ヒストリックハウス名:クリブデン
所在地域:イギリス、バークシャー
訪問:2015年8月15日

前回、前々回とクリブデンを建てたジョージ・ヴィリアーズ第2代バッキンガム公爵
とチャールズ2世の愛人文化について、書きました。
今回は、バッキンガムの死後約50年後、クリブデンに住んだ王族、ジョージ2世(1683-1727-1760)時代の皇太子フレデリック、プリンス・オブ・ウェールズ(1707-1751)の妻オーガスタ・サクス・ゴータ(1719-1772)、プリンセス・オブ・ウェールズについて書きます。
プリンス・オブ・ウェールズとは、伝統的にイングランドで君主の長男(今は男女に関わらず第一子)に、君主から与えられる称号で、現君主が次の君主を任命するといったような意味があります。しかし、長男に生まれると自動的に与えられる訳ではなく、君主の判断で授与されます。例えば、ヘンリー8世は、あれほど待ち望んだ男子、エドワード(のちのエドワード6世)が生まれても、なぜかプリンス・オブ・ウェールズを叙位させませんでした。ですから、歴史にはプリンス・オブ・ウェールズを経た君主と、そうでない君主が混在します。
プリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは、これまで20人ですが、そのうち王位についたのは13人。王位に着かなかった7人は、病死が5人、殺害が2名となります。今時点のプリンス・オブ・ウェールズは、チャールズ皇太子です。しかし、プリンセス・オブ・ウェールズの称号も、プリンス・オブ・ウェールズの妻に自動的に与えられるものではなく、君主の判断で与えられるようです。現在、チャールズ皇太子の妻は、カミラ妃ですが、カミラ妃はプリンセス・オブ・ウェールズに叙されていません。国民感情を鑑みての判断のようで、現プリンセス・オブ・ウェールズの位は、故ダイアナ妃にいまだに属するようです。
将来、時代が変わり、チャールズ皇太子が君主となり、ウィリアム王子がプリンス・オブ・ウェールズとなった場合は、ケンブリッジ公爵夫人ケイトさんが、プリンセス・オブ・ウェールズとなるかもしれませんが、まだわかりません。
今回の主役、オーガスタは、結婚したその時から、プリンセス・オブ・ウェールズとなりましたが、王妃になることなく人生を終えました。夫、皇太子フレデリックが、王位に就く前に病死した、プリンス・オブ・ウェールズの1人だからです。
Augusta Saxe-Gotha, Princess of Wales (1719-1772)
オーガスタ・サクス・ゴータ、プリンセス・オブ・ウェールズ
オーガスタはドイツの小国サクス・ゴータで、国王の13人目の子供として生まれ、大国との良縁は、とても望めないという立場にありました。しかし、ジョージ2世が花嫁探しで、大陸を訪れた際に、オーガスタの美しい立ち振る舞い、落ち着いた慇懃でない礼儀正しさに好感を持ち、皇太子妃に適任と直感。縁談を持ちかけます。国王である兄と、母親は一も二にもなく、この良縁に大賛成。ジョージ2世の気が変わらないうちに、早く早く、という感じで17歳のオーガスタをイギリスへ送り出します。急ぐあまりにオーガスタは、全く英語を話せないまま、イギリスへ送り出され、サクス・ゴータ国王一家の慌てぶりがわかります。
しかし、オーガスタの夫となる皇太子、プリンス・オブ・ウェールズ、フレデリック(1707-1751)は、放蕩者として知られ、両親の国王夫妻とは犬猿の仲でした。フレデリックがドイツ、ハノーバー王家に生まれた時点では、ハノーバー王家はイギリス王家とは遠い親戚関係というだけでした。しかし、フレデリックが、7歳の時、イギリスのアン女王が亡くなると祖父ゲオルグが、ジョージ1世(1660-1714-1727)として即位することになり(ジョージ1世の母ゾフィアはジェイムズ1世の孫、アン女王には嫡子がいない)、それに伴い、皇太子夫妻となった両親は、イギリス国王となったジョージ1世と共に、イギリスへ引っ越します。
しかし、フレデリックは、まだ7歳であるのに関わらず、ハノーバー王家の象徴としてハノーバーに残され、両親と引き離されてしまったのです。
幼いフレデリックは、以来、父親がジョージ2世(1683-1727-1760)が国王となった翌年、21歳でイギリスへ渡るまで、一度も両親と会うことなく、少年、青年時代を過ごしたのです。
1人置いていかれたフレデリックの寂しさは、両親への怒りとなり、10代半ばからは、ギャンブル、女遊び、深酒、借金に明け暮れる日々となりました。そして、そんなフレデリックを、母キャロライン王妃は忌み嫌い、憎むまでになります。キャロライン王妃のフレデリックへの憎悪は、実の息子をそこまで嫌うとは・・と驚くほどで、常軌を逸しているというか、理解しがたいものがあります。
セント・ジェームズ宮殿、ハンプトン・コートへの出入りを禁じたのは、他の人々への悪影響を考えてのことかもしれませんが、キャロライン王妃は、フレデリック夫妻を疎んじたばかりでなく、自分の死に際に、フレデリックが会いに来ても、断固として断り、息子と会うことなく亡くなっています。
ジョージ2世とフレデリックも、相当に仲が悪かったのですが、ジョージ2世は、稀に、何度かフレデリックに声をかけていたようで、キャロライン王妃の憎悪ぶりとは、幾分違っていたようです。
両親とは大変に折り合いの悪かったフレデリックですが、ドイツからやってきたひと回り年下の17歳の花嫁オーガスタには、最初会った時から、好感を持ち、優しく迎えて、オーガスタをほっとさせます。
1736年4月26日結婚式前日、グリニッジ宮殿でオーガスタを迎えたフレデリックは、オーガスタの手をとってキスをし、優しく宮殿のディナーの席へ導きました。その夜、グリニッジ宮殿の窓は、開け放たれ、ディナーの様子を民衆は、庭から自由に見ることが出来ました。
ジョージ1世、ジョージ2世は、何事も格式ばり、軍隊調。民衆に華々しく、何かを披露するということは皆無でした。今も昔も、王室に華やかさ、楽しさを求めるイギリス民衆は、フレデリックのこの粋な計らいに大喜びで、歓声を送ります。すると、フレデリックとオーガスタは、グリニッジ宮殿のバルコニーに現れ、手を振ったばかりか、その後、おしゃれな王室のバージ(小舟)に乗り込みテムズ河をロンドンまで行き来して、オーガスタを華々しくお披露目をしたのです。
この予期せぬロイヤルカップルのお目見えに、民衆は大興奮。テムズ河の両岸、往来する多くの船から、途切れることのない歓声が響き続けました。オーガスタは、このような大規模な民衆の歓声は、見たことも聞いたこともなく、最初に感じた不安など、どこへやらで、嬉しさと感動で胸がいっぱいになり、フレデリックの隣で、涙ぐんでしまったのでした。
結婚後、オーガスタとフレデリックは、五男四女に恵まれ、子供達は、この時代には珍しく、幼少時に亡くなることなく成長します。
フレデリックは、結婚前の自堕落、放蕩息子の姿から、期待される次期国王へと、オーガスタの影響で、姿を変えていきます。誰に対しても、落ち着いた自然な礼儀正しさで接するオーガスタは、人々に畏敬の念を抱かせ、その姿を見て、フレデリックは人々と良い関係を築く大切さや、心地よさを今更ながら学んだのでした。
陸軍と一体化したジョージ2世の強権圧政に対し、議会を中心とした立憲民主政治の概念を掲げるボリンブログ男爵ヘンリー(1738年に「愛国王という概念」を出版)の影響を強く受けたフレデリックは、王権で民衆を抑圧する父、ジョージ2世に対し、自身を王権で民衆を保護する次期「愛国王」に准え、さまざまな行動を起こします。
クリブデンで、「愛国王」をイメーシした仮面劇「アルフレッド」を上演し、反国王派の人々を招待。花火大会や人気のバレエダンサーも加えて反国王派を結束させ、自身の民主的な姿勢に確信を持たせる華々しいイベントを頻繁に開きます。クリブデンのイギリスでは珍しい、広いテラスから広大な庭を上から見下ろす開放的な造りは、新時代を人々に感じさせる舞台としてぴったりでした。
これまでは、新聞やパンフレット(今でいう週刊誌)は、国王派から資金を受け、国王派に都合の良い記事が書かれていましたが、この頃、反国王派が後ろ盾となるメディアが急増。それらのメディアは、フレデリックとオーガスタが催すこうしたイベント、2人の慈善活動、ファミリーの姿などを、好意的、そして民衆の興味を惹くように、センセーショナルに書き立てます。王族が一般市民の職場や生活の場を、訪問することは今では、珍しくありませんが、この時代ではそんなことは前例がなく、フレデリックとオーガスタが村の人々や市場を訪問することは、一大ニュースでした。
メディアの数が増えるとともに、ロンドンの街角のパーラー(カフェ)で報道内容について、あれこれ論じる人々が増え、ロイヤルファミリーの毎日、ジョージ2世VSフレデリックの姿は、これまでよりずっと民衆の中で、活き活きと語られ、非難や歓喜の的となって、現代と似た様相になってきたのです。
フレデリックは、両親であるジョージ2世夫妻を、ドイツ軍隊的思考から抜け出ることの出来ない貧困思想の持ち主と見做し、ジョージ2世夫妻は、フレデリックを、国を危険に陥し入れる途方もない放蕩者と見做していました。
そして、すでに国王の周りで特権を得ている陸軍幹部や貴族院の一部の人々を除き、多くの人々はクリブデンに住む若きプリンス・オブ・ウェールズ、フレデリックに共感を抱き、イングランドの明るい将来に、大きな期待を寄せていたのです。
フレデリックとオーガスタが住むクリブデンは、今やイングランドの輝かしい将来の象徴となり、人々が憧れる”プリンス・オブ・ウェールズ”の宮殿になったのです。
ドイツ人の愛人と共に暮らしていたジョージ1世、ハノーバーのドイツ人の愛人の元へ頻繁に通うジョージ2世と違い、フレデリックは小さな子供たちに囲まれてクリブデンで、クロケー(ゲートボールのような庭で行う球技)やボウリングに興じ、美しく整えられた庭園で音楽会や演劇会を頻繁に開催し、人々を招待。その文化的、家庭的なフレデリックとオーガスタの日々は、周りの人に平和で明るい未来を期待させずにいられませんでした。
わずか結婚の1年半後、キャロライン王妃が、臨終においてもフレデリックに会うことを拒んだまま亡くなると、18歳のオーガスタは、イングランドで最も位の高いファースト・レディとなります。しかし、生来、謙虚で礼儀正しいオーガスタは、決して驕ることなく、贅沢に走りもせず、国王ジョージ2世の忠実な臣下としての態度を崩さずに、夫フレデレックを公私共に支える妻として、宮廷、貴族、民衆から、高い人気を得ていました。
その頃、ファッションといえばフランス、という感じで宮廷の女性たちは、勝負時にはフランス製のドレスを身に着けることが多かったのですが、オーガスタは常にイギリス製のドレスを身につけ、繊維産業の人々をしっかりと味方につけていました。
若く、自信に溢れ、立ち振る舞いが美しいオーガスタは、何を着ても人目を惹き、オーガスタの着るものはすぐに人気となりました。いわばファッション・リーダー的存在でもあったのです。
オーガスタは、この頃まだ新しい試みだった天然痘の予防注射も、迷った末に
自分の判断のもと、子供たちに受けさせ、科学的に物事を考える一面があったことも伺えます。
オーガスタは、造園にも熱心で、ロンドンの家であるカールトン・ハウス、キューパレス、そしてクリブデンのガーデンを自らの采配のもと、整えていきます。
カールトンハウスの9エーカーのガーデンのために、14,100個余りの新たな苗が植えられ、キューパレスでは、現在の王立植物園の前身となる植物園を開発、造園士ウィリアム・チェンバーズと共に、今も残るパゴダ(中国風のタワー)などを、キューガーデンに建て、ガーデンの進化に熱心だっとことが、わかります。18世紀前半は、イングランドではガーデンの改良がトレンドでしたが、オーガスタの影響も大きかったことでしょう。

1740年代になると、ジョージ2世は60代となり、フレデリックの即位が、もうすぐそこに迫ってきている、と誰もが思っていました。フレデリックも自分の即位の準備として、地方視察を頻繁に行なっていました。オーガスタは、王妃になる、その時に向けて心の準備を整える毎日でした。
ところが、1751年3月、キュー庭園で雨みぞれが降る中、庭職人たちと造園に、終日取り組んでいたフレデリックは、夕刻から高熱を出して寝込み、20日44歳の若さで亡くなります。結婚から15年、オーガスタは31歳で、第9子を妊娠中でした。皇太子となった長男ジョージ(後のジョージ3世1738-1760-1820)は、まだ13歳です。
オーガスタは茫然自失となりますが、フレデリックの死後、数時間後、侍従をロンドンのカールトンハウスに急ぎ使いにだし、フレデリックの政治関連の文書を全て持ってこさせると、自らの手で暖炉で燃やしてしまいます。これらの文書には、反ジョージ2世の内容のものが少なくなかったと思われ、これからも宮廷で幼い子供達とジョージ2世の庇護のもと暮らしていくオーガスタは冷静な判断のもと、夫の名誉を守ると共に、自分と子供たちの将来の保全のために、即座に焼却したのでした。
そして、フレデリックの盛大な葬儀の2週間後、オーガスタは、クリブデンのリースを解約。フレデリックがいなくなった今、次期国王、長男のジョージには宮廷の空気、政治の空気がわかるロンドンに居させることが重要であると共に、正当な後継者はジョージであることを人々に忘れさせないようにと、オーガスタが判断したのでした。
ジョージ2世は68歳。そして、フレデリックの弟、カンバーランド公ウィリアム(1721-1765)は、スコットランドでの戦績から国民の人気もあり、ジョージ2世にも頼りにされ、存在感、影響力共に大きい人物でした。
しかし、ジョージ2世のオーガスタへの信頼は、揺らぐことなく、次期国王はフレデリックの長男、ジョージであり、ジョージが18歳の成年に達する前に、ジョージ2世が亡くなった場合は、オーガスタを摂政にすることを議会で宣言します。しかし、カンバーランド公らが、摂政権限を大幅に狭める法案を後日成立させ、オーガスタの存在感は、フレデリックの死後、すぐに危うくなり始めます。
また、長男ジョージの帝王学の教育担当のビュート伯爵ジョン・ステュアートと愛人関係にあると、メディアで書きたてられ(おそらくこれは噂のみ)、輝かしい未来の象徴であったプリンセス・オブ・ウェールズ、オーガスタは、メディアによって無惨な醜聞の人へと、瞬く間に役目を変えられてしまいます。
フレデリックの死から9年後、1760年10月にジョージ2世が亡くなり、長男ジョージがジョージ3世として即位します。
ジョージ3世は即位翌年、17歳のシャーロット・オブ・メッケンブルク・シュトゥレリッツ(1744-1818)と結婚。シャーロットは、結婚したその時から「王妃」。オーガスタが冠るはずだった王妃の冠は、17歳のシャーロットの頭上に置かれます。
22歳の若き国王と17歳の王妃に、民衆は歓喜の声を送り、国王の母となったオーガスタは世間から忘れ去られつつありました。
ジョージ3世は、久しぶりのイギリス生まれの国王(ジョージ1世、2世、フレデリックはドイツ生まれ)で、ジョージ1世、2世と違い、英語を話します。フレデリックの「愛国王」の精神をビュート伯爵から教えられて共感し、放蕩に走ることもなく、真面目に国政に取り組むジョージと献身的で家庭的なシャーロット王妃は、国民の信頼を得て、敬愛される国王夫妻となります。
そして、ジョージ3世即位の12年後、1772年、オーガスタは喉頭癌で、ひっそりと亡くなります。息子ジョージが即位してからは、ジョージ2世に対するのと同じように息子に対し、落ち着いた礼儀正しい態度を通し、死に際もそれは変わりませんでした。
オーガスタは、結婚当初、王妃にならない自分を、予想だにしなかったことでしょう。歴史は、君主を軸に語られることが多いので、フレデリック、オーガスタのように即位が当然だったけれども、王、王妃になれなかった人物は、歴史の中に埋もれてしまい、思い出される機会が少ないのです。
自分ではどうすることもできない事で、人生は、大きく変わってしまう。
そしてそれを、なんとか少しでも納得するために「運命」と呼ぶ事にしたのかもしれません。
参考 : Natalie Livingstone, The Mistresses of Cliveden、森護「英国の貴族」、森護「英国王室史話」上下