ヒストリックハウス名:ブレナムパレス
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
訪問:2015年8月3日、2018年2月17日

「英国歴史の館」を書き始めてから3年余りが経ち、書いた記事(写真中心を含めて)は、100を超えました。記事の対象とするハウスを選ぶのは、楽しい作業ではありますが、これまで何度か書こうと思いながらも、なんとなく先送りしてきたのが、「ブレナムパレス」です。ブレナムは、王室所有ではないのに「パレス」(宮殿)が例外的につくハウスですが、それが違和感なくピッタリくる、人を威圧する大規模豪奢な造りで、そこに関わる歴史的人物たちの重みも加わり、なんとなく、これはもう少し、後で・・・という気持ちだったのでした。
しかし、100回を超え、そろそろ書くべき、と、自分の中から声が聞こえ、2回のシリーズで書くことにしました。今回は、ハウスを文字通り「創った」サラ・ジェニングス、そして、次回は、近代、ブレナムで苦しい思いをしたコンスエロ・ヴァンダービルト・バルサンについて書きます。
Sarah Jennings(1660-1744), 1st Duchess of Marlborough
サラ・ジェニングス、初代マールバラ公爵夫人
ブレナムパレスは、2015年と2018年、2回訪れましたが、その2回では、館内が大きく違っていました。2015年では、部屋を順路に従って自由に見る、というもので夏だったのにも関わらず、館内はどちらかというと閑散としていました。この時は、現在、マールバラ公爵ご家族が住んでいるウィングも、オプション有料ツアーで見学でき、ご家族が現在、使っている素敵なダイニングルームやTVの置いていあるリビングルームも見学しました。
ところが、2018年に訪れた時は、メイン棟がまるでテーマパークのように開発されていました。今回の主役、サラ・ジェニングスが、劇作家で<にわか>建築家のジョン・ヴァンブラとやり合いながら、ブレナムを建てる様子が、蝋人形仕立てで紹介され、部屋にいる語り部の話が、終わるとグループで、次の部屋へ移動して、次の語り部の話を聞いて、時代ごとにブレナムの歴史の話を聞く、というアトラクションへの参加になっていて、もはやハウスの中の見学という感じでは、ありませんでした。そして、2月のハーフターム(学期半ばにある学校が休みの期間)中で、他のハウスがどこもクローズしているからか、大型観光バスが群れをなす混雑ぶり。あまりの観光地化ぶりに、びっくりした次第です。
ブレナムパレスは、ロンドンから十分日帰りできる距離で、しかも世界的に有名な
チャーチル元首相(1874-1965)が生まれた場所、建物は他には見ない大きな規模なので、
観光地として賑わっても、不思議はないですし、ハウスが存続していくには、ディズニーランド並みに賑わう必要があるとも思うのですが、2015年に訪れた時の、少し寂れた雰囲気を、懐かしく感じた次第です。
そこで、サラに話が戻りますが、サラはアン女王(1665-1702-1714)が、女王になる前、プリンセスの時代から世話係でした。生まれつき強気な性格で、女王より5歳上のサラは、優柔不断で弱気なプリンセス・アンを世話するというよりも、叱咤激励して、指導するといったような立場に自然となり、それはアンが女王になっても変わることは、ありませんでした。
サラはジョン・チャーチル(のちに初代マールバラ公爵、1650-1722)と結婚します。
ジョンは、アンに2年越しでプロポーズ。ジョンもアンも大した相続を見込めないジェントリーの家庭の出身で、結婚した頃は、2人とも実績も権力もなかったのですが、ジョンは直感的に、結婚するならアンしかいない、と決めていた様です。そしてその直感は、少なくとも、カントリーハウスの歴史に大きな足跡を残すことになります。
ジョンは、「人に好感をもたれ、相手に敵意を抱かせない」資質を容姿、性格の両方に持っていました。それは、平たく言うと、飛び抜けたハンサムではないが、表情が柔らか。愛想は良い、深く物を考えて行動できないが、大きな失敗もしない、と言うことでしょうか。ジョンはそのどこにでもありそうで、実は珍しい資質を存分に活かし、この頃、戦争が絶えず起きていたヨーロッパ大陸を、こまめに動き回り、フランス、プロシア、ハノーバー、オランダ、ナポリ、そしてイングランドの君主たちの間の調整役を、務めていました。
戦っては、会談。進軍しては退却。退却しては進軍。そしてまた戦っては、また会談、といった感じで、ウィリアム3世、続いてアン女王という、どちらかというと自分では何もしない君主の代わりに、こまめに動き回り、イングランド本国の政治家たちにも喜ばれていました。
一方、アン女王とサラの関係は、プリンセス時代の原体験から主従関係が逆になっているようなところがあり、アンはサラに、もっと気に入られたい、もっと褒めて欲しい、と無意識に思ってしまうところがありました。
サラには、弱気の相手を、思いのままに導くような、半ば宗教的カリスマ性
があり、この時代には、珍しく、自分の意見を、非常に攻撃的な口論で貫き通していく女性でした。
夫ジョンが、戦功をたて会談で結果を出すと、妻サラはその結果をアン女王に「ジョンのおかげでイングランドは、持っているようなものです」といった感じで伝え、アン女王は、サラに気に入られたくて次々と褒賞を出す。という流れができ上がっていました。
その褒賞とは・・・マールバラ公爵位、ブランドフォード侯爵位(付属位で公爵存命中、公爵の息子に与えられる)、名誉の最高峰とされるガーター騎士の叙爵、そして年5,000ポンドの破格の年金(想像するに、今の5億円くらいでしょうか。。)は、もちろんのこと、さらに周りを驚愕させたのは、6万平方キロメートルという広大なウッドストックの領地と、そこに建てるハウスの建設費用としての年金まで上積みして与えたのです。
6万平方キロメートルというと、成田空港の6倍ほどの広さだそうで、想像するのも難しい感じです。
そして、ジョンは、大陸での戦争や会談で忙しいので、ウッドストックのブレナム宮殿の建設は、サラが率先し、鼻息荒く主導します。
しかし、その頃の人気建築家ジョン・ヴァンブラとサラはまるで、意見が合わず建築途中に、ヴァンブラはブレナム宮殿に立ち入り禁止となります。
サラは、激しい口論で有名だった人で、ヴァンブラ以外にも、セントアルバン公爵とは、ウィンザーパークの管理権を巡って、ロバート・ウォルポール卿とは慈善事業について、大口論が繰り広げられ、どちらもサラの勝利に終わったとのことです。
ジョンとサラ、初代モールバラ公爵夫妻は、アン女王のおかげでブレナム宮殿を手に入れたわけですが、サラが強気でアン女王に迫ったから、とも言えるので、ブレナムがあるのは、サラのおかげとも言えるでしょう。
大規模なブレナムパレスですが、中の造りは、ちょっと物足りない感じというか、天井ばかり高くて、ただ広く、サラは「大きいことはいいことだ」という考えだったのかな、という印象です。美しさ、というよりも、野心の具現化、ここにあり、そんなブレナムパレスが、テーマパーク化しているのも、なんとなく可笑しく、イギリスのユーモラスな一面を感じるのです。




次回は、ヴィクトリア時代からエドワード7世時代の華麗な時代を、ブレナムで過ごしながらも辛い思いもしたコンスエロ・ヴァンダービルト・バルサンについて書きます。お楽しみに!
別途お知らせしますが、これまで、月2回のアップを続けてきましたが、5月からは月1回、毎月第4金曜のアップになります。
参考 :Oxford dictionary of National Biography, 森護「英国王室史話」上下