訪れた日は、シトシトと雨が降る曇天。時代をまたいで改築を繰り返されたハウスは、不均衡ですが渋味満点

ヒストリックハウス名:ウーバンアビー

所在地域:イギリス、ベッドフォードシャー

訪問:2016年9月10日

ウーバンアビーは、イギリスでも特によく知られるカントリーハウスの一つで、3,000エーカーの敷地に、第一次、第二次世界大戦時には秘密情報部が置かれた後、戦後には、ハウスの生き残りを懸けて、遊園地やサファリパーク、ゴルフコース、雉のハンティング場など、ありとあらゆる娯楽開発がされたことで知られます。今回は前編として、ウーバンアビーの初代持ち主となったジョン・ラッセルについて書きます。

John Russel (1485-1555)

ジョン・ラッセル初代ベッドフォード伯爵

港町ウェイマスで、代々ワイン商を営むラッセルファミリーの一員として、ジョンの仕事は、フランスから来るワインの積荷を、港で下ろし、倉庫に保管することでした。

前夜、ひどい嵐だったため日が昇ると共に、ジョンは被害状況を見に、港へ向かいました。すると、難破船が港に着いたところのようで、中から貴族らしき夫妻がほうほうの体で降りてきたのです。2人は、九死に一生を得た、という感じで真っ青な顔、髪はボサバサ、ずぶ濡れです。難破船の船員たちは、大声で叫びながら、慌ただしく船の損傷をチェックしていて、聞こえてくるのは、ドイツ語です。

商人の一家で育ったジョンは、ドイツ語が堪能。ジョンは青ざめている2人に駆け寄り、ドイツ語で話しかけます。すると、2人は、地獄で天使を見た、というような表情で、スペインに向かう予定で出港したが、前夜の嵐で、ここへ流れ着いてしまった、どうしたものか。。。と途方に暮れているのです。

2人がオーストリア大公フィリップ夫妻だとわかり、ジョンは仰天しますが、困り果てている2人を家に招き、手厚くもてなします。そして、大公夫妻は、せっかくイングランドに上陸したのだから、国王に挨拶に伺いたいと言い、ジョンは夫妻に言われるまま、通訳としてウィンザー城へ同行します。

ジョンは、この時21歳。キビキビとフットワーク軽く、笑顔で明るくドイツ語を話し、甲斐甲斐しく夫妻の世話をしてくれるジョンに、大公夫妻の心は和み、初めてきたイングランドへの警戒心も氷解します。

ウィンザー城に到着すると、一介の商人の息子であるジョンを、国王ヘンリー7世に紹介し、「この若者のおかげで、いやいや大変助かりました。イングランドには、足を向けて寝られませんな」などと言って、ジョンを褒めます。

本来ならば、王主催の晩餐会などに着席できる身分ではないジョンですが、大公夫妻の通訳として、特別に着席を許されます。晩餐会で通訳として、王族、大公夫妻を大いに盛り上げたジョンは、ヘンリー7世の強い興味を引き、宮廷への出入りを許されたばかりか、「ドイツ語ができる人材がいたほうが、外交に良いだろう」という理由から、なんと枢密院のメンバーに抜擢されます。

この抜擢には、ジョンも驚愕し、国王への忠誠を固く誓います。

とはいえ、外交、政治の経験がないジョン。ヘンリー7世は、15歳の次男ヘンリー(後のヘンリー8世、長男アーサーはヘンリー7世に先立ち病死)の良い勉強仲間になるだろう、ということで、ジョンはヘンリー王子と共にグリニッジ宮殿で、芸術や科学を一流の家庭教師たちから学びます。自然と剣術や狩にも同行するようになり、ヘンリー王子のいるところに、ジョン・ラッセルあり、という感じになります。

1509年にヘンリー7世が死亡し、18歳のヘンリー王子がヘンリー8世として即位すると、ジョンは自分がチャールズ・ブランドンや、ヘンリー・コテネーなどと一緒に王の「取り巻き」の1人として、宮廷の中心にいることに気づきます。

田舎の港出身のジョンですが、ドイツ語が堪能で、商人独自の情報ネットワークでドイツやフランスの事情に通じるジョンは、宮廷で重宝され、外交や軍事で国王のアドバイザーとして大いに活躍します。

ヘンリー8世の取り巻きの1人として、出世街道を進むジョンでしたが、商人出身ということで宮廷の嫉妬の対象にもなりにくく、知らない間に陰謀に巻き込まれる、という不幸もなかったようです。

1522年には騎士に叙爵され、コーンウォール、デボン、ドーセット、サマセットなどのイングランド南部の管理を任されます。1526年にはアン・サップコート (1489-1559)と結婚し、チェニスマナーハウス(バッキンガムシャー)、大規模なカントリーハウスであるトディントン・マナー(ベッドフォードシャー)はジョンのハウスとなります。

チェニスは、地味な田舎家に過ぎませんでしたが、1534年にヘンリー8世が訪問を希望したため、西棟を全面改築し、南棟と北棟を新築、庭を整え王室用宿泊棟を新設し、最低限、王が泊まれる体裁を整えます。

そして、改築が終わる頃に、教会破壊で王室領となったタビストック全域が、ヘンリー8世からジョンに与えられます。

ジョンは、このあと、王室から領地とハウスを多々与えられますが、比較的小規模な、チェニス・マナーハウスを好み、拠点としていました。死後も本人の希望でチェニスに埋葬され、妻、そして多くの子孫もチェニスに埋葬されています。

1525年に、同じく取り巻きのヘンリー・コテネー(本サイト、オケハンプトン・カースル参照)が、クロムウェルの嫉妬からくる陰謀に巻き込まれ、処刑されてしまうと、コテネーが管理していたデボンも、ジョンの管理下に加えられます。

そして、1547年のヘンリー8世の死亡時には、ヘンリー8世の遺言「長年、国王ヘンリー8世に忠実に仕えた親密な仲間への遺贈」として、ウーバン・アビー、コベントガーデン(ロンドン)が与えられ、さらに1549年にはエグゼターのオールド・ドミニカンアビーが与えられ、このアビーは改築後、ベッドフォード・ハウスとなります。

そして1550年にはエドワード6世により、ベッドフォード伯爵に叙爵され、商人の息子は初代伯爵となり、テムズ川沿いストランドに7エーカーの土地とハウスも与えられます。このハウスは、ラッセルハウスとなり、代々、ラッセルファミリーのロンドンの家となります。

このようにウーバンアビー、トディントン、コベントガーデン、ベッドフォードハウス、ラッセルハウスなど数々のハウスを持っていても、ジョンが自分の拠点としていたのは、最後まで、こじんまりとしたチェニスマナーでした。

バッキンガムシャーで、私がウォーキングツアーに参加した時、たまたま集合とランチ&解散場所がチェニスマナーでした。手入れはされているのですが、「古ぼけた」感満載のマナーハウス。明日から一般公開開始というタイミングでしたが、特別にウォーキングツアー参加者にハウスツアーをしてくれました(ハウスの人なっつこい犬がずっと一緒についてきました)。

天井が低く、各部屋も狭め、窓も小さく、暖炉の側にヘンリー8世の肖像画が飾ってありました。ガーデンは立派で、イチイの生垣が綺麗に整えられていました。ガーデン側の別館で、ハウスに住むマダムの手料理をランチにいただいたのですが、とても美味しかったのをよく覚えています。

ウーバンアビーは、ジョン在命中、朽ち果てていく修道院跡(ヘンリー8世の教会破壊で強制閉院)で、さらに火災によって見るも無惨な状態で、ジョンは全く興味を示すことなく、ただ放置されていました。

1555年にジョンは70歳でメアリー女王治世中に死亡。ジョンの死後も、ウーバンアビーは廃墟であり続け、ウーバンに命が吹き込まれるのは、ジョンが死亡してから66年後、第4代伯爵フランシス(1593-1627-1641)の時代になってからです。フランシスはロンドン、コベントガーデンに第3代伯爵の時代に建てられたベッドフォード・ハウスとコベントガーデン周辺の開発とともに、ウーバン・アビーを伯爵家に相応しいルネッサンス様式のハウスとガーデンとすることに情熱を傾けました。

フランシスは、「プレジャー・ガーデン」という新しいコンセプトをガーデンに導入し、家族のみならず、地域の人々が楽しめる開かれたハウスとなりました。

私は、コベント・ガーデン(ロンドン)にあるロイヤルオペラハウスへバレエを観に何度か訪れました。それぞれ地理的には離れている、コベント・ガーデン、チェニスマナー、ウーバンアビーがいずれもベッドフォード伯爵・侯爵の所有であったとは、という感慨があります。

フランシスの後、子孫たちはウーバンに各々、手を加えていきますが、その中でも、庭園設計家レプトンと共に、庭を大きく進化させた第6代ベッドフォード侯爵ジョン・ラッセル(1766-1839)について次回は、書きます。お楽しみに!

シトシト冷たい雨の降る日、ガーデンにいたのは、私とこの雄鶏だけでした
トサカがとても立派で、ガーデンの主の風格がある

参考:

Keir Davidson, Woburn Abbey The Park and Gardens,Pimpernel Press LTD、森護「英国王室史話」上下、中央文庫 (2010)