や宴会をしてくつろいで行くのでした。ヘンリー8世にとっては、ごく自然、当たり前のことであり、ウルジーに恩義を感じるなどということは、ありません。
ウルジーに全幅の信頼を寄せていたヘンリー8世ですが、時代の変わり目がやってきます。
ヘンリー8世は、世継ぎの息子欲しさとアン・ブリーン( 1507?-1533-1536)への恋心(?)から王妃キャサリン・オブ・アラゴン(1485-1509-1536)との離婚を決意。離婚をローマ教皇に認めさせるようウルジーに命令するも、ウルジーは教皇を説得できず、離婚するためにヘンリー8世は英国国教会を設立。ウルジーはヘンリー8世の逆鱗に触れ、 1528年に宮廷、そしてハンプトン・コートからも追放されてしまいます。
ウルジーが自分の財産として、大切にしていたタペストリー 600枚もヘンリー8世が没収、ウルジーの手元には1枚も残りませんでした。
ウルジーを追い出したあと、ヘンリー8世は、ホスピタル騎士団のリースを買い取るのではなく没収したようで、ヘンリー8世以降はハンプトン・コートは王室所有となります。
ウルジーのリース期間は、偶然にもドベニーと同じ14年間でした。
ハンプトン・コートといえば、「ヘンリー8世がウルジーから没収」で、大変によく知られます。しかし、ヘンリー8世にしてみれば、英国国教会を設立した時点で、カトリック教会(ホスピタル騎士団含む)の所有物は、自分のものになったわけで、しかもそこには自分のために建てられたハウスがあるから、自分が住むことにした、という流れですから、没収、見せしめ、という懲罰意識はなかったかもしれません。
今のハンプトン・コートを見ると、広大美麗なガーデンに囲まれた、大規模壮麗なハウスなので、これはヘンリー8世が住みたくなるのも無理はない、と思いがちですが、現在の壮麗なハウスはウィリアム3世 (1650-1689-1702)&メアリー女王が建てたもので、ヘンリー8世の時代は、もっと小規模な中世の館で、全く趣が違うものでした。ですから、ウルジーの所有でもないハンプトン・コートからウルジーを追い出したことは、その時代では大したことではなかったように思えます。
ウルジーを追い出した後、ヘンリー8世は、一番のお気に入りの滞在場所として
ハンプトン・コートで次々と変えた5人の妻達と過ごします。3人目の妻、ジェーン・シーモアはハンプトン・コートで後のエドワード6世(1537-1547-1553)を出産しています。
ヘンリー8世は、息子エドワード誕生半年後、 1538年から、当時のハンプトン・コートより遥かに規模の大きいノンサッチ宮殿をエプソム(ハンプトン・コートから車で南へ20分ほど)に建て始めます。大規模な建設であったため、9年後にヘンリー8世が死亡する時に、まだ完成していませんでした。
ヘンリー8世にとっては、ノンサッチこそが彼の理想を実現する宮殿だったのです。
…ノンサッチ宮殿は、其の後、チャールズ2世が愛人バーバラ・ヴィリアーズに与え、バーバラは宮殿を解体し、資材を売却して、ギャンブルの借金返済に充てました。ということで、ノンサッチは名前のみが、歴史に残ります。
その後、ハンプトン・コートでの主な出来事は・・・
ヘンリー8世の五番目の妻で斬首されたキャサリン・ハワードの幽霊が出る噂が定番に。
エリザベス1世はハンプトン・コートで水疱瘡に罹ったことから、近寄るのを嫌がる。
ジェイムズ1世はハンプトン・コートでエリザベス1世の衣装を使って仮面劇を上演し、長時間の放埒な深酒宴会。初めて英語版聖書を作ることにハンプトン・コートで同意する。この英語版聖書への同意は、ジェイムズ1世が後世に残した、数少ない業績です。
チャールズ1世はハンプトン・コートに幽閉されますが、夜、庭から脱走し、2年後処刑に。チャールズ2世は何人もの愛人をハンプトン・コートに住まわせる。
義理の父ジェイムズ2世を追い出して妻メアリー(ジェイムズ2世の娘,1662-1689-1694)と共に即位した(1689年名誉革命)ウィリアム3世は、ロンドンよりもハンプトン・コートを好んで、宮廷とすることを決め、大規模な新棟をフランス、ヴェルサイユ宮殿を模して建設します。建築家は、時代を代表するクリストファー・レンとウィリアム・トルマンでした。
ハンプトン・コートにはグレートファウンテン・ガーデン、プリビィー・ガーデン、ワイルドネス&メイズ(迷路)、ポンドガーデンなどいくつもの広大なガーデンがあり、現在に残ります。これらもウィリアム3世の時代に造られました。しかし、1702年2月20日ウィリアム3世は、ガーデンで乗馬中、馬がもぐらの穴に足を取られ、落馬。鎖骨を骨折し、数日後に亡くなります。
その後、ジョージ3世の時代に、ハンプトン・コートの王家の住まいとしての役割は終わり、王室勤務、または王室勤務を終えたスタッフたちの住まい、王室社宅のような感じになり、同時に観光地として賑わうことになっていきました。
ハンプトン・コートは、中世・ルネッサンスの趣が復元されているヘンリー8世ロッジングと、 17世紀のウィリアム3世アパートメントに分けられ、二つは全く違う趣で一つのハウスで二つの時代を体感できる良さがあります。
私が訪れた時、ヘンリー8世のグレートホールでは、中世の衣装をつけた方々がさりげなくテーブルに座って談笑しており、時間になると中世の歌を皆で歌ってくれ、まるで中世の宮廷にいるかのような気分にさせてくれました。
一方、ウィリアム3世アパートメントの中身は、フランス宮廷風で高い天井、ギボンの彫刻が部屋のあちこちに見られ、豪華な内装になっています。
ガーデンは広大ですが、短時間でぐるりと見て回れる馬車があり、パカパカいう馬の心地よい足音を聞きながら、庭を巡ることができます。ワイルドネスガーデンの中に、迷路がありますが、小規模ながら、なかなか難しく、初めて行った時は、「一生、出られないのでは!?」と焦りました。



参考:「The Story of Hampton Court Palace 」David Souden and Lucy Worsley, 「Explore Hampton Court Palace」Historic Royal Palace,「英国カントリー・ハウス物語」彩流社、「英国王室史話」森護、Wikipedia,