イギリスでは、他に見かけないフランスシャトー、屋根の造りや小塔の付け方が特徴的

ヒストリックハウス名:バッズデン
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
訪問:2017年7月5日

フランスシャトーでも、ギリシャ建築のコリント式(円柱)が多用されている

メイヤー・アームシェル(1777-1812)は、フランクフルトのユダヤ人街ゲットーで金融業を始め、息子5人のうち長男だけをフランクフルトに残し、残りの4人をウィーン、ロンドン、ナポリ、パリとその頃、金融業が盛んだった都市に送りこみます。

そして、メイヤーと息子5人は連携し、ロスチャイルドの名のもと、金融業をヨーロッパ全土へ発展させました。ロスチャイルドという名は、メイヤーの店に、赤いひさし(ドイツ語でロート・シルト、ロスチャイルドは英語名)があったことから、利用する人々があだ名のようにつけた名前が、メイヤーの子供たちのラストネームになっていったのです。

本サイトの別記事で「アスコット」について書きましたが、アスコットは5人の兄弟の3男、ロンドンに来たナサニエル(1777-1836)の孫レオポルドが建てたハウスです。今回のバッズデンは、メイヤーの次男、ウィーンに行ったソロモン(1772-1855)の孫フェルデナンド(1839-1898)が建てたフランス風のシャトーで、アスコットの近くにあります。アスコット、バッズデンの他にも、トリングなどロスチャイルド一族のハウスはイギリスに幾つもあり、それぞれが全く違う様式で建てられています。

Baron Ferdinand de Rothschild (1839-1898)
フェルデナンド・ロスチャイルド男爵

フェルディナンドの父は、前述のようにメイヤーの次男ソロモンの息子のアンセルムですが、母はメイヤーの三男ナサニエルの娘のシャーロットで、つまりフェルディナンドは、母方の曽祖父も父方の曽祖父もメイヤー・アンセルムなのです。このように、ロスチャイルド一族は、5人の息子から広がった従兄弟同士の結婚が数多く、その結果、「美に対する見識眼」遺伝子が集約され、また資産も一族の中で保全され続けているともいえます。

フェルディナンドは、父とは折り合いが悪く、美意識の高い母から絵画についての教育を幼少期から、日々の生活の中で受けて育ちます。フェルディナンドの家には、父が、入手したオランダ絵画が多くあり、美術教育は本物を見ながら行われたのです。

しかし、母シャーロットは、フェルディナンドが19歳の時に死亡。フェルディナンドは、この時からロンドンに移住します。

フェルディナンドは、26歳で従姉妹のエヴィリンと1865年に結婚し、結婚パーティでは同じユダヤ人であるディズレーリがご満悦といった感じで、スピーチをします。エヴィリンは、メイヤーの三男ナサニエルの孫ですから、やはりロスチャイルド一族内の結婚でした。

しかし、結婚して数年のうちに妊娠中のエヴィリンは、鉄道事故で死亡。フェルディナンドは、深い悲しみに沈みます。1869年、フェルディナンドは、エヴィリンの名をつけた子供病院を創設し、エヴィリンへの哀悼を後世に残します。

そして1874年、父親が死亡し、資産を相続すると、エヴィリンと建設を相談していたカントリーハウスを バッズデンに建設することを決意し、3,200エーカーの土地をモールバラ公爵から購入します。

フェルディナンドは、この頃、イギリスで主流であったウェストミンスター宮殿(チャールズ・バリーが建築家、1852年完成)を代表とする復古古典主義を、建築の亜流のように感じていて、自分がハウスを建てるときには、フランス人建築家による純フランス様式で、と前々から決めていました。頼んだ建築家は、フランス人デスティラー(M.Destailleur)。デスティラーの父と祖父は、今も残るモンシュー城(Chateau de Mouchy)を造った建築家で、フェルディナンドは、モンシューのようなエレガントなフランス様式をイギリスで実現したかったのです。因みにデスティラーは11人兄弟で、兄弟のうち何人もが建築家になっていて同名の建築家が同世代に数人いるようです。

フェルディナンドにとって、イギリスのあちこちに建つテューダー様式、ジャコビアン様式、アダム様式のハウスは、洗練されていない造作物にすぎず、ヨーロッパの建築様式を、あれこれ無秩序に取り入れた、思いつき建築に見えていたのです。

紛れない純フランス様式の実現には、フランス人建築家が必要だったのです。

しかし、ハウスを建てる前の土地の造成に4年かかり、フェルディナンドは、土地の造成中には自分の土地でありながら、近づくことも難しく、誠にもどかしかった、と書き残しています。沼地を埋め、川の流れを変え、高台を作り、地盤を固め、植林し、と理想の景観を得るためにには、想像を遥かに超える大工事が必要だったのでした。

そして、1880年、やっとハウスの一部、バチェラーズ・ウィングがなんとか入居できる状態になり、フェルディナンドは住み始めます。

イギリスでは他に例を見ないフランスシャトー、バッズデンは、ロンドンから鉄道ですぐに来れるロケーションであることもあり、完成直後からグラッドストーン、チェンバレン、バルフォア、カーゾン、若き日のチャーチルと、時代の政治家、そして皇太子エドワードが頻繁に訪れる社交のハウスとなります。

バッズデンは内装も、フランス様式で統一されています。その豪華絢爛さは、目が眩むようです。フランス宮廷で絶頂を極めた18世紀内装文化が、ひっそりとイギリスで保管され、息づいているのです。

そして、ロスチャイルド一族は、美術品の収集にかけては一流の美術館並みで、それはフェルディナンドも例外ではありません。フェルディナンドが熱を入れたミニチュアボックスのコレクション、そして、元はフランスの名だたるシャトーやホテルにあった繊細な装飾が彫られた壁のパネリング、フランスの貴族の館にあった、芸術品とも言える家具の数々、これらはフランス革命後、フェルディナンドの購入によって、現代までフランス様式の部屋の中で、保存されているのです。

ロスチャイルド一族は、美術品は今、楽しむだけでなく、後世に残すべきものとして、保管状態に細心の注意を払っています。バッズデンも例外ではなく、家具、美術品の紫外線によるダメージを防ぐため、部屋のカーテンは全て引かれ、室内は薄暗く、最低限の灯りしかつけられていません。私が訪問したときも、シンと静かで薄暗い部屋を、息を殺して見つめる、という感じの見学でした。

1890年5月14日には、51歳のフェルデナンドが71歳のヴィクトリア女王を初めて迎えています。ヴィクトリア女王は42歳の時に最愛の夫アルバートを亡くしてから、ずっと喪に服し、それが30年に及ぼうという時でした。アルバートが亡くなってから、一切の公務に姿を見せず、喪服を着てスコットランドのバルモラル城(本サイトバルモラル参照)に閉じこもっていたのです。仕方なく、首相や官僚たちは、バルモラルを訪れ、女王と主にメモのやりとりで政務を行っていました。そんな生活ですから、臣下の家を訪問するなどあり得ない、という日々がずっと続いていたのです。

どういった経緯で、バッズデンにヴィクトリア女王が来ることになったのか、明らかではありませんが、おそらくヴィクトリア女王のお気に入りだったディズレーリ(1804年-1881年、本サイト・ヒューヘンデン参照)が生前、女王にバッズデンの素晴らしさを、伝えていたことから、ヴィクトリア女王が興味を持つに至ったのではないかと思われます。フェルディナンドと同じユダヤ人であるディズレーリはバッズデンの常客で、フェルディナンドの親しい仲間でした。

フェルディナンドは、妻を亡くしてから生涯、独身でした。パーティが頻繁に開かれ、多数のゲストがやってきて、少なくない使用人がいたとはいえ、この壮麗なハウスに家族なしで住んでいたというのは、ちょっと驚きです。

ただ、優雅に美術品のコレクションを楽しんで、パーティを開いて社交に勤しむばかりでなく、フェルディナンドは、地域住民のために、まだ珍しかった水道を整備したり、地域の福祉、教育に、生涯を通して貢献したことで知られます。また、この頃の主な通信手段であった電信、電報を扱う公務員の待遇改善に長年、熱心に取り組み大幅な待遇改善を実現させています。

フェルデナンドは、「全身、慈善の人」と死後、新聞で書かれたように、親から受け継いだ資産を、地域住民、政治のために有効に活かしたのです。

ヴィクトリア女王の長男、皇太子エドワード(のちのエドワード7世1841-1910)にとって、フェルデナンドが1人で住むバッズデンは、思い立った時に気軽に来れるセカンドハウスのような存在でした。

母ヴィクトリア女王の長い在位期間、エドワードは、たとえ女王がバルモラルにいても、ロンドンにいると、常に誰かに監視されているような圧迫感を感じ、母からも妻(アレグザンドラ・オブ・デンマーク)からも、愛人(アリス・ケッペル)からも逃れて、気ままに時間を過ごしたい!と衝動的に思うことがありました。そんな時、エドワードは、ふらりとバッズデンに数人の侍従だけを連れてやってくるのでした。

1898年7月、エドワードは、いつものようにバッズデンに来て、芸術品に囲まれた部屋で、気ままにくつろいでいたのですが、早朝、1人で螺旋階段(バッズデンのシャトー的特徴である小塔の中は、螺旋階段になっている)を降りていた時に、バランスを崩してうっかり足を踏み外し落下し、足を骨折。周りに誰もいなく、うめきながら這って階段を降りているエドワードを、偶然に見つけたフェルデナンドの執事は驚愕。大慌てで、フェルデナンドを探すも、広い館の中、フェルデナンドがなかなか見つからず、焦りに焦り、フットマンに医師を迎えに行かせます。

応急手当てをされたエドワードは、予定を早めてロンドンに帰ることにし、最寄りのアルズベリーの駅へ。ロンドン行きの列車に乗るには、線路を越える歩道橋を渡らねばならず(今もこの構造は、イギリスの駅に多々ある)、エドワードは担ぎ椅子に乗せられて、歩道橋の上り階段を登っていたところ、肥満体のエドワード(57歳)の重みに、担ぎ椅子の棒が耐え切れず、いきなりバキッと折れて、エドワードは、またしても階段から転げ落ちるという、悲惨な事態となったのです。

今、想像しても気の毒すぎて、ため息が出ます。。付き添っていたフェルデナンドの心痛はどのようなものだったでしょうか。。皇太子が自分の家の階段で骨折、自分が用意した担ぎ椅子で、皇太子がまたもや階段から転げ落ちる。。。

その心痛からくるストレスが原因だったのでしょうか、同年12月17日フェルディナンドは、自室で入浴中に、心臓発作で突然に亡くなります。59歳の自身の誕生日でした。

バッズデンは、フェルディナンドの妹アリスが引き継ぎ、独身のアリスからは、メイヤー・アームシェルの五男、パリに行ったジェイムズの孫のジェイムズ・アルマンド(1878-1957)に引き継がれました。

次回は、ロスチャイルド家らしいワインセラーなど、バッズデンの写真を、お楽しみいただきます。お楽しみに!

参考 :「The Rothschilds at Waddesdon Manor」 Mrs James de Rothschild