ヒストリックハウス名:ブレナムパレス
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
訪問:2015年8月3日、2018年2月17日

前回は、自らの政治力で、アン女王を操ることによりブレナムパレスを建てたサラ・ジェニングス、初代マールバラ公爵夫人について書きました。今回は、サラより200年ほど後の時代に、18歳でブレナムパレスの女主人となった「アメリカン・ブライド」コンスエロについて書きます。アメリカン・ブライドとは、19世紀後半、新聞などメディアがよく使った言葉で、資金不足で改修できない古い館を持つ、イギリス貴族に、莫大な持参金を持って嫁ぐ、アメリカの新興資産家のお嬢様たちを指しました。
その背景には、多くの場合、娘にとっては迷惑な、社会的地位の上昇を狙う親の、上昇志向があったのです。
Consuelo Vanderbilt (1877-1964), 9th Duchess of Marlborough
コンスエロ・ヴァンダービルト、第9代マールバラ公爵夫人
ヴァンダービルト家の始祖は、オランダから、ニューヨークのスタッテンアイランドに移住し、海運王、鉄道王と呼ばれるほどに大成功を収めた初代コーネリアス・ヴァンダービルト(1794-1877)。コーネリアスの長男ウィリアムの次男ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルトがコンスエロの父で、母アルヴァとの間の第一子がコンスエロです。つまり、コンスエロは、始祖コーネリアスの曾孫にあたります。
父ウィリアムは次男でしたが、兄を早くに亡くしたために、実質的なヴァンダービルト家の当主となり、世界で指折りの資産家となりました。コンスエロは、スラリとしたエレガントな美人で、莫大な結婚持参金への期待もあり、アメリカ社交界では早くから注目の的でした。
しかし、コンスエロには、結婚相手を選ぶ自由は、ありませんでした。
娘に自らの自己実現を課す、強権的な母親アルヴァにとって、コンスエロの結婚は”自分の”重大事だったのです。社交ネットワークを駆使し、見つけたのが、ブレナムパレスの第9代マールバラ公爵(1871-1934)チャールズ・スペンサー・チャーチル、(以下マールバラ)。マールバラは、21歳で公爵位を継いでおり、アルヴァがマールバラを知った時には、すでにブレナムパレスの当主でした。
アラバマ州で生まれ育った母アルヴァにとって、イギリスの公爵はまさに「憧れ」の存在であり、なんとしてでも、親戚関係になりたい相手でした。
アルヴァがブレナムパレスを訪れた時の、感動といったら!
アメリカには決して存在しない、重厚な歴史を感じさせる、ブレナムのエントランス。そこに立ち、放心状態になっている自分に、ハッと気づいたアルヴァは、なんとしても、ここへ娘を嫁がせたい、と全身が震えるほど、強く思ったのでした。
母アルヴァがお膳立てする舞踏会、ディナーパーティ、ハンティング、ヨットの遠乗りなどの社交の場で、マールバラは、6歳下のコンスエロの存在を知ります。当初、結婚相手として見てはいなかったものの、周りの勧めで徐々に意識し始めるようになり、プロポーズを考え始めます。マールバラに限らず、爵位とカントリーハウスを持つ立場にとっては、結婚は個人的なことではなく、一族の存続に関わる社会的なことであり、相手が自分にとって、あらゆる意味でバランスの良い存在であることを、十分に確認する必要がありました。
マールバラは、「コンスエロを好きになった」、というよりも、「結婚する上で問題がない」存在であることを認め、プロポーズします。
そして、18歳のコンスエロには、他に結婚したい相手がいたものの、抵抗の末、母の重圧に屈し、マールバラのプロポーズを、涙ながらに受け入ます。
2人は、1895年11月ニューヨークで結婚します。
この時の映像を、テレビで見たことがありますが、アルヴァは、さめざめと泣きながら、教会に入り、その悲しそうな姿に、周りはどう反応して良いかわからない、といった様子でした。。
母、アルヴァのコンスエロに対する強権支配は、相当だったようです。幼い頃は、コンスエロが姿勢良く立てるよう、鉄棒を背中に入れる、言いつけに反いた時は、鞭打ち。10代になって、コンスエロが自分で、服を選ぼうとすると、「あなたにはセンスが無いのよ。あなたは考える力が無いの。私が決めたものを着るだけよ。」と命令する。そして、コンスエロが自分の意見を言うと、「私が考え、あなたは言われた通りにするだけよ」と上から押さえつける。コンスエロは、何度か家出を考えたようですが、召使い達に見張られ、実行できなかったようです。
そして、そんな強権的な母と、コンスエロが慕う温和な父親の結婚は、長くは続かず、コンスエロが10代半ばの時、両親は離婚しています。
コンスエロとの結婚前、24歳のマールバラは、広大なブレナム・パレスに使用人は多数いるものの1人で住んでいました。というのも、マールバラの両親も、離婚しており、マールバラの母親レディ・ブレンドフォードは別の家に住んでいたのです。
18歳のコンスエロが、巨館ブレナム・パレスに1人で住むマールバラに嫁いだのは、イギリス貴族が栄華を謳歌した最後の時代、ヴィクトリア時代終末から、短いエドワード時代でした。コンスエロは、この時代を、ブレナムハウスの公爵夫人として、ロイヤルファミリーのすぐ側で、華々しくも、気疲れ続きで、送ることになります。
11月にNYで結婚し、イギリスへ渡り始まった1895年ロンドンシーズンは、社交一色。
デボンシャーハウス、ランズダウンハウス、モンタギューハウス、アスプレーハウス、ホランドハウス、そして皇太子夫妻が住むマールバラハウスなどで、華やかな舞踏会やディナーパーティが毎晩開かれ、時には、掛け持ちをすることも。
コンスエロは、いつも素気なく、自分の顔を見ようともせず、ほとんど会話もないマールバラに物足りなさと冷淡さを感じながらも、社交界の刺激と興奮に、どっぷりと浸り、日々が過ぎていきます。
そして、社交界の名だたる美女たち、レディ・ヘレン・ヴィンセント、レディ・ウェストモーランド、レディ・ド・グレイ、サザーランド公爵夫人らはアメリカから来た若いコンスエロに、親切に接してくれ、彼女たちの輝くばかりの美しさと優しさに、浮き立つような嬉しさを感じる日々でした。
一方、ブレナム・パレスで客人を迎えるのは、大変な仕事でした。多数の来客のための部屋割り、お迎えの準備、1日3回の食事のメニューと席次を決め、狩猟や散歩、演奏会などのエンターテイメントの手配。そして全ての招待状、手紙は手書きで自らコンスエロが書くことが当たり前。客人が到着すれば、お出迎え、3回の食事とエンターテイメントへの同席・・・これらの「仕事」にはコンスエロもゲンナリだったようです。
その上、コンスエロに求められたのは、まずはマールバラの継承者の男子を産むことでした。結婚2年後、1897年に長男、続いて1898年に次男を産んだコンスエロは、2人目を産んだ時、「義務は果たした」と言っています。イギリスの法律では、貴族の爵位とハウスの継承権は基本的には男子にしか与えられないため、Heir and Spare (継承男子とスペア)を産むことが、貴族の当主の妻に、当然のこととして、求められていました。
継承者を生み、イギリス社交界にも少し慣れてきた、結婚7年目、ヴィクトリア女王が逝去し、エドワード7世の時代がやってきます。マールバラは、皇太子時代のエドワードに若手公爵としてよく仕えていて、戴冠式では「王冠」を運ぶ大役を拝命。また同年に、最高の名誉である「ガーター騎士」にも叙爵されます。マールバラが王室から高く評価されていたことがわかります。

同年1902年には、コンスエロとマールバラはロシアへ王の随行員として付き添います。そこで、帝制ロシア最後の豪華極まる「ロシア正教のクリスマス」を、コンスエロは経験します。また翌年1903年にはインド総督カーゾン卿(本サイト、ケドルストンホール参照)に招かれ、インドで開催されたエドワード7世の戴冠を祝う「ダーバー」にも行っています。
これらの旅は、王族に次ぐ、最高待遇で迎えられての旅です。
サンクトペテルブルグにある冬宮殿で開かれた、3,000名を迎えての舞踏会。
コンスエロは、白いサテンのドレスに、ダイヤモンドで煌めくティアラ、ダイヤモンドで飾ったヘッドバンドから長く白いチュールを床まで垂らし、まるで滝のように見えるパールでできたネックレスを首元につけ、眩いばかりに美しい姿で、舞踏会へ向かいます。宮殿につくと、広いエントランスから、ボールルームへ続く階段の壁には、金の皿が豪華に飾られ、真紅の制服を着たフットマンがずらりと並び、高い天井からは、輝く巨大なシャンデリアが無数に下がり、その階段を白いドレスを着たコンスエロは、マールバラと登っていくのでした。
このように結婚して最初の10年間、若き公爵夫人としての特権的・華やかな毎日と、2人の可愛い息子の成長は、コンスエロの時間と心を、十分に満たし、マールバラとの”合わない”結婚生活から、目を背けていられたのでした。
結婚後10年の1905年に、マールバラは肖像画家として高名な、ジョン・シンガー・サージェントに家族4人の肖像画を描かせています。この肖像画は、後に、マールバラ家の肖像画として最もよく知られるようになります。マールバラは、コンスエロより背が低いので、それをカモフラージュするために、一段下がった位置に立つ構図にすることを自ら決めています。この時代、家族の肖像画で、座る構図というのは、なかったようですね。
しかし、結婚して15年が経つ頃には、コンスエロとマールバラとの間には、埋めようのない大きな溝ができ、その溝は修復不可能なレベルに達してしまいました。
マールバラには、愛人ができ、コンスエロには、苦悩の日々。マールバラの冷淡さは結婚当初からでしたが、愛人がいる今、冷淡さだけでなく、自分への侮辱にも耐えながらマールバラと夫婦でいることに、コンスエロは何の意味も見出せなくなったのです。当初から、コンスエロにとっては、イギリスの公爵夫人でいること、ブレナムに住むことは、自分の望んだことではなく、むしろ解放されたいとさえ、今となっては思うのでした。
結婚25年後、1920年、2人は離婚します。愛人の影響で、カトリックに改宗したマールバラは、愛人と結婚するためには、コンスエロとの結婚を「なかったこと」にしなければならず、これまでの結婚の無効化まで迫るのです。結婚の無効化には、コンスエロが母親の強い意向で、嫌々結婚した、とヴァンダービルト家の使用人が証言したことが証拠として有効になり、コンスエロの本意ではなかったものの、結婚は無効化されます。
離婚後、コンスエロは、フランス人の飛行家(現在のパイロットとは意味が違い、冒険家のような存在)ジャック・バルサンと結婚しますが、ジャックもカトリックだったため、結婚の無効化は、ジャックの家族にとっては、納得がいくものであったようです。ほんの100年ほど前ですが、2人を取り巻く世界では、まだ宗教的な結婚が、法律上の結婚、離婚よりも遥かに大きな意味を持っていたのでした。
コンスエロは、バルサンのことを、「バルサンのことを好きにならずにいられる人は、世の中にいない」と最高の賛辞を送るほど深く愛し、2人はバルサンが88歳で亡くなるまで、仲睦まじい夫婦でした。
ブレナムの女主人であるマールバラ公爵夫人コンスエロの離婚と再婚。ブレナムと公爵位から離れる離婚を、当時の社交界の人々は、どう見たのでしょうか。
しかし、バルサンは88歳、コンスエロは87歳まで生き、2人共長寿だったことを考えると、離婚する時は、本当に色々と、大変だったでしょうが、十分に報われて良かったですね、と大きな拍手を送りたくなります。




参考 : Consuelo Vanderbilt Balsan, The Glitter and the Gold