ヒストリックハウス名:ショウズコーナー
所在地域:イギリス、ハートフォードシャー
訪問:2016年9月11日

ここは、私の谷(dell) であり、住まいである(dwelling)
ここの魅力は、私の言葉(my telling)を、はるかに超えている
アイルランドが、私の生まれた場所だけれど(birthplace)
この家は、私の最後の居場所となるだろう(my final earthplace )
Shaw’s Rhyming Guide to Ayot St Lawrenceより
Bernard Shaw( 1856-1950 )
バーナード・ショウ
今まで訪れた中で、住んでみたいと思ったハウスは数えるほどですが、ショウズコーナーは、その一つ。今思い出しても、ああ!住みたい!ショウは、1906年から賃貸で住み始め、1920年には購入、1950年に94歳で亡くなるまで、44年間をこのハウスで過ごしました。
ショウズコーナーは、バスや鉄道の駅から遠く、新聞さえも配達されない人里離れた田舎のその奥地、といった場所で、今でも街から遠く離れ、荒地を抜けたところに建っています。
建物は、旧牧師館で10部屋ほどのこじんまりとした造り、そして南斜面に広がる広い庭と林があります。庭は、ショウが住んでいた時から、果樹や野菜、季節の花々が庭師によって美しく整えられ、庭の南端にはひっそりとしたブナや杉の林があります。そして林の中にはショウの創作を産んだ「離れ」(The Writing hut )が今も建っています。

ショウは毎朝、このハットで、創作を進めていました。ハットは今もそのまま残されていますが、魅力的なのは、日照に合わせて建物の角度を変えられる可動式の造りです。林を背に南に向けて建て、時間により角度を自ら調節していたとのこと。中には、デスクとベッドのみの簡素なハットですが、そのこじんまりした空間は、創作に集中するのに最適な環境と言えるでしょう。


ショウは、ショウズコーナーを購入する少し前1898年に、シャーロット・ペイン・タウンゼント(1856-m.1898-1943)のプロポーズを受けて結婚しました。シャーロットとショウは、社会主義社会を目指すファビアン協会(現労働党の前身)の同志でした。裕福で自立した女性、シャーロットから前年にプロポーズを受けたものの、ショウは一度断ります。しかし、その後「悪魔の弟子」(The Devil’s Disciple1897年)のアメリカでの大ヒットで、経済的に余裕ができ、結婚を決意します。
アイルランドの貧しい家庭に生まれ、両親の愛情をあまり感じることなく育ったショウは、ロンドンでさまざまな苦労をしたのち、劇作家として成功し、ショウズコーナーに落ち着きました。
ショウは60作以上の戯曲を創作していますが、「ピグマリオン」(映画「マイフェアレディ」(1964)原作)を初め、多くがショウズコーナーで書かれています。

ショウはアイルランドで過ごした少年時代、ロンドンで過ごした青年時代に経験した辛酸をベースに、社会を風刺した作品を多く書いています。そのベースにヴィクトリア時代、まだ新しかった社会主義的思想への、共感がありました。
ヒットしたピグマリオン(1899年初演)は、女性の生き方がテーマになっています。下町で生まれ育ったイライザのコクニー訛りをヒギンズ教授が矯正していくストーリーですが、これは友人ウィリアム・モリスの妻で下町出身のジェーンが結婚する際に、訛り矯正や礼儀の訓練を受けたことにヒントを受け作られた戯曲と言われます。アイルランド出身のショウも自身のアイルランド訛りは、気になることでした。
ショウの死後作られたピグマリオンを原作とした映画「マイフェア・レディ」(1964年)の中で、ヒギンズ教授の家は、洗練されたウィリアム・モリスの壁紙、ファブリック、家具、ステンドグラスで、見事にコーディネートされています。リビングの壁にかかっている人物画はレーニンを思わせ、社会主義に共感していたモリスとショウを意識しているようです。イライザの部屋のインテリアの素敵なこと!ベッドの側の壁紙は、おそらくゴールデンリリー(これはモリスの一番弟子ジョン・ヘンリー・ダールによる)。ヒギンズ教授の好みであろうリビング、ライブラリーの重厚なテイストとイライザの部屋の軽やかで華やかなテイストの対比が、映画に素晴らしいリズムを与えています。原作「ピグマリオン」の中でも、ウィリアム・モリスのインテリアは意味を込めて、ミセス・ヒギンズの部屋(ヒギンズ教授の母親)で使われています。ピグマリオン、マイフェア・レディの世界は、ウィリアム・モリスがあって初めて完成すると言えるでしょう。
ショウは、イライザとヒギンズの関係を恋愛ではない、違う視点から捉え、男女の関係を多角的かつ複層的に描いています。そしてその関係の下地には、社会主義思想が感じられます。そのあたりは、1916年の版にショウが書き加えた「後日譚」に、詳しく述べられていて、この「後日譚」を読むことで、戯曲「ピグマリオン」で、ショウが伝えたかった狙いがわかります。
ピグマリオンの後、大きなヒットが出ない年が続きますが1924年に発表した「聖女ジャンヌ」(St Joan)は大ヒットとなり、この作品をきっかけに1926年にノーベル文学賞を受賞し、世界的に名前が知られます。
社会主義に強い関心を寄せていたショウは1931年、75歳の時にソ連の指導者スターリンをモスクワで訪問しています。ショウの社会主義への大変なエネルギーと情熱を感じます。

ショウズコーナーに住み始めてからのショウの生活は、平穏そのものでした。ショウの生活、創作をサポートする妻シャーロットに支えられ、美しい庭に囲まれた、落ち着ける自宅で、創作に取り組んでいました。シャーロットは、自立した精神と知性をもち、ショウの創作についても批判旺盛で、ショウの作品に、従属しない自由な女性の視点を提供していました。
近隣のコミュニティとも親しく付き合い、嵐の後の倒木処理に、ショウは自ら参加し、喜ばれています。ショウズコーナーという家の名前は、近隣の人々が親しみを込めてつけた家の名前です。
人里離れた、とは言ってもロンドンから数時間で来られる距離であり、車の普及も伴って、来客は絶えなかったようです。ショウの大きな成功につながったロンドンのコート劇場の設立に関わった俳優、劇作家のハーレイ・ベーカーとリリー・マカシー、ファビアン協会設立メンバーのシドニー・ウェブ、ウィリアム・モリスと娘メイ、キャスリン&ピーター・スコットの母子(ピーターの父親は南極探検で死亡したスコットで、ショウの友人)、アラビアのロレンスらは、頻繁にショウズ・コーナーを訪れていました。

90代になってからも、友人でイギリス初の女性議員であるアスター子爵夫人ナンシー・アスターと親しく、ショウの死後、すぐにやってきたナンシーは、新聞記者に横たわっているショウの写真を撮らせ、世界中に配信させるという、驚きの行動をとっています。

ナンシーによると、世界的に有名なショウの死亡は、よりセンセーショナルに報道されるべき、という考えだったようです。
ショウの残した言葉に「人生とは自分を見つけることではない、自分を創ることである」があります。ショウはこの家で、理想とする生活を送り、自分の社会に対する考えをコンスタントに劇作という形で世界へ発信し、歴史に名を残すバーナード・ショウとなったのです。
居る人をほっとさせ、温かな気持ちにさせる、ショウズコーナー。
この素晴らしい環境が、ショウの素晴らしい創作を可能にした、と青空のもと、確信したのでした。


参考:National Trust ,Bernard Shaw at Shaw’s Corner,2016、バーナード・ショー、小田島恒志訳「ピグマリオン」2021年