
ヒストリックハウス名:ウィルトンハウス
所在地域:イギリス、ウィルトシャー
訪問:2015年8月4日、2016年8月30日
ウィルトン・ハウスPart1では、ヘンリー8世の時代に、ハウスを最初に建てた初代ペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバート(1501-1570)について書きました。Part2では、初代伯爵の孫で、第4代伯爵のフィリップ・ハーバート(1584-1650)と建築家イニゴ・ジョーンズがチャールズ2世から暗黙のリクエストを受けてロイヤルアパートメント(南棟)を建築中に、チャールズ2世が処刑になってしまった件でした。今回は、さらに時代が下り第11代伯爵ジョージ・ハーバート(1759-1827)が建築家ジェイムズ・ワイアットと、揉めながらハウスを今の姿に変えていったストーリーです。
ウィルトン・ハウスは、約500年にわたり代々のペンブルック伯爵が造りあげてきた館で、その経緯を知ってから訪れると、一層奥行きを持って、楽しめます。
James Wyatt(1746-1813)
ジェイムズ・ワイアット
1794年にジョージ・ハーバートが第11代伯爵になると、ジョージはロマンティックな構想を描き始めます。その頃、トレンドであった復古古典主義~ゴシック風建築~に魅かれていたジョージは、ウィルトンをゴシック風に改築し、また時代に相応しい快適さの実現を、決意します。
ジョージは、迷うことなく、ジェイムズ・ワイアットを建築家に選びます。
ワイアットは、ジェームズ3世お気に入りの建築家で、王室関連建築の総合プロデューサーのような地位にあり、人気沸騰中だったのです。
ゴシック風建築を得意とし、王室の建築責任者であるワイアットに、ジョージが何か疑いを持つ余地はありません。ジョージが、ウィルトンを「ゴシック風に変身させたいのだが、どのようなアイデアが?」と尋ねると、ワイアットは、「ウィルトンの美しい正方形を生かして、クロイスター風の回廊を内側に増築し、そこにギリシャ、ローマの彫刻などを並べれば、類まれなゴシック的な空間になりますな」と即座に答えるワイアットにジョージは、いたく感動し、一刻も早く着工して欲しい、と熱く思うのでした。
しかし、ワイアットは、建築家のセンスはあるとしても、プロジェクト・マネジメントの能力は、かなり疑わしい人物でした。
ワイアットは、王室の他にもすでに多くの顧客を抱えており、同時平行で多くの建築を進めていました。
1804年には、ウィルトンの大きな特徴である、中庭をぐるりと囲む回廊が建設されます。しかし、1801年の着工時に来て以来、ワイアットは1805年の回廊完成時まで、一度もウィルトンに来なかったのです。ワイアットの部下、ヘンリー・ラズムーアに任せっきりでしたが、ヘンリーの怠慢な仕事ぶりに、ジョージから苦情が出たため、1803年にヘンリーを外し、その後任者のジョージ・ロビンソンは、理由は不明ですが、引き継ぎ後すぐに死亡してしまいます。
つまり、ウィルトンは、ワイアットの引いた図面をもとに工事は進んでいるものの、現場で、監督する人物がおらず、職人達がてんでバラバラに仕事を進めているという有り様でした。温厚なジョージも、流石に1805年には、堪忍袋の緒が切れて、という感じで年初に、ワイアットに怒りの手紙を送ります。するとワイアットは、「本当に申し訳ない、責任を感じている、必ず7月には参りますので、ご理解のほどどうぞよろしくお願いします」と、平謝りの返事を送りますが、ウィルトンにやってきたのは、9月になってからでした。
ワイアットは、今の表現で言えば、共感力に長けていて、憎めないタイプ、なんとなく相手の気持ちを和ませる一面があったようです。怒るジョージも、ワイアットに会うと、怒りが霧消し、ワイアットの世間話を楽しんで聞いてしまうのでした。
翌年1806年は、ワイアットが10月29日から12月8日までと1ヶ月以上、ウィルトンに滞在したことから、工事は飛躍的に進みます。
1807年も、4月、8月、10月、11月と4回ワイアットの訪問があり、ジョージとワイアットは良好な関係。
1808年、ワイアットは5月にウィルトンに来て、石工棟梁ウィリアム・チャントリーに工事を任せ、1809年にはエドワード・クロッカーを今でいうプロジェクト・マネージャーのような工事全体の管理責任者に任命。しかし、この2人は、お互いに憎み合い、足を引っ張りあったことから、工事が停滞し始めます。このような工事の停滞がウィルトンのみならず、他の工事でも頻発、施主からの苦情が相次ぎ、ワイアットはストレスからか病気になり、寝込んでしまいます。しかも収支に大雑多であったワイアットは、人気建築家であるのにも関わらず、多額の負債を抱え込んでいました。
停滞する工事にいらつくジョージに、ワイアットの息子ベンジャミンは、多額の請求書を送り付け、ジョージは「工事が進んでいないのに、請求書とは!」と激怒します。
そして、激怒しているところに、増築部分から生じる異臭問題が起き、怒りに油を注ぎます。
怒りの手紙を送るジョージ、平謝りの手紙を送るワイアット。
このような手紙のやりとりのみが1年続き、体調を取り戻したワイアットは、1810年、再びウィルトンを訪れます。この年、ワイアットはウィルトンを5回訪れて、工事を進めますが、ジョージの怒りは今回は収まることはありませんでした。
また、ワイアットの負債を解消するために、息子ベンジャミンが、請求額を多め多めに計上してくることも、ジョージの気に障り、ついにジョージは、ワイアットに契約解除を言い渡します。この時点で、回廊の建築、北側入り口の増築は終わっており、次は内装に入るというタイミングでした。
当初、ジョージは内装もワイアットに任せるつもりでしたが、内装で力を発揮したのは、ジョージの2度目の妻、ロシア大使の娘のキャサリン・ウォーンゾ(1784-1856)と建築家、彫刻家、内装デザイナーのウェストマコット卿でした。キャサリンが持つ美意識をウェストマコットが具現化していくというパートナーシップで、各部屋は美しく仕上げられていきます。ワイアットの甥、ジェフリー・ワイアットもこの内装には関わっています。
キャサリンは、まず、ワイアットが増築した回廊に、ギリシャ、ローマ時代の彫像などを、美しく配置することから始めます。背景の壁の色、台座の高さや、大きさ、デザインがキャサリンの美意識のもと慎重に決められ、ウェストマコットが石材を選び、建築的バランスを計算し、形にしていきます。
回廊のインテリアが、満足いく結果となり、キャサリンは、ウェストマコットに部屋の内装も続けて依頼します。
今も、豪華なロココ調の内装と家具で知られるシングル、及びダブルキュービックルームはキャサリンとウェストマコットによるものです。
家具は、部屋の内装にしっくりと馴染み、全て特注で作られたんだろうな、という印象でしたが、実際はリサイクル品の活用!
家具の大半は、エセックスの大規模カントリーハウス、ウォンステッドハウスのハウス取り壊し前、大放出セールでキャサリンが買い求めたものでした。そうでないチッペンデールの家具は、ロンドン、ホワイトホールのペンブルック・ハウス用に作られたものを、ウィルトンに運んできたリサイクルでした。(ペンブルック・ハウスは19世紀初頭から賃貸に出され、ペンブルック伯爵一家は住んでいませんでした。)
キャサリンのノートには、内装や家具配置のイメージスケッチが大量に残されています。きっとこのスケッチを、ウェストマコットやジェフリーに見せながら、デコレーションを進めていったことでしょう。
キャサリンとウェストマコットが完成させた、インテリアや家具配置は、まるで美しい絵画を見るようです。この完成された空間を、変える気になる子孫はまだおらず、今もそのままを見学することができます。
美しい空間を創る、そして美しい空間で時を過ごす、ことの意義や意味を改めて考えさせてくれるウィルトンの訪問でした。


参考:
Charles Philips ,Palaces & Stately Houses of Britain & Ireland,原書房 (2014)
John Martin Robinson, WILTON HOUSE ,Rizzoli International Publications(2021)
森護「英国王室史話」上下、中央文庫 (2010)