ヒストリックハウス名:クリブデン

所在地域:イギリス、バークシャー

訪問:2015年8月15日

クリブデンのテラスから臨むガーデン、テラスの造りはヴェルサイユ宮殿を目指している

前編では、チャールズ2世の「愛人文化時代」をエンジョイする第2代バッキンガム侯爵ジョージ・ヴィリアーズ(1628-1687、以下バッキンガム)が、愛人、シュールズベリー伯爵夫人アンナマリア(1642-1702)と過ごすクリブデンを建てるため、タップローの広大な土地を、(おそらく)全額借金で購入したことを書きました。引き続いての後編です。

George Villiers, 2nd Duke of Buckingham(1628-1687)

ジョージ・ヴィリアーズ第2代バッキンガム公爵

アンナマリアにとって、バッキンガムは初めての愛人では、ありませんでした。アンナマリアがシュールズベリーと結婚した翌年に、チャールズ2世の王政復古。大きく世の中は変わり、チャールズ2世の愛人文化、享楽文化が貴族たちに、瞬く間に浸透します。16歳で結婚したアンナマリアは、結婚後3人の子供を産みますが、遊びたくて、外に出たくてウズウズしていました。子供を3人産むと、これで役目は果たした、という感じで、大いに羽根を伸ばし始めます。

ダンス好き、音楽好き、狩猟好き、おしゃべり好き、チヤホヤされるのが好き。まだ20歳そこそこのアンナマリア。男女共に「愛人文化」全盛の時代、シュールズベリー伯爵夫人で夫がいて、しかもバッキンガムとの愛人関係が公認になっていても、断ることは無粋なこと、としているアンナマリアに言い寄ってくる愛人遊びをしたい男性は、後を絶ちませんでした。

しかし、自分は他の女性に目を向けても、アンナマリアには自分だけを見てほしい、と自分勝手な、しかし普遍的な欲求を我慢できないバッキンガムは、ある日、アンナマリアの元恋人と劇場で乱闘騒ぎを起こしてしまいます。この乱闘騒ぎは、スキャンダル好きな人々を大いに興奮させ、アンナマリアはとても人前に出られないほどの、「最もホットな醜聞の人」になってしまいます。

まだ若く繊細な一面もあるアンナマリアは、イギリスにいる事に、耐えられなくなり、メイド1人を連れ、フランスのポントーズ修道院に隠遁します。(アンナマリアはカトリック教徒)

また、アンナマリアの夫、シュールズベリーは、夫として「面目」を保つために、バッキンガムに「決闘」を申し込まざる終えなくなります。チャールズ2世は、この決闘を止めようと手紙を書いたものの、なぜかその手紙はバッキンガムには届かなかったとされます。

1668年1月、決闘の場は、バッキンガムが購入した、クリブデン建設前のタップローの領地にあるバーンエルムズ(狩猟小屋)。「愛人文化」全盛のこの時期、恋人を廻る決闘は、いわばトレンドになっていて、バッキンガムもこれまで数度、他の女性を理由に決闘をしたようです。

しかし、決闘の結果、死亡する、重傷を負う人もいて、チャールズ2世は、常々この馬鹿げたトレンドを終わりにしたいと思っていました。が、まだその効力は発揮されず、ついに決闘当日になります。

決闘は本人たちと、それぞれの付き添い人によって行われます。

この決闘では、シュールズベリーの付き添い人が1人即死、シュールズベリー自身は致命傷ではないまでも重傷を負い、3ヶ月後45歳で亡くなります。結婚後9年しか経っていませんでした。主治医はシュールズベリーの死因は、決闘に直結するものではないと発表したようですが、全く関係ないとも言えなかったようです。

この「決闘」という制度(?)ですが、少なくとも12世紀ころにはあったようで、決着がつかない争い、裁判では判断がつきづらい案件の場合、騎士VS騎士(代理の場合もある)の一騎討ちで、神が裁定を下す、という考え方に基づいているようです。細かくルールも決められていて、まず決闘の申し出には、手袋を投げる、そしてそれを拾うのが、受けて立つ印であることはよく知られます。

こうして、ポントワーズ修道院にいたアンナマリアは、夫の末期も看取らず未亡人となり、バッキンガムの愛人としての自由な日々が始まります。

現代では、信じ難いことではありますが、バッキンガムは、アンナマリアをロンドンの自分の屋敷ヨークハウスに、妻メアリーと一緒に住まわせます。

1670年、バッキンガムはチャールズ2世の代理でルイ15世の弟オルレアン公(妻はチャールズ2世の妹)の葬儀に出席するため、パリへ赴きます。そして、バッキンガムは国王代理ということで、ヴェルサイユ宮殿で最高のおもてなしを受けます。300種類の楽器、200人によるコーラス、バレエに夕食会、大きなダイヤとパールがあしらわれた剣とベルトのセットをフランス王から贈られ、バッキンガムは豪華かつ洗練された演出、また演出の舞台であったヴェルサイユ宮殿に感動します。

ここで、クリブデンで、ヴェルサイユを再現したい、という熱い野望がバッキンガムに芽生えたのです。

そして、翌年、アンナマリアはバッキンガムの息子を出産。バッキンガムにとっては初めての子供で、ジョージ・ヴィリアーズと名付けられます。愛人の子供ですが、そこはチャールズ2世、そんなことは問題なく、というかバッキンガムから猛烈に頼まれ、断りきれず、代父母(ゴッドファーザー)を引き受けます。しかし、赤ちゃんは洗礼式の数日後に死亡。バッキンガムは、自分の付属爵位であるコベントリー伯爵の爵位を亡くなった息子に授け、代々の祖先の墓であるウェストミンスターアビーに子供を埋葬します。

ウェストミンスターアビーは王家の代々の墓でもあり(王家だけではなく、国家に貢献した人々も多く眠る、しかし王族全員がウェストミンスターアビーに眠るわけではない)、ヴィリアーズ家の正式な墓所。愛人との子供に、伯爵のタイトルを与え、その上、ウェストミンアスターアビーに埋葬したことは、少なからず世間の反感を招くことになります。

一方、アンナマリアは、キャサリン王妃、ヨーク公爵夫人(王弟ジェームズの妻)に次いで、正式にではないにせよ、世間的には三番目の地位にある女性と見做され、舞踏会や夕食会、各種イベントでは王族に次ぐ扱いを受け、華々しい社交界での日々を満喫します。

月日は経ち、アンナマリアとシュールズベリー伯との子供、第12代シュールズベリー伯チャールズ・タルボーは成長し、1674年に14歳に。そして自分と自分の母と父、バッキンガムに何が起こったかを知り、激しく怒り、行動を始めます。

チャールズは、弁護人を通し、バッキンガムとアンナマリアの不当な行為を、上院、下院の両方に訴えます。その際、バッキンガムの死んだ子供に伯爵位を与え、愛人の子供をウェストミンスターアベイに埋葬したことは、バッキンガムが王と同じ権力を持つことを暗示させる行為、つまり王位簒奪を狙った反逆罪に当たるとチャールズは訴え、上院はバッキンガムが恐るべき野望を抱いていると糾弾し、また下院ではバッキンガムとフランス国王が結託して王位簒奪を企んでいると糾弾され、バッキンガムは国家の敵と見做されてしまいます。アンナマリアもその手伝いをし、王妃の位を狙っていると公然と非難されるようになります。

そして、今の時代では、考えられないことですが、上院、下院、両方の決定として、今後一切、バッキンガムとアンナマリアが一緒に住むこと、会うこと、話すことさえ禁止する、という決定が下されます。

この頃には、バッキンガムの政敵ヘンリー・ベネット、初代アーリントン伯爵(1618-1685)などの勢力からの働きかけもあり、チャールズ2世は徐々に、バッキンガムの忠誠心に疑いを持つようになり、上院の貴族多数がバッキンガムが王位簒奪を狙っている、と言う今、チャールズ2世もバッキンガムからは距離を置きたい、むしろ離れたい、どこかへ行って静かにしていてくれ、と言う気持ちになっていました。

アンナマリアと出会って約10年、アンナマリアと過ごすクリブデンの建築に野望を抱いていたバッキンガムでしたが、政治と社交を優先し、また経済的なやりくりにも時間が必要で、クリブデンを着工したのは、皮肉にもアンナマリアと会うことが、もうできなくなってからでした。

タップローの土地を購入してから10年が経とうとする1676年、クリブデンの測量が始まり、ヴェルサイユを再現するというバッキンガムの野望を叶える大工事が始まります。高台にクリブデンを建てるため、土を積み上げ高台を造成。そうすることで、テムズ川とガーデンを見下ろす、ヴェルサイユ風のロマンチックな景観が可能になったのです。

テラス部分はバッキンガムの時代から残る

恋は終わっても、バッキンガムは恋人たちにふさわしい館として、クリブデンを建てたかったのです。クリブデンのテラスからは、イギリスでは珍しい高台からのガーデンビューが開けます。恋人たちが甘いひとときを過ごす空気が、今も、そこには流れているのです。

1670年代から1680年代にかけて、クリブデンの工事は続き、建物ができるとチャールズ2世の愛人たちも頻繁に遊びに来ました。バッキンガムとしては、愛人たちをもてなすことで、チャールズ2世との繋がりを、なんとか取り戻したかったのです。

その頃珍しかった桜の木が植えられ、ワインを作るための葡萄畑も造られ、バッキンガムの美意識が反映されたフランス風の美しいガーデンも完成します。

クリブデンの建設には、その時代のトップ石工の1人、エドワード・ピアース(クリストファー・レンの仕事仲間)、トップ大工のジョナサン&エドワード・ウィルコックス親子(クリストファー・レンと一緒にピカデリーの聖ジェイムズ教会を建てた)、石膏職人のエドワード・ジョージ、フランドルの壁画画家ジャン・シブレヒトらが、関わっています。この中でも、ジャン・シブレヒトは、強く鮮烈な色で各部屋に壁画を描き、バッキンガムの遊び心、ヴェルサイユの再現への情熱が投影されました。

もう、バッキンガムと会うことが出来なくなったアンナ・マリアは1677年、35歳でジョージ・ロドニー・ブリッジ大尉と再婚。この結婚はアンナマリアが1702年60歳で亡くなるまで25年間続き、アンナマリアは夫の忠実な妻であり続け、醜聞とは一切無縁になりました。また、自分とバッキンガムを糾弾した息子チャールズとは、和解し、たびたび会っていました。

バッキンガムは、1677年、政界への復帰を試みるも、反国家的な演説を行ったとされ、ロンドン塔へ収監されてしまいます。収監中、工事中のクリブデンを見にいきたいと、チャールズ2世に直訴し許され、2日間だけクリブデンを見に行っています。のちに釈放されますが、再び、政治の表舞台に戻ることは、ありませんでした。

1685年、チャールズ2世が亡くなり、ジェイムズ2世が即位するとバッキンガムはもはや宮廷での居場所がなくなり、クリブデンから離れ、ヨークシャーのヘルムジー・カースル(ラットランド伯爵家の城を母から相続後、議会に没収され、妻メアリーとの結婚で所有権を復活、現在は廃墟)へ隠居します。

ヨークシャーでは、趣味の狩に勤しむ日々でしたが、1687年領地での狩の最中に寒気に襲われ、そのまま近くの民家で休みましたが容態がどんどん悪化し、その民家で亡くなりました。59歳でした。王家で育ち、王と共に華やかな時代を風靡したバッキンガムは、身内にも友人にも看取られず、ひっそりとボロ屋で亡くなったのでした。

妻メアリーとは離婚していませんが、疎遠となり別生活を送っていたようです。

バッキンガムには、子供がおらず、妻メアリーとの結婚で手に入れた元のバッキンガム公爵家の領地は、結局、メアリー側、つまりフェアファックス家に継承されるという皮肉な結果になっています。バッキンガムもアンナマリアも、カトリック教徒なので、領地の問題がなかったとしても、離婚という選択肢は元々なかったのかもしれませんが、領地という足枷が離婚を決定的に不可能にしていたとも、思われます。

バッキンガムとアンナマリアの恋愛は、夫フランシス、息子チャールズ、妻メアリーにとって大迷惑なものでしたが、クリブデンという美しくロマンティックなカントリーハウスを産んだという功績は、認めても良いと思います。その後、バッキンガムの建てたクリブデンは火事で2度にわたり焼け落ちますが、のちに再建された今のクリブデンは、バッキンガムが建てたクリブデンを参考に建てられ、そのグランドデザインは、変わっていないようです。

チャールズ2世の「愛人文化」の時代は、チャールズ2世自身とその愛人たちには良かったのですが、影響を受け悲劇に終わったバッキンガムやアンナマリアのような人たちは、「時代の犠牲」となって、気の毒なことでした。

映画「恋の闇、愛の光」(1995年、原題:”Restoration”)は、チャールズ2世の王政復古時代をギュッと凝縮しています。キャストが豪華で、チャールズ2世をサム・ニール、主役のメリベルを若き日のロバート・ダウニー・Jr.、恋人役を、まだとっても若いメグ・ライアン、さらに脇役を、ヒュー・グラント、イアン・マッケランが好演。ヒュー・グラントの長髪巻き髪カツラ、白メイク、フランス風宮廷衣装は、なかなか楽しめます。豪華なセットや衣装もさることながら、ストーリー全体で、チャールズ2世の王政復古時代が、群像的に描かれていて、見応えのある映画。おすすめです。

余談ですが、バッキンガムは、母初代バッキンガム公爵夫人キャサリン・マナーズから引き継いだ称号「デ・ロス 男爵」位を持っていました。キャサリンは、第6代ラットランド伯爵の唯一の子供でした。「デ・ロス男爵」の称号は、ウィリアム征服王と一緒にイングランドを征服したラットランド伯爵マナーズ家の祖先の名前が、称号化したもので、大変名誉あるものとされていました。

バッキンガムに嫡子がいなかったため、この名誉ある歴史的な称号は途絶えます。しかし、名誉ある歴史的な称号ゆえに、ただ忘れ去られるということはなく、103年後の1790年に、ラットランド伯爵家の別系子孫が復活を求め、認められ現在に至るまで承継されています。ウォルター・スコットの小説「アイヴァンホー」の中でも、誰もが知っている名誉ある騎士の名として「ああ、勇士ロバート・ド・ロス!」として長老に語らせる場面があり、19世紀前半のスコットの時代でも、「ド・ロス」爵位が名誉あるものとされていたことが、わかります。

次回は、時代は進んで、クリブデンに住んだジョージ2世の長男で、プリンス・オブ・ウェールズ、フレデリック・ルイース(1707-1751)の妻オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ(1719-1772)の「王妃になれなかった」人生について書きます。お楽しみに!

ガーデンのテムズ川に沿う散歩道から見たクリブデン。同風景の絵が置かれている

参考 : Natalie Livingstone, The Mistresses of Cliveden、森護「英国の貴族」、森護「英国王室史話」上下