バッキンガムが建てたクリブデンは焼失したが、写真のテラス部分はバッキンガムの時代から残る。訪れた時はメンテナンス工事中でした。

ヒストリックハウス名:クリブデン

所在地域:イギリス、バークシャー

訪問:2015年8月15日

テムズ川沿いにあるクリブデンは、気軽にロンドンとボートで行き来できる距離、ウィンザー城にもほど近い、テムズ川沿いの高台にあります。今は、ラグジュアリーなホテルになってます。6年半前に訪れ、アフタヌーンティー、ディナーの後、1泊。気持ちが最高潮に盛り上がった、夢見心地の滞在だったことを思い出します。

クリブデンの歴史には、取り上げたい人物が何人もいます。まずは、クリブデンを建てた第2代バッキンガム侯爵ジョージ・ヴィリアーズ(1628-1687、以下バッキンガム)について前後編に分けて、書きます。

George Villiers, 2nd Duke of Buckingham(1628-1687)

ジョージ・ヴィリアーズ第2代バッキンガム公爵

バッキンガム公爵位は、これまで4度の叙爵と廃絶があります。

①スタッフォード家(1444-1521)

ハンフリー・スタッフォードが、対仏戦争でヘンリー5世を支え活躍した功績で、ヘンリー6世によって公爵に叙爵される。第2代はリチャード3世に処刑、ヘンリー7世により第3代が復位するが、ヘンリー8世の時代ウルジーに疎まれ処刑され、廃絶。

②ヴィリアーズ家(1623-1687)

ジェントリの息子だったジョージ・ヴィリアーズが、ジェイムズ1世の下で急速に昇進し、ついに公爵に叙爵されるも1628年に暗殺される。父が暗殺された年に生まれた、今回の主役である第2代には嫡子がおらず廃絶。

③シェフィールド家(1703-1735)

数々の戦功を立てたジョン・シェフィールドを、アン女王が叙爵。嫡子がおらず、廃絶。ロンドンのバッキンガム・ハウスは、庶子のチャールズ・ハーバード・シェフィールドが相続した後、ジョージ3世が購入。(当サイト、バッキンガム・パレスを参照ください)

④グレンビィル家(1822-1889)

政治、外交での実績によりリチャード・グレンヴィルがジョージ4世により叙爵されるが、第3代に嫡子がおらず廃絶。

いずれのバッキンガム公爵も、武功など国に対しての功績で名前を残していますが、今回取り上げるジョージ・ヴィリアーズ第2代バッキンガム公爵は、「愛人問題」で名を残した人物です。

バッキンガムは、生まれて7ヶ月の時に、父ジョージ・ヴィリアーズ、初代バッキンガム公が暗殺されたため、王室に引き取られ、後に生まれるチャールズ1世の子供たち、チャールズ(のちのチャールズ2世1630-1660-1685)、ジェイムズ(のちのジェイムズ2世(1633-戴冠1685-廃位1688-1701)を始め王家の子供達と一緒に宮廷で育ちました。

ここで、覚えておきたいのは、バッキンガムは生まれて8ヶ月目から既に公爵だったこと。そして、幼少期を一緒に過ごしたチャールズ2世より2歳年上であった、ということです。子供の頃の2歳の差というのは、知力、体力、体格ともに、なかなかの差があります。幼少期、バッキンガムはチャールズを相手にどのように遊んでいたことでしょうか。。。

バッキンガムは、あらゆる才能に恵まれていました。

皇太子チャールズと一緒に、トマス・ホッブス(1588-1679)から教育を受け、哲学的視点、国家運営の観念なども学びます。

器用で何事も習得が早い上に、物事を深く考える知性を持ち合わせ、美意識高く、芸術に詳しく、楽器を嗜み、感動的なポエムを詠み、劇作を創り、狩猟に長け、武術に強く、おしゃれで長身、がっしりとした体躯。王家の子供達と育ち、物心ついた時から、いつも特別扱いされていたからか、鷹揚で寛容、気前がよく、楽観的で、明るい。

しかし、熱しやすく、カッとなるとどこまでも、という一面があり、またそれを止める人が周りにいない、というのが弱点だったようです。

1649年、バッキンガムが21歳の時に、チャールズ1世が処刑されると、バッキンガムは突然に、不安定な立場に立たされます。議会側につけば、領地は全て保全すると言われながらも、バッキンガムは王家につくことを選び、膨大な領地は全て議会に没収されます。

幼馴染のチャールズ(のちのチャールズ2世)のフランスへの逃亡に付き添い、暮らしを維持するために、父親が残した絵画を売り糊口をしのぎます。1657年イギリスに戻ったバッキンガムは、チャリングクロスに粗末な舞台を作り、世相を皮肉に歌う弾き語りで日々の糧を得ながら、情報収集に励みます。

そして、バッキンガムの領地を議会から与えられたフェアファックス卿の一人娘メアリー(1638-1704)との結婚が、領地奪回の最良の道であることに気づき、猛烈にメアリーとその母にアプローチ。

文芸教育を受けて育ったメアリーは、バッキンガムからの抒情詩のような手紙にまず心を射抜かれ、そして会えば、ハンサム美麗、心を鷲掴みする格調高い言葉をささやくバッキンガムに、19歳のメアリーは、すっかりぼうっとなってしまいます。メアリーは、既にチェスターフィールド伯爵と婚約を交わしていましたが、婚約を破棄し、1657年9月15日バッキンガムとメアリーは結婚します。

メアリーは、フェアファックス卿(1612-1671)の唯一の相続人で、フェアファックス卿が亡くなる時、議会から与えられた元バッキンガムの領地は、合法的にメアリーとバッキンガムのものとなるのです。

領地を取り戻す目的があっての結婚とはいえ、結婚当初、バッキンガムとメアリーは仲が良く、メアリーはバッキンガムと結婚した幸せで、十分に満たされていました。

そして1660年、王政復古でチャールズ2世が復位すると、バッキンガムは時代の寵児となっていきます。王の寝室付き官僚、枢密院メンバーに任命され、チャールズ2世の戴冠式では、王笏を持つ役目を任されます。チャールズ2世、ヨーク公であるジェイムズ(のちのジェイムズ2世)の幼馴染であるバッキンガムの発言は、王の代弁のような力さえ持ち、32歳の若き公爵、バッキンガムの前に立ち塞がるものは何もありませんでした。

チャールズ2世は、キャサリン・オブ・ブラガンザと1662年に結婚。

しかし、チャールズ2世は、多くの愛人を持ち、その関係を公にし、宮廷に住まわせ、公爵位と領地を与えることにより、愛人たちは社会的にも十分に認められる存在で、愛人達を通して、国王に嘆願をする人々も珍しくありませんでした。

チャールズ2世により、「愛人を持つこと」は普通以上の、むしろ推奨されている一つの「フランス的文化の実践、芸術の一つ」のような様相にさえなっていたのです。

チャールズ2世の愛人たちは、本人と息子たちに公爵位と領地が与えられ、それらは子々孫々への継承が、法的に保全されていました。公爵位が与えられるということは、愛人とはいえ、社会的地位が確立されるということで、その子供たちの将来も約束され、今に続く公爵家も少なくありません。

チャールズ2世の代表的な愛人は、以下の4人。この4人以外にも、公認の愛人は9人いて、認知された庶子は総計14人という賑やかさです。

◯バーバラ・ヴィリアーズ(バッキンガムのいとこ)

ー本人にクリーヴランド公爵位が与えられる(現在は廃絶)

ー長男チャールズ・フィッツロイにサウサンプトン公爵位が与えられる(現在は廃絶)

ー次男ヘンリー・フィツロイにグラーフトン公爵位が与えられる(現在まで続く)

ー三男ジョージにノーサンバーランド公爵位が与えられる(現在は廃絶)

ーアイルランドの領地が与えられる

◯ネル・グウィン

ー長男にセント・アルバン公爵位が与えられる(現在まで続く)

ー次男ジェイムズにボークラーク卿位が与えられる

ーノッティンガムシャー、ベストウッドの領地を与えられる

◯ルイーズ・ルネ・ド・ケロワール

ー本人にポーツマス公爵位が与えられる(現在は廃絶)

ー息子チャールズ・レノックスにリッチモンド公爵位、レノックス公爵位が与えられる(現在まで続く)

ーイングランド北部タイン産出石炭からの終身受取金の権利とウェストサセックスなどに領地が与えられる

◯ルーシー・ウォルター

ー息子ジェイムズ・スコットにマンマス公爵位が与えられる。(ジェイムズ2世の王位簒奪を画策したため、36歳でジェイムズ2世に処刑される。ジェイムズの孫フランシスが2代マンマス公となり、その後子孫はバクルー公爵として現代まで続く)

ーボウヒルなどの領地を与えられる

余談ですが、チャールズ2世は、庶子が13人いても王妃との間には、子供がなく王位は弟のジェイムズ2世が継ぎ、チャールズ2世当人の血統は途絶えます。

しかし、上記愛人のうちバーバラ・ヴィリアーズとルイーズ・ケロワール、ルーシー・ウォルターの3人は、故ダイアナ妃(チャールズ皇太子の最初の妻)の祖先で、ウィリアム王子(チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の長男、王位継承順位第2位)には、母系から、少なくとも3人の愛人とチャールズ2世の血が流れていることから、将来、ウィリアム王子が王となる時、チャールズ2世の血統が王位に蘇ることになります。

チャールズ2世はその」で哲学者トマス・ホッブス(1588-1679、代表著書「リヴァイアサン)が家庭教師でした。ホッブスは「生物一般の生命活動の根元は「自己保存の本能」である」としていて、また「権威(王権)とは、いかなる行為でもなしうる権利」とも述べています。

自己保存の本能=自分のDNAの継承

いかなる行為=愛人を多数もつ

と解釈すると、チャールズ2世はホッブスの教えを、素直に実践した、とも言えるのではないでしょうか。

そして、同じくホッブスの教えを受け、王の家族同然に育ったバッキンガムは、もちろん王の「愛人文化」の影響を強く受けました。

1666年頃に出会った、シュールズベリー伯爵夫人アンナマリア(1642-結婚①1659-死別1688-結婚②1677-1702)は、バッキンガムにとって「運命の人」でした。アンナマリアは16歳の時、19歳年上の第11代シュールズベリー伯爵フランシス・タルボーと結婚。フランシスは、アンナマリアを好きなものの、女心をまるで考えない、アンナマリアを喜ばせるようなことなど一切できない、領地での義務をただひたすらこなす毎日を送る「任務遂行型」の男性でした。

一方、アンナマリアに夢中になったバッキンガムは、アンナマリアのために服を特注し、次々とプレゼント。アンナマリア好みの自分の服もパリへ発注し、会うたび、颯爽としたおしゃれな姿でアンナマリアを魅了します。

それだけではありません。パリから一流のバイオリン弾きを呼び寄せ、アンナマリアに自作の歌を聞かせるために常に同行させていました。

バッキンガムは、科学や工芸にも造詣が深く、繊細なガラスの芸術品を作る製作所を持っており、自らガラス製作にも携わっていました。バッキンガムの自慢は、当時最高品質の鏡。当時は、ベニスで作られる鏡が世界最高とされていましたが、バッキンガム製作所の姿見は、それを上回る品質で、バッキンガムの鏡を持っていることが、ステータスになるほどでした。

バッキンガムは、フランス風のデコラティブな金色枠の等身大の姿見を、アンナマリアにプレゼント。一点の曇りもない、透き通るような鏡面に映る自分に、アンナマリアは感動し、心を激しく動かされます。

この頃、バッキンガムは38歳、アンナマリアは24歳。

バッキンガムの宮廷での権勢は、ピークと言ってもよく、チャールズ2世は、初期の治世を任せていたクラレンドン伯エドワード・ハイドを失脚させた後、CABAL内閣と呼ばれるクリフォード(C)、アーリントン(A)、バッキンガム(B)、アシュリー(A)、ローダデール(L)の5人に政務を任せていました。

国家の権力者であり、華やかで知的センスにも富むバッキンガムが、自分のために創った歌を、甘い声で歌い上げてくれる。

「ここだけの話なんだけどね。。。」とチャールズ2世の私生活や、宮廷の裏話を、おもしろおかしく聞かせてくれる。そして繊細で美しいガラス工芸のプレゼント。

滑るように踊るダンス、立ち振る舞いはスマート。王に信頼され、狩猟では、いつも一番に獲物を捕えてくる。どんな場面でも、バッキンガムは、女性たちの目を引くのです。

そんなバッキンガムに、アンナマリアが夢中になっていくのに、そう時間はかかりませんでした。

バッキンガムは、、アンナマリアと出会った翌年1667年に、2人で過ごすハウスを建てるために、今クリブデンが建つタプローの広大な土地を、購入します。この時点では、義父フェアファックス卿は、まだ存命で、おそらく購入資金は全額借金だったと思われます。

バッキンガムの母親キャサリン(1603-1649)は第6代ラットランド伯爵の唯一の相続人で、結婚当時は最も資産が期待される女相続人(だからこそバッキンガムの父が結婚したと思われる)でしたが、バッキンガムが7歳の時にアイルランド貴族と再婚し、再婚時、初代バッキンガム公から既に莫大な資産を相続していたバッキンガムには母型からは資産を残していないようです。

クリブデンに「2人の時を紡ぐ」理想のハウスを、建てようと、意気込んだバッキンガム。

しかし、「愛人」の地位は、王と王以外の人々では、天と地ほども違う、という現実が、そこにはあったのです。

~後編に続く~

後編は、2022年2月11日にアップの予定です。お楽しみに!

クリブデンで泊まったお部屋。グレイベージュでコーディネートされたインテリア。

参考 : Natalie Livingstone, The Mistresses of Cliveden、森護「英国の貴族」、森護「英国王室史話」上下