ヒストリックハウス名:ストウ
所在地域:イギリス、バッキンガムシャー
訪問:2017年7月3日

18世紀、「英国式庭園」の発祥の地とされるストウ。
前回は、ストウのガーデンを開発したコバム子爵について、書きました。
今回は、コバム子爵に続き、ストウの主となった、テンプル伯爵、初代バッキンガム侯爵、初代バッキンガム=シャンドス公爵について、書きます。(いずれも親族内承継だが、テンプル、バッキンガム侯爵は直系子孫ではないため、名前が変わり、バッキンガム=シャンドスは直系だが新たに叙爵があったため爵位が変わる)
主役は、自らのお買い物で、大借金地獄へ転がり落ちていった、初代バッキンガム=シャンドス公爵です。
The 1st Duke of Buckingham and Chandos , Richard Temple(1776-1813-1839) 初代バッキンガム=シャンドス公爵、リチャード・テンプル
21歳でストウを承継してから、1749年に74歳で亡くなるまで、53年間、ストウの主であったコバム子爵を継いだのは、甥のテンプル伯爵リチャード・グランヴィル(1711-1749-1779、以下テンプル)でした。
テンプルは、功名心が強かったようで、名誉の最高峰とされるガーター騎士の叙爵を、強く望み、義理の弟、ウィリアム・ピットからジョージ3世に根回しをします。しかしジョージ3世は、功名心が高いテンプルを嫌い、叙爵したくなかったものの、側近のビュート伯爵から、「陸軍元帥であったコバム子爵を、軽視していると世間に見られます」、などと諌められ、仕方なく、叙爵します。しかし、相当に嫌だったようで、叙爵の時に、ガーター騎士のリボンを、テンプルに、投げつけたと、言われています。
そして、弟のジョージ・グランヴィルが首相(1763-1765)になると、弟の指示など受けられない、といって財務大臣を辞退。その後、義理の弟のウィリアム・ピットが首相になると(1766-1768)、この時も、ピットから指示を受けるのが嫌で、政治から退きます。
政治から離れたテンプルは、ストウに情熱を注ぎ始めます。
テンプルが特に力を入れたのは、ストウハウスの南側のファサードの改築。時の人気建築家であったロバート・アダムに提案させるも、「古典形式が甘い、細部が違う、なっとらん!」などと非難し、提案を却下。
結局、建築家トーマス・ピットがアダムの案をシンプル化し、現在に残る横幅140mの横長で壮大なファサードが建築されます。功名心が高いテンプルを満足させただけあって、南ファサードは、威圧感に満ち満ちています。
その巨大さ、と言ったら…南ファサードのポーティコに立つと、自分があまりに
小さく感じられ、まるでガリバー旅行記の「巨人の国」に来てしまった気分でした。







テンプルは、庭に対しては、その当時のトレンドの”より自然な感じにする”ことに熱心で、先代コバムが建造した、神殿や彫刻など、ギリシャ、ローマ的装飾物を、次から次へと取り壊し、樹木を中心とした、より”自然な”景観を目指します。しかし、ハウス建築で財政面は、逼迫しており、庭を”自然化”するための、新たな要素は、加えていません。
30年に渡り、ストウハウスの巨大化、庭の自然化に、取り組んだテンプルは、68歳で、死亡。その後を26歳で継ぐのが、甥の初代バッキンガム侯爵ジョージ(1753-1779-1813)です。
ジョージは、自然化を進めるために、庭の建造物の取り壊しをさらに進め、より視界が開けるよう、広いアベニューを作り、景観を整えました。
テンプル、ジョージ共に、コバムが建造した庭の神殿や彫像を、随分と破壊したので、今に残るのは、ほんの少数です。
ジョージは、アイルランドの女相続人メアリー・ニュージェントと結婚したことで、年14,000ポンドの年金収入を得ます。また、アイルランド総督を2度(1782-1783, 1787-1789)務めたことで、ジョージ3世より侯爵 (Marquess)に叙爵されますが、本人は公爵(Duke)を強く望んでいたため、大変に不満で、その不満の表明のために、外務大臣を辞職します。しかし、公職辞職で、収入が減り、段々と財政は逼迫するのに、近隣の土地を28エーカー、エンクロージャーして、ガーデンを拡張します。ガーデンを少しでも広くしたかったのです。しかし、これ以上、ハウスや庭に大きな改修を加えることは、ありませんでした。
ジョージの時代、1786年に、アメリカ建国の父、トマス・ジェファーソンは、ストウを訪れ、ストウを「プレジャーグラウンド」(楽しみのための庭)と呼んでいます。
ジェファーソンの他にも、フランス王ルイ18世、皇太子ジョージ(のちのジョージ4世)、クラランス公(のちのウィリアム4世)など、錚々たるメンバーがストウに
滞在しています。
ジョージは、気前の良い領主で、近隣の貧しい人々に、食事を振る舞う催しを、頻繁に開いていました。1810年に息子のジョージの成年(21歳)を祝うパーティでは、周辺の村から1,000人以上の貧しい人々を招き、ビールやご馳走を振る舞い、花火を上げる祝宴を、設けています。
王族を迎えるためには、部屋の内装や調度品を整える、随行員のもてなし、などで相当な支出があり、さらに気前の良いパーティでの振る舞いも重なり、ジョージの時代から、財政は徐々に傾き始めていました。




そして1813年に60歳で死亡したジョージを継いだのが、ジョージの息子37歳のリチャード、初代バッキンガム=シャンドス公爵(継いだ当時は、第二代バッキンガム侯爵、公爵の叙爵は1822年)、今回の主役です。※(以下バッキンガム)
ジョージは、公爵位を望みましたが、自分の代ではそれを果たすことができないため、息子バッキンガムにその夢を託し、公爵位をもつ女相続人との結婚を整えます。
父の采配により、1796年、バッキンガムが、20歳のとき、シャンドス公爵の莫大な遺産を相続している16歳のアナ・エリザと結婚します。
そして、この結婚により、バッキンガムは1822年に、ジョージ4世から、バッキンガム・シャンドス公爵に叙爵され、父ジョージの夢は実現されます。
公爵位ばかりではなく、バッキンガムには、莫大なシャンドス公爵の遺産も、もたらされます。この当時、妻の資産は、夫の資産。夫の管理下に置かれるのが通常でした。
父の負債を継いだバッキンガムですが、妻の資産のおかげで、負債は、一旦解消されます。
そして、妻の莫大な資産を、バッキンガムは美術品収集につぎ込み始めます。
バッキンガムは、400以上あるストウハウスの部屋を、飾りたかったのか、絵画の買い付けに余念がありませんでした。ストウを継ぐ前の1798年、フランスで開催されたオルレアンの美術品放出セールから始まり、あちこちで大量に絵画の買い付けを続けます。
財産管理人や周りの警告にも、全く耳を傾けず、美術品にとどまらず、 ランポートなど近隣の土地の買い増しも続け・・・
1820年台、バッキンガムの借金は、7万ポンドに達していたそうです。
7万ポンドというのは、今なら凡そ、400万ポンド(6億4,000万円くらい、£1=160円として換算)のようなので、莫大な額です。
妻、アナ・エリザは、バッキンガムの金銭感覚の無さに、恐れをなします。そして、エリザは、冷静に対処します。
「あなた、美術品は、本場で買い付けるのが一番よ」と、バッキンガムを地中海旅行に巧みに送り出すと、すぐに裁判所に行き、父から得た自分の資産を、バッキンガムの財産から切り離して保全する訴えを起こしました。裁判所は、訴えを認め、以降、アナ・エリザの持つ資産に、リチャードの手は、及ばなくなりました。
そんなことも知らず、バッキンガムは、意気揚々と、地中海旅行へ。
財産管理人に、半ば強制的に言われ、旅費節約のため、自分のヨットで出かけます。
ストウは、旅行中の維持費を支払えないため、使用人には暇を出し、クローズします。アナ・エリザは、バッキンガムを見限っていたのか、ストウには住まず、ハンプシャーのアビントンに滞在し、ストウのガーデンにも関心がなかったようです。
1823年から、2年間を費やした、地中海旅行中も、ギリシャ、ローマ時代の古美術品の買付は続き、彫像を18クレート(コンテナのような荷物を運ぶ大きな箱)分、美術品30パッケージなどを、旅先から、ストウに送っています。
また、自分用として、旅行中に、84個の帽子を買うなど・・・倹約とは、程遠い生活だったようです。「買い物依存症」、、、の傾向があったかもしれません。
バッキンガムは、ベスビオス火山を訪れましたが、雇った御輿屋が、「今まで運んだ中で、一番重い客。。」と、嘆いた記録が残っているようです。肖像画を見ると、バッキンガムは、重度の肥満と言っても良さそうです。
そして、バッキンガムがストウを継いでから20年後、57歳の時には、1833年に、借金返済のためのストウのプロパティ・セールが大々的に行われ、これまで収集した美術品、絵画、家具の殆どが、放出され、借金の返済に充てられました。
ストウハウスは、内装は、素晴らしいのですが、絵画や家具は、このセールで売り払われてしまい、殆ど残っていません。
バッキンガムの借金返済セールが、なければ、ストウハウスの中は、全く違った風景になっていたことでしょう。
1813年 ストウを継承
1822年 公爵叙爵
1833年 借金返済大セール
父が熱望した公爵になったのに、バッキンガムはイギリスで最大の借金を抱える、悪評高い公爵へと、瞬く間に転落したのでした。
1839年に、バッキンガムは、借金を抱えたまま、63歳で死亡します。

バッキンガム=シャンドス公爵位は、息子リチャードが第2代、孫リチャードが第3代を継ぎますが、第3代には息子がおらず、公爵位は、たった67年間で廃絶します。
ストウは、第3代の孫リチャード(娘メアリーの息子、女系の孫なので公爵位は継げない)が主となりますが、リチャードは第一次世界大戦で戦死。弟は、ストウを売却し、その後ストウスクールとなり、廃墟になるのを免れます。そして、ハウスとガーデンの恒久的な存続のために、保存協会が立ち上げられ、ガーデンは、保存協会から、ナショナル・トラストに譲渡されます。
ストウスクールは、保存協会と協力し、現在も存続しています。
※
他の記事でも、述べていますが、バッキンガム公爵位は、これまで4度の叙爵と廃絶があります。
①スタッフォード家(1444-1521)
ハンフリー・スタッフォードが、対仏戦争でヘンリー5世を支え活躍した功績で、ヘンリー6世によって公爵に叙爵される。第2代はリチャード3世が処刑、ヘンリー7世により第3代が復位するが、ヘンリー8世の時代ウルジーに疎まれ処刑され、廃絶。
②ヴィリアーズ家(1623-1687)
ジェントリの息子だったジョージ・ヴィリアーズが、ジェイムズ1世の下で急速に昇進し、ついに公爵に叙爵されるも1628年に暗殺される。父が暗殺された年に生まれた、第2代には嫡子がおらず廃絶。
当サイト、「クリブデン・バッキンガム公爵編<前>及び<後>」をご参照ください。
③シェフィールド家(1703-1735)
数々の戦功を立てたジョン・シェフィールドを、アン女王が叙爵。嫡子がおらず、廃絶。ロンドンのバッキンガム・ハウスは、庶子のチャールズ・ハーバード・シェフィールドが相続した後、ジョージ3世が購入。
当サイト、「バッキンガム・パレス」をご参照ください。
④グレンビィル家(1822-1889)
今回の記事の対象。リチャードから始まり、67年間で廃絶。

参考 :Micheal Bevington, Stowe, The People and the Place, National Trust,Swindon2011