ヒストリックハウス名:ウェストワイコム
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
訪問:2017年7月2日


Francis Dashwood (1708-1781),2nd Baron of Dashwood of West Wycombe
フランシス・ダッシュウッド、第11代ル・ディスペンサー男爵及び第2代ウェストワイコムのダッシュウッド男爵
ダッシュウッドと聞くと、ジェーン・オーステン(1775-1817)原作の映画”Sense and Sensibility”(日本題名「いつか晴れた日に」)の登場人物ジョン・ダッシュウッドを思いだす方もいるでしょう。ダッシュウッドという名前は、この映画で広く知られるようになったように思います。
オーステンの小説に登場するダッシュウッド氏はもしかしたら、今回ご紹介する実在の人物フランシス・ダッシュウッド(以下フランシス)に由来しているかもしれません(筆者想像)。なぜなら、オーステンが”Sense and Sensibility”を執筆した頃 (1811年出版)は、フランシスの死後30年という時期で、まだまだその「自由人伝説」が生々しく語られている時代だったからです。
フランシスの祖先は、1488年ドーセットは、ミュンスタービルの弓兵、ジョン・ダッシュウッデまで遡れます。17世紀初頭のジョンの子孫、フランシスはウール交易で成功したことをきっかけに、チャールズ2世に抜擢され、王の随行員となりました。フランシスは商才に長け、ウールに留まらず東インド会社を介したシルク貿易で爆発的な成功を収めます。ウールとシルクで大成功したフランシスの2人の息子、サミュエルとフランシスは、東インド会社のシルク取引の三分の一を牛耳るまでになり、一族は富と栄華を手に入れます。サミュエルは、チャールズ2世によって男爵に叙爵され、1688年のオレンジ公ウィリアムのイギリス上陸という政変もうまく乗り切り、のちにロンドン市長(1702年)にまでなります。
サミュエルとフランシスは、富の証であるカントリーハウスを建てるため、1698年にバッキンガムシャー・ウェストワイコムの広大な土地を購入しました。フランシスは、ビジネスだけでなく4度の結婚(資産家の未亡人など)でも資産を増やし、1724年に死亡。サミュエルはフランシスより先立って亡くなったようで、フランシスの15歳の息子、今回の主役フランシスがウェストワイコム男爵位と数あるハウス、そしてウェストワイコムの土地を承継します。一般にフランシスは、第11代ル・ディスペンサー男爵と呼ばれていますが、この爵位は母方の伯父第7代ウェストモーランド伯爵の付属爵位である由緒あるル・ディスペンサー男爵位を1763年55歳の時に継承し、この継承をきっかけに貴族院議員となっています。しかしフランシスは人生の大部分をダッシュウッド男爵として過ごしています。
フランシスは、アン女王の時代(在位1702-1714)に生まれ、ジョージ1世時代に青年期を、20代、30代、40代がジョージ2世時代、その後死亡までジョージ3世時代と、4人の君主の時代を生きました。
ジョージ2世時代は、フランシスより1歳上の皇太子フレデリック・ルイース(1707-1751、本サイト、クリブデン・オーガスタ編参照)の取り巻きたちに近かったと思われますが、フランシスは「何かに傾倒して、自ら集まりを結成する」人物で、皇太子の周りで、たむろしているタイプでは、ありませんでした。
フランシスは、1734年25歳で、「ディレッタンティ・ソサエティ」を設立。この頃、貴族や富裕層の子弟は、教育の仕上げとしてイタリアなどへ数年間、教養を高めるためにグランド・ツアーと呼ばれる旅行に出掛ける慣習があり、ソサエティはイタリアの文化見聞経験を共有し、懇談することを目的に設立されました。このソサエティは形を変えながらも、現代もまだ続いており、1987年にはチャールズ皇太子を迎えてのディナーパーティが開かれたそうです。
1744年35歳の時には、オスマン帝国への訪問経験がある人達の「ディバイン・クラブ」を設立。オスマン帝国風の衣装を身につけて、嬉々として集まっていたようです。
そして、リンカーンシャー周辺のジェントルマンで集まる「リンカーン・クラブ」続いて、1753年44歳の時には、悪名高い「ヘル・ファイヤー」クラブを結成します。発起人フランシスは廃墟になったカトリック教会を借り、重々しいゴシック様式に修復改装し、カソリックの儀式をパロディ化して、面白しろ、おかしく社交するというもので、貴族や富裕層のジェントルマンがメンバーに名を連ねていました。
自由闊達な立憲民主政治を標榜していた、皇太子フレデリックが亡くなってから、軍隊式の抑圧政治を重んじる老人ジョージ2世のもと、重苦しい空気が国を支配していたことが想像できます。
そのような重苦しい空気の中、中年、若手の貴族たちが「ヘル・ファイヤー」に集まり、イギリスでは微妙な存在とされるカトリック教義をもじり、乱れた集まりを催していた、とされます。政治的な社交の場であったとも、男女の密会の場であったともされ、いずれにしろ、幾分、反社会的な集まりが行われていたようで、近隣の住民から苦情が出るなど、問題が多々あったようです。
このように、フランシスは、「ソサエティ」や「クラブ」を結成する傍ら、父親、叔父から相続したウェスト・ワイコムに現在も残るハウスを建て、ガーデンを造成します。ウェスト・ワイコムの特徴は遠くからも目を引く鮮やかな黄色の外壁と、外の柱廊です。18世紀に主流であったパラディアン様式ながら、他には無い、黄色の外壁という強い個性を打ち出したところに、フランシスの独自性を感じます。
フランシスより2歳上で、同じ時代を生きたアメリカ人、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は、フランシスの親しい友達で、イギリスに来るたびにウェスト・ワイコムに滞在したり、立ち寄ったりしています。発明心、好奇心旺盛なベンジャミンとフランシスは、どんな会話をしていたのでしょうか。ベンジャミンは、ウェストワイコムのガーデンは、「まるでパラダイス!」と述べていて心から滞在を楽しんでいた様子が、目に浮かびます。
1760年ジョージ3世(ジョージ2世の孫)が即位すると、フランシスは、友人のビュート伯爵から財務大臣を頼まれます。フランシスは、慌てて、といった感じで、悪名高いヘル・ファイヤークラブを解散、借りていた教会も閉鎖し、関係者には箝口令を言い渡します。財務大臣は、わずか10ヶ月の在任期間で終わりましたが、初の政府直轄機関となった郵政省のトップを務めるなど、その後も地味に政務をこなします。
1781年にウェスト・ワイコムで73歳で死亡。チャールズ2世に次いで、多数の愛人を持ったフランシスですが、嫡子はおらず母親違いの兄弟ジョン・ダッシュウッド・キングが、ウェストワイコムを承継しました。
ウェスト・ワイコムはロンドンからも近く、交通の便が良いからか、映画、ドラマのロケ地にも昔からよく使われています。近年では、ネットフリックスドラマ”The Crown”、他にも映画”The Duchess”(ある公爵夫人の生涯)”X -men First Class”(ファースト・ジェネレーション)など多数が撮影されています。ロケされた作品では、黄色の壁、柱廊が背景に映るので、すぐに「これはウェストワイコムだ!」と分かります。


現在も、ダッシュウッドファミリーが住まれているということで、見学できるのは
1階のほんの一部だけですが、お庭は全体が公開されています。
ガーデンにある小ぶりの湖から眺めると、なだらかな丘の上に建つハウスの姿は、エレガントで美しく、いろいろ言われるフランシスですが、美意識は高い人物だったのだろうと思います。


参考 :「The Dashwoods of West Wycombe」Sir Francis Dashwood