
ヒストリックハウス名:ウーバンアビー
所在地域:イギリス、ベッドフォードシャー
訪問:2016年9月10日
前編では、ヘンリー8世・エドワード6世治世下で、通訳から伯爵まで大出世を遂げ、ウーバンアビーの初代持ち主となったジョン・ラッセルについて書きました。今回は、ジョンの子孫でウーバンのガーデンを、現在の形へ大きく発展させたジョン・ラッセル第6代ベッドフォード侯爵についてです。
John Russel ( 1766-1839)
ジョン・ラッセル第6代ベッドフォード侯爵
ジョンは、第4代侯爵ジョン・ラッセル(1710-1771)の孫で次男。第4代の長男フランシス(1739-1767)が第4代より先に亡くなり、第5代侯爵は、フランシスの長男、ジョンの1歳上の兄であるフランシス(1765-1802)が、6歳で継承します。しかし、兄フランシスが、テニスボールが当たった事故がもとで、37歳で死亡。未婚で嫡子がいなかったため(婚外子は2人いた)、弟ジョンが侯爵位を継承し、ウーバンアビーを含め多数あるベッドフォード侯爵の領地やハウスを管理する立場となります。
ジョンは一つ年上の兄フランシスと一つ年下の弟ウィリアム(1767-1840、就寝中に使用人による殺害で死亡した人物として知られる)と共に三人で、祖母に見守られてウーバンアビーで子供時代を過ごします。
ジョンは、兄が侯爵承継者であること、次男である自分はウーバンから離れる立場であることを、祖母から繰り返し言われ、育ちました。
ですから、兄フランシスが不慮の事故から亡くなり、自分が侯爵になりウーバンに住むことは、予想も想像もしない、とても意外なことだったのです。
兄フランシスは、遊び好きな皇太子ジョージ(後のジョージ4世1762-1820-1830)の取り巻きの1人で、狩猟、競馬、ギャンブルなどのお供をしていました。一方、皇太子の遊び仲間であるということは、最良の状態に整えられた各地のハウス、庭園を訪れるということであり、自分のメイン領地、ウーバンアビーを最高のものにしたいという欲求が日々、高まっていきます。
兄フランシスは、ただ遊びに明け暮れるだけでなく、領地を近代的な農業を実践するモデルファームに改良し、他領主達の注目を集めます。
ガーデンには、ディアパーク(鹿狩りのために鹿を遊牧する広いフィールド)、狩猟の設備の一つして最高の設備を備えたケンネル(犬舎)、競走馬のための厩舎、室内テニスコートやデイリー(乳製品を作るおしゃれなロッジ、当時大流行)を新設し、ただ歩いて景色を眺めるだけのガーデンでなく、当時の先進を行く多機能な「プレジャーガーデン」をスピーディに整えていきました。
第6代侯爵ジョンは、そのような兄の遺志を受け継ぎながらも、自身の植物への強い関心をガーデンに反映させていきます。
ジョンは、ウーバンを引き継ぐと、まず庭園設計士、ハンフリー・レプトン(1752-1818)にガーデンデザインを発注。レプトンは、1788年頃から1793年頃まで大変人気があり、年間平均18件ほどの依頼を受けていましたが、1793年以降は人気に翳りが出て低迷、ジョンの依頼を二つ返事で引き受けます。(ジョンは兄フランシスが生前、レプトンに庭園設計を依頼したことから、兄のプロジェクトを引き継ぐ意味でレプトンに依頼)
ジェイン・オーステンの「マンスフィールド・パーク」第6章で庭園改良の話題になったときに、登場人物の一人が「庭園の改良ならハンフリー・レプトン氏に頼むのがいいんじゃないかしら」と言うと、言われたカントリーハウスの持ち主が「いや、僕もそう思っていたんだ。レプトン氏はコンプトン屋敷の庭園をみごとに改良したから、すぐに彼を雇ったほうがいいと思っているんだ。」というくだりがあり、レプトンが如何に時の人であったかが、わかります。
レプトンは、提案を「レッドブック」と呼ばれる赤い冊子にまとめ、庭園設計の
ビフォー&アフターを自らが描く美しい水彩画で施主に見せていました。ウーバンの「レッドブック」にも、レプトンが水彩で描いた美しい庭園風景が、多数綴じられていて、提案書を超えた名画集のような趣があります。
レプトンが提案した動物園や鳥の鑑賞園などの工事が、一通り終わると、ジョン一家は1813年から3年間、スペイン、ポルトガル、イタリアに住み、ウーバンはしばらく休眠することになります。
そして、3年後、ジョンはウーバンに帰ってくると、自身の植物への強い関心を、ガーデンに投影する工事を進めていきます。
ガーデンを囲むようにバーチ、アルダー、ポプラ、楡を植えて鬱蒼とした森を造り、ヘザーフィールド、ローズガーデンを造り、理想的な草原を実現するために「グラスグラウンド」、多種類の草の生育を実験するグラウンドを造ります。そして妻の為に、季節ごとに美しい花々が競り咲く、プライベートフラワーガーデンを整えます。
ウーバンの歴史に残り、当時の人々を感動させたのは、常緑樹の森「エバーグリーン」の開発でした。
当時のイギリスでは、一年中、緑を保つ常緑樹はまだ珍しく、世界各地から集めた常緑樹を種から育てて、森を造るというのは大きな挑戦でした。しかし、暗く寒い冬に、豊かな自然の緑を楽しめるエバーグリーンの森は、人々の心に癒しや希望を与えます。ジョンは、根気強く、常緑樹を育て、ついにエバーグリーンの森を実現します。
当時の人々のエバーグリーンへの感動は、ジェイン・オーステン「マンスフィールドパーク」第22章で、主人公ファニーがエバーグリーンについて語るところからも、わかります。
「ああ!常緑樹!常緑樹はなんて美しくて、なんてありがたくて、なんてすばらしいんでしょう!考えてみると自然は驚くほど変化に富んでいるわ!ある国では落葉樹の方が珍しんですって。でもとにかく、生存の第一原則と法則が異なる植物を、同じ土壌と同じ太陽が育てるというのは驚きだわ。」
ジェーン・オーステンが「マンスフィールド・パーク」を書いたのは、 1811年から1813年(刊行は1814 年)、ジョンが帰国して造園を再開したのが、1816年なので、同じ時代です。
クリスマスツリーのモミの木も常緑樹。しかし、まだこの頃イギリスでは、クリスマスツリーを飾る習慣はありませんでした。クリスマスツリーは、ヴィクトリア女王の夫、ドイツ出身のプリンス・アルバートが、オズボーンハウス(本サイトでご覧下さい)で飾ったことから始まり、イギリスの一般家庭に広がりました。潜在的な常緑樹への憧れが、その背景にあってのことかもしれません。

そして、10人の子供を持つジョンは、もちろん子供用ガーデンにも、抜かりはありません。
さまざまな植物が植えられた花壇、洞窟、迷路、大ブランコ。ウーバンのチュードレンズ・ガーデンは記録は残るものの、現存せず、絵も残りませんが、デボンにあるラッセル家のハウスの一つ、エンズレイのチュードレンズ・ガーデンの絵が残されていて、ヒントをくれます。花壇と迷路で造られたガーデンの周りには、小さな子供の背丈に合わせた水路が廻らされ、水路におもちゃのボートを浮かべて、遊べるようになっています。こんなガーデンで過ごした思い出は、きっと人生をとても豊かにしてくれることでしょう。
ジョンのガーデンへの情熱、植物への強い関心は、当初のレプトンのガーデンデザインを凌駕して、他には類を見ない、ユニークなガーデンを創りあげたのです。
晩年、体調を崩したジョンを見守っていた侍医Dr. アレン・ソムソンは、自身の日記で、ウーバンの庭を「日々の思索に、超越した感覚を与えてくれる、プレジャーガーデン」と表現しています。アレンは、ウーバン滞在時、日々、ガーデンを散策。
10歳のジョンの娘、レディ・レイチェルと樹木、草花の名前を一緒に覚え、魚釣り、ポニーライディングなどを楽しみ、プレジャーガーデンを満喫していたようです。
ジョンは、1839年、スコットランドで73歳で死亡。ジョンの息子フランシス(1788-1861)が第7代侯爵となって2年目、1841年に若きヴィクトリア女王(1819-1837-1901)がウーバンのガーデンに興味を持ち、来訪します。
君主の来訪は、清教徒革命中のチャールズ1世以来で、ジョンが情熱を注いだガーデンは、若き女王の賞賛を受けるという最高の名誉を受けたのです。
ジョンが創ったエバーグリーンの森は、現在もウーバンにあり、ガーデンを取り囲んでいます。私が訪問した時は、トライアスロンの大会がガーデン全体を使って開催されていて、駐車場に辿り着くまで、迂回路につぐ迂回路。ジョンが創ったエバーグリーンを横目に見ながら、ガーデンの周りをぐるぐると何周もしたのでした。
ウーバンを引き継ぐ予定ではなかったジョンが、ウーバンに今も残る森を残し、ガーデンに強い個性を与えたことを思うと、歴史は偶然の積み重なりであることを、静かに、教えてくれているように思えます。
参考:
Keir Davidson, Woburn Abbey The Park and Gardens,Pimpernel Press LTD、森護「英国王室史話」上下、中央文庫 (2010)、ジェーン·オースティン、中野康司訳「マンスフィールド·パーク」ちくま文庫(2020)

