
ヒストリックハウス名:ストウ
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
訪問:2017年7月3日
ストウは、辿り着くのが、大変な目的地でした。
イギリスでは、グーグルマップに目的地の郵便番号を、入れると、大抵の場所に、苦労なく辿り着けるのですが、ストウは例外でした。ストウの敷地が、あまりに広大で出入り口も複数あり、ストウ側が、その出入り口をグーグルに登録していないのか、近くで案内が終わってしまい、走り続けても、全く標識やサインが出現しません。
不安いっぱいで、しばらく運転し続けると、「ストウスクール」の小さなサインが出たので、思い切って入ると、途中で「逆戻りはできません」と大きなサイン。私に許されているは、今や、前に進むことだけ。
そのまま突き進むと、大きな凱旋門(The Corinthan Arch)があり、抜けると、ジャーンという感じで、想像を絶する巨大な校舎(ストウハウス、横幅140m)の前に出ました。車が停めてあるので、よくわからないまま、私もそこに停め、歩き出すと、駐車場の横には、広いクリケット場とクラブハウスがあり、おじさん、おじいさん達(おそらく、というか間違いなくストウスクールのOB、ストウは現在、学校になっている。)が、談笑しながら、クリケットの用意をしていました。
その横を、通り抜け、立派な正面玄関から、中に入り、学校のスタッフらしき方に、声をかけると、「あら、違う入り口から入ったのね!」と明るく応対してくださり、ハウスの中の見学コースへ、案内してくれました。ほっ。その後は、無事にハウスと広大なガーデンを見学することができました。
ストウは、ハウスの巨大さ(横幅140mでイギリスで一番横長とされる、部屋数400余) と、庭の広大さ(幅6キロに及び、面積は約160ヘクタール、東京ディズニーランドは約47ヘクタール、およそ東京ディズニーランド3.4個分くらい)そして「英国式庭園」発祥の地で、あることでよく知られています。
「英国式庭園」というと、自然な感じに草花が(しかし実際は、色々と工夫して)植えてある花壇が続く風景を、思い浮かべる方が多いかもしれませんが、ヨーロッパで「英国式庭園」とされるのは、湖や池、丘がある広大な土地に、幾つのもの散歩道を巡らせ、所々にギリシャ式神殿やロトンド、ローマ的凱旋門やモニュメント、ゴシック教会のミニチュア、時にはエジプト式ピラミッドなどが、細心の注意を払って、配置されている庭園で、「ランドスケープ・ガーデン」とも呼ばれます。
庭園のスタイルでは、噴水を中心に木々や花壇を、配置するイタリアンガーデン、幾何学的な花壇を配置するフランス式庭園、またレンガの壁で囲ったウォールドガーデンが、それまでヨーロッパでは主流でした。そして、ここストウでは、18世紀当時、それまで存在しなかった新しい「英国式庭園」が誕生したのです。
ストウのガーデンは、まずコバム子爵によって造られ、続いて(いずれも親族内承継だが、直系子孫ではないため、名前が変わる)テンプル伯爵、バッキンガム侯爵、バッキンガム=シャンドス公爵の3人が、約200年に渡り、開発し続けました。
このサイトでは、前編で黄金期のコバム子爵(以下コバム)、そして後編では、転げるように大借金地獄へ、落ちていく3人について書きます。
Viscount Cobham Richard Temple (1675-1749) コバム子爵、リチャード・テンプル
ウォーリックシャーで羊農家を営んでいたコバムの祖先、ピーター・テンプルは、1571年ストウを牧草地として、リースし始めました。ストウの地は、ウィリアム征服王から、弟のオドに与えられ、オドが司教であったことからその後、オックスフォードのオスニー修道院の領地となっていました。ヘンリー8世による教会破壊の後、オックスフォードのイギリス国教会所有となっていたところを、ピーターがリースを始め、のちに息子ジョンが土地を買い取り、さらに周りの土地を次々と買いました。
ジョンの息子トーマスは、1603年に37歳でストウの地主を継ぐと、ジェイムズ1世から、まず騎士の地位を、1611年には準男爵の地位を、財力で手に入れ、、1620年にはウォリックシャーの知事(sheriff ) の地位まで手にします。
野心家ジョンが、一気にテンプル家を、財力でジェントリークラス(準男爵は、貴族ではなくジェントリー)に押し上げたものの、長男で第2代準男爵のピーターは、清教徒革命での立ち回りに失敗し、26,000ポンドもの大負債を残して死亡、第3代準男爵リチャードが19歳でストウを承継するも、3年間は債権者によって領地が運営されていました。
リチャードの賢明な領地経営で借金は解消し、妻メアリーが残した遺産で、1676年にストウのハウスを新築します。(建築家ウィリアム・クレア)1680年、ハウス完成が近づくと、ハウスの南にパーラー・ガーデンを造園。このガーデンは、当時のカントリーハウスによくある、区画を区切って、花や果物を栽培するオーソドックスなウォールドガーデンでした。
1697年にリチャードの後を第4代テンプル準男爵として、21歳で継いだのが、今回の主役のコバムです。コバムは、イギリス陸軍元帥、ホイッグ党政治家、として名を成し、ストウの「英国式庭園」を開発した人物です。父、リチャードの時代に祖父の負債は解消され、コバムの時代に、財政は、急速に改善します。
イートン、ケンブリッジ大学の後、コバムは、マールバラ公爵(本サイト、ブレナムパレス「アン女王を操った、サラ・ジェニングス、初代マールバラ公爵夫人」参照)の部下として、ヨーロッパ戦線で、快勝を重ね、フランダースの戦勝5人武将の一人でもあります。
その戦功で、1714年には男爵に、18年には、子爵に叙爵されました。先祖は、ジェイムズ1世から財力で男爵を手に入れたのですが、コバムは武勲による名誉の叙爵で、ご先祖様たち、とても喜んだことでしょう。
そして、コバムは、軍の最高位、「陸軍元帥」(Field Marshal)にまで上り詰めます。
その武勲により、議会、王室から大きな信用を得て、ウィンザー城の城主(constable) を任され、この地位の収入は、相当な金額だったようです。
そして1715年に結婚した、妻アン・ハルシーが受け取る女相続人(heiress)の収入は、実質的にコバムの収入に。
また1719年にスペインのVigo港を占領している間の莫大な港湾関連の権利収入。
…と、収入激増となり、これらの収入をもとに、ハウスの改修、そしてガーデンの開発が始まります。1713年には6人だったガーデンスタッフは、1719年には30人に増えていることからも、庭の開発ぶりがわかります。
ハウス、ガーデンの設計は、コバムの友人の、劇作家で建築家のジョン・ヴァンブラを1719年に起用。ブレナムパレスの建築から、追放された傷心のヴァンブラ(本サイト、ブレナムパレス「アン女王を操った、サラ・ジェニングス、初代マールバラ公爵夫人」参照)は、新境地ストウで、羽振りが良く、鷹揚な施主コバムのもと、きっと晴れ晴れとした気持ちで、ストウの仕事を始めたことでしょう。
ヴァンブラ参画で、ガーデンには、「ロトンド」、「レイク・パヴィリオン」など、まるで舞台の大道具のような、建造物が、次々と建てられていきます。
詩人アレクサンダー・ポープは、「バーリントン卿への手紙」1719年(731)の中で、ストウの新庭園について、その素晴らしさを謳っています。
ポープは、ストウに頻繁にやってくゲストの一人でした。ポープは、のちに、「この庭は、言葉で表現できるものを超えている」とも表現しています。(This garden is beyond description.)
詩人たちが、カントリーハウスやガーデンを讃える「カントリーハウス・ポエム」という文芸がありますが、ストウは詩人たちにとって、格好の題材であったことでしょう。また、ストウによって、カントリーハウスポエムが発展したかもしれません。
他にも「ガリヴァー旅行記」で知られるジョナサン・スウィフト、「乞食オペラ」(三文オペラ)で知られるジョン・ゲイ、詩人ジェイムズ・ハモンド、ポール・ホワイトヘッドらが、ストウをよく訪れました。
詩人たちは、ストウや、コバム子爵を讃える詩を綴り、その詩によりストウのガーデンは、広く世に知られていきます。
造園ヘッドに起用された6年後、1725年にヴァンブラが亡くなると、1726年にはジェイムズ・ギブス (1682-1754)が起用されます。ギブスが担当した1749年までの23年間に、さらに60エーカーが拡張され、11エーカーの湖、二つのパビリオンが加わります。
さらに、ランドスケープガーデンを得意とする造園家ウィリアム・ケント、後には、当時ケントの弟子だったケイパビリティ・ブラウン も加わり、庭園開発に拍車がかかります。
ローマ風モニュメント「イギリスの重要な人々」(British Worthies)、ギリシャ風神殿「古代の善の神殿」(Temple of Ancient Virtue)、「現代の善の神殿」(Temple of Modern Virtue)グロット(岩を積み上げて自然の洞窟風にした建物、「平和と勝利の神殿」(Temple of Concord and Victory)などが、続々と建てられます。

これまでに無かった、整えられた森林や丘に、散歩道が緩やかに通り、巧みにローマ風やギリシャ風の建物が散りばめられている新形式の庭園。
訪れた人々は、ストウの庭を歩いて感動し、絶賛。そして、詩人達は、美しい韻律でストウを謳い、世に広める。
こうしたストウへの賞賛は、コブハムへの畏敬につながっていくのでした。
コブハムは、自身の庭に対する考えを表明しています。それは、「芸術」を整え、「自然」を解放する。今の表現で言えば、「人間による芸術と、自然の力の融合」といったところでしょうか。
その意向を汲んでか、詩人サミュエル・ボイスは、1742年に「自然の勝利」(The Triumphs of Nature)というストウを謳った詩をコバムに贈っています。
一方、政治においては、コバムは、首相ウォルポールを政敵とし、当時の皇太子フレデリック(当サイト、Clivedenクリブデン・オーガスタ編:歓喜と絶望、王妃になれなかったプリンセス・オブ・ウェールズ参照)を支持。ジョージ2世&首相ウォルポール(1676-1745) VS 皇太子フレデリック、という敵対構造の中で、コバムは、はっきりとフレデリック支持を表明し、1733年頃には、ストウは反体制派の拠点になっていました。
庭には、反体制のメッセージを匂わせるといったレベルを超えた、直接的に表現する建造物を多数、建てます。
庭の開発を始めた頃は、まだジョージ1世の時代で、この頃のコバムは、ハノーバー王家への忠誠を、ジョージ1世、皇太子時代のジョージ2世と皇太子妃キャロラインの立像を建立して、表現しています。皇太子妃キャロライン像は、ギリシャの美の女神を向かい合うよう建てられ、女神と同等であることを示唆して表敬する、念の入れようです。
一方、後に加える既存体制の否定の表現は…
アルフレッド大王やブラック・プリンス・エドワード(エドワード3世時代の皇太子、リチャード2世の父、名将として名高い)など、誰もが知る、既存体制打破的、歴史的ヒーローの立像。
18世紀には反体制的な意味合いがあった、ゴシック様式ミニ教会。

「イギリスの重要な人々」胸像群には…
イギリス文化の象徴であるシェイクスピアを並べて、(ドイツ色が強い)ジョージ2世よりも(イギリス色が強い)皇太子フレデリックの正当性をアピール。
クロムウェルを支持したミルトンを並べることで、反体制をアピール。
名誉革命で、ジェイムズ2世を退けて、即位したウィリアム3世を並べることで、反体制が正統になる、をアピール。
と、庭園を、「メディア」化しています。
1737年に皇太子フレデリックは、ストウを訪れていますが、
これらの胸像を前に、コバムと大いに、話が盛り上がったことでしょう。
コバムに、息子はいませんが、義理の兄リチャード・グランヴィル死亡後、未成年の4人の甥と一人の姪をストウに引き取って養育しています。他に9人の甥がいて、合計13人の甥たちは、政界でコバムを支える一大勢力へと成長します。
この甥たちに、後を任せられる、という気持ちからか、コバムは、さらに
「友人たちの神殿」(Temple of Friendship)、「王家の小部屋」(Imperial Closet)、「グラディエーター像」(The statue of the Fighting Gladiator)、「パラディアン橋」(Palladian Bridge)、「自由の神殿」(Temple of Liberty)、などを、続々と庭に建てます。



建てすぎじゃ… ない?(house of discord ) と姪のアン・グランヴィルは1746年に書き残したように、庭は、建物過剰に陥りつつあったようです。
しかし、そんなストウのメディア力も手伝ってか、1742年にウォルポールは失脚。
コバムは甥とその縁者達と政治活動をし、その一団は、コバム・クラブと呼ばれ、後に、ジョージ・グレンヴィル(1712-1770、首相1763-1765)、ウィリアム・ピット(1708-1778、首相1766-1768)の二人の首相が、このクラブから生まれます。
コバムは、1749年に74歳で逝去。21歳でストウを継いでから53年間、
82ヘクタール(コバム後の代が160ヘクタールへ拡張)を風景庭園化し、30以上の神殿(Temple)を建て、8つの湖や池を造り、数多の散歩道を作り、4マイルのハーハ(風景庭園を作る手法の一つで、家畜がハウス側に近寄ることができないよう、土地に段差をつける)を作り、50以上の碑を建て、40以上の胸像を立て、50個ほどの立像を建てました。
コバムの死後、高さ31メートルのコバム・モニュメントが、妻によって建てられます。モニュメントの上には、高さ3.14mのコバムの立像が建てられ、今も庭全体を見下ろしています。

そして、陸軍元帥が産んだストウを発祥の地とする、「英国式庭園」は、18世紀から19世紀にかけて、イギリスで一大ブームとなったばかりか、ロシアを含めたヨーロッパ各国にも、そのブームは拡がっていったのでした。
コバムは、「スペクテイター」紙を創刊した、著作家ジョセフ・アディソン(1672-1719)が、タトラー誌「The Tatler」(No.123,21 January 1710)に発表した寓話的エッセーから着想して、庭を開発したと述べています。
長く伸びる、まっすぐな道は
「善の神殿」に行き着く
川を渡ると、「名誉の神殿」がある
その近くには、現代の「善の神殿」がある…
後に、ヨーロッパ全体に影響を与えるストウの庭が、一つのエッセイから着想を得た、という事実。文学の持つ影響力は、量り知れないと、思わずに、いられません。
次回は、コバム死後、ストウを継承した甥、テンプル伯爵リチャード・グランヴィルから続く3世代の「借金地獄」などについて、書きます。次回は、ハウス内の写真もアップします。お楽しみに!
参考 :Micheal Bevington, Stowe, The People and the Place, National Trust,Swindon2011