ヒストリックハウス名:ディラムパーク

所在地域:イギリス、グロスターシャー

訪問:2016年6月24日

丘の上から、歩いていくと、突然、現れるハウス

ディラム・パークは、映画「日の名残り」(原作カズオ・イシグロ 『The Remains of the day』 )のロケ地です。カントリーハウスとその住人たちの生活が、時代と共に、物悲しく変わっていく日々を描いた作品です。

カントリーハウスで撮影された映画は、数多くありますが、ストーリーとの一体感という点では、ディラム・パークと「日の名残り」以上のものはないかもしれません。

ディラム・パークを訪れたのは、夏の日の午後。

パーキングからは、見えないハウス。徒歩で向かいます。途中から、急斜面を下る道になり、突然、まるで、演劇の演出のように、ハウスが出現します。

そのドラマティックなハウスの出現は、映画の最初でも活かされています。

カントリーハウスが、最後の華やかさを、残していた、第二次世界大戦前と、

戦後が、交錯しながら、展開する物悲しいストーリー。

冒頭の戦後のシーンは、坂を下って、荒廃しつつある館が現れるところから始まるのです。

変わって、まだ華やかさを残す戦前では、キツネ狩をする馬に乗った貴族達とハウンド(犬)群が、館から、急斜面を駆け登っていくのです。

上流階級の象徴的スポーツ、キツネ狩への出発。

華麗な迫力、そしてその貴族文化の儚さ、無常、を同時に見るシーンです。

そのシーンを思い出しながら、私は、坂を下って、ハウスへ入りました。

ハウスに入ると、ガランとしていて、家具や絵画などの装飾物は一切なく、展示パネルがちらほら置いてあるのみでした。というのも、私が訪れた時は、大規模改修工事が始まる直前で、内装は全て片付けられていたのです。

2022年夏には、大規模改修が終わり、内装も元に戻されているようです。

というわけで、訪問時はガーデンを主に見学しました。

今回の主役は、一代で、ディラム・パークを建て替え、広大なオランダ風ガーデンを開発したウィリアム3世時代の廷臣、ウィリアム・ブラットワートです。

William Blathwart (?1649-1717) ウィリアム・ブラスワート

ディラムパークは、1572年にジョージ・ウィンター、ウィリアム・ウィンター卿兄弟が、購入します。この兄弟は、エリザベス一世の海軍で活躍。特にウィリアムは、1588年の対スペインのアルマダ海戦の主導役で、カレーで勝利を挙げた時代のヒーローの一人でした。そして、兄弟の世代が終わると、ディラムパークは、ジョージの孫娘、メアリー・ウィンターが承継します。

メアリーは、ディラムパークの女主人として、気ままな独身生活を送り、気づけば36歳になっていました。当時は、10代後半の結婚も多く、30代後半になって独身というのは、珍しい存在でした。

しかし、メアリーには、ディラムパークという精神的な支柱がありました。そして、結婚となると、ディラムパークの所有権が相手に移る、または、共同所有とするのが慣習で、自分の一部であるようなディラムパークを、他人と分かつなど、もってのほか、とメアリーは強く思っていたのです。

なので、結婚したいとは、思うものの、ディラムパークのことを考えると、もう少し先になったら、考えようと、先延ばしが続いて、36歳になっていたのです。

そこへ、紹介されてきたのが、今回の主役、ウィリアム・ブラットワート(以下ウィリアム)です。

ウィリアムの叔父、トマス・ポーベイ(?1618-?1700、以下ポーベイ)は、王政復古後チャールズ2世の弟ヨーク公(後のジェイムズ2世)の財務官でした。同時代の日記作家で王室官僚の、サミュエル・ピープス(1633-1703、以下ピープス)の日記に、ポーベイは度々、登場し、生々しく描写されています。

ピープスは、ポーベイの職務を引き継いだが、書類などが整理されておらず「ひどい有様だ!」と非難する一方、ポーベイ家の絵画のコレクション、飲食のおもてなしの趣味の良さを絶賛しています。ポーベイは、書類の整理には疑問が残るものの、礼儀正しさ、コミュニケーションスキルに長けた人のようで、ロイヤルソサエティの設立メンバーでもあります。

宮廷、政界で、なかなかに活躍していた叔父の導きのもと、ウィリアムは当時の世界の首都、黄金期のオランダ、ハーグでの外交官生活を、20歳になる前には始め、キャリアの一歩を踏み出します。

オランダは、亡命中のチャールズ2世が一時滞在し、後には国を追われたジェイムズ2世が滞在、イギリスと距離も近く、王室同士の関係も密です。

(余談ですが、以前にワイト島でサイクリングをした時に、レンタルバイク屋さんが、

お客さんで一番多いのは、オランダ人と言っていたのを思い出します。)

前に述べた、日記作家ピープスは、チャールズ2世がオランダ、スケヴェリングから脱出し、戴冠のためにロンドンへ向かう船旅のお供をしています。ピープスの日記第1巻では、

1660年5月のその航海の様子が、事細かに綴られています。その様子から、チャールズ2世が、鷹揚で大らか、気前がよく、また臣下への配慮に長けていたことが、伝わってきます。

16世紀、17世紀はオランダの黄金期と言われ、東インド会社を中心に、世界の物産が流れ込むオランダでは、科学芸術も盛り上がり、それは華やかな様相を呈していました。ウィリアムが、赴任した頃、ハーグは、ロンドンよりも、はるかに洗練された、先進の空気が、満ち満ちた、活気のある国際都市だったことでしょう。

青年外交官、ウィリアムは、オランダの先進の文化芸術にどっぷりと浸かり、読み書きはもちろんのこと、外交官にふさわしい礼儀正しいオランダ語を、流暢に話せるようになります。同時に、生活の中で身につけた、砕けた冗談や庶民の言い回しなども、ネイティブ並みに話せるようになります。

1670年~80年代は、断続的に続くイギリス、フランス、オランダの戦争をめぐる裏の秘密文書のやりとりや、さまざまな条約の締結が続き、外交官のウィリアムは大忙しの毎日でした。やりがいを感じるものの、30代後半になると、カントリージェントルマン(土地をもつ領主)になり、もっと落ち着いた生活を送りたいという気持ちが高まります。

自分の土地を持たないウィリアムが、気の合う女相続人を探していたところ、メアリーの存在を知ったのでした。

そして、1685年に、チャールズ2世は死去。弟ジェイムズ2世が王位を継ぎますが、

即位前から、カトリックのジェイムズ2世の人気は低く、議会ではジェイムズ2世の廃位を、探っていました。根っからの王党派であるウィリアムは、この動きには扇動されず、一貫してジェイムズ2世を支持、自身のキャリアの不透明さは、日に日に増していきました。

一方、社交よりも、読書や芸術に興味があるメアリーは、オランダの先進文化の話をさりげなくしてくれるウィリアムに好感をもち、また自分より少し年上で落ち着きがあることにも安堵を感じ、二人は、1686年に結婚を決めます。

メアリーがディラムパークの相続人であったことから、結婚契約をまとめるのに3ヶ月ほどを要しました。

結婚2年後、1688年、ウィリアム39歳の時に名誉革命が起こり、ジェイムズ2世は廃位され、ウィリアム3世が即位。王党派のウィリアムは、一旦外交官を罷免されます。

しかし、英語が得意でないウィリアム3世は、ネイティブ並みにオランダ語を繰り、オランダ人脈に明るく、オランダ外交のプロとして実績あるウィリアムに助けを求め、ウィリアム3世の側近として呼び戻されます。

ウィリアムも、君主の役に立つならば、とまた、収入の必要性もあり、馳せ参じます。

二人共に遅い結婚ではありましたが、結婚後、5年間で5人の子供が生まれ、メアリーは5人目の出産時、1691年に亡くなります。

メアリーが亡くなった翌年、1692年に、ウィリアムは、ウィリアム3世の国務官(

Acting Secretary of State)に任命され、年俸は£2,200に昇給。この収入を得て、

ウィリアムは、ディラムパークの西棟建築を始めます。建築家は、フランスから亡命してきたユグノーのホーデュロイ( Mr.S.Hauduroy)。イギリスではこの頃、新古典主義・古代ローマ風の建築がトレンドでしたが、ウィリアムも新古典主義をディラムパークに取り入れています。

ウィリアムは、先祖から受け継いだ資産は無く、ディラム領地からの収入が若干あるものの、メインの収入は高給官僚としてのサラリー。収入を見極めながら増築をしています。1698年には、若干格下げされ、貿易担当大臣(Board of Trade)に。

年棒は、£1,000に下がりますが、それでも高給に変わりなく、チューダー時代の旧館を取り壊し、新東棟を建てました。この新東棟は、ステートアパートメントの造りで、ウィリアム3世が来訪することを前提にした造りになっています。

ウィリアム3世の御用家具職人、ダニエル・マローによるステート・ベッド(王専用ベッド)を特注、またマローの叔父からオランダ絵画、オランダの本、オランダ家具を大量に買い付け、全てをオランダ製で揃えます。

ブルーとホワイトのオランダのデルフト磁器も、大量に買い付け、家のあちらこちらに置きました。これらの磁器は、今も、ディラムパークにオランダテイストを添えています。

そして、東棟には、オランジェリー(温室)も造り、広大なオランダスタイルの庭園を造成します。オランダの平地庭園を再現するために、起伏していたハウス周りを、大規模な造成工事をして平地にしています。この工事には、月日を要したようで、ウィリアムは「一体、この造成工事は、いつになったら終わるのか…」と書き残しています。

ガーデンから見るハウス、庭は見事に平地化されている。ハウスは新古典様式。

今、放牧地となっているハウスの西東側は、花壇が連なるオランダ式大庭園でしたが、孫の代で維持するのが難しくなり、庭園は草地に変えられ、今、庭園は、ほんの一部のみ残っています。

自分を重用してくれた国王ウィリアム3世を迎えるために、ステートアパートメントを新築し、豪華なオランダ物品で整え、オランダ式大庭園を造ったわけですが、残念ながら、1702年にウィリアム3世は落馬事故が元で死亡。

ディラムパークに来ることは、ありませんでした。

アン女王の時代になると、ウィリアムは、徐々に閑職へ格下げされ、宮廷から足が遠のき、君主来訪を夢見ることもなくなりました。

5年と短かったメアリーとの結婚生活ですが、ウィリアムのメアリーへの愛情は深く、新築したディラムパークの一番良い部屋を、メアリーの部屋とし、メアリーの持ち物を置き、メアリーがまるで生きて生活しているかのように、保ちました。

1717年にウィリアムが、68歳でなくなると、同じ名前の長男ウィリアムが、ディラムパークの当主となり、メアリーの祖父からのウィンター家の血統は引き継がれます。

その後1956年にナショナル・トラストに寄贈されるまで、ウィンター家の子孫が承継しました。メアリーも自分の役目を果たせたと、喜んでいることでしょう。

ウィリアムは、家の中を、オランダづくしにしましたが、それはウィリアム3世がオランダ出身ということもあるとは思いますが、それ以上に、ウィリアムの”アイデンティティ”がオランダだったからかもしれません。

現代でも、アメリカ好き、ハワイ好き、イタリア好き、バリ好き、フランス好き、スペイン好き、韓国好き…と、ある特定の国や地域の文化を徹底的に好む人は、珍しくありません。

私は、20代~30代、アメリカが好きだった時期がありました。

ウィリアムの、アイデンティティは10代後半から過ごした、世界の首都、オランダ。そのオランダ文化を自分のハウスで、再現することこそが、彼の本望だったのではないでしょうか。

新築したハウスのあちこちに置いた、デルフト焼きの大型のチューリップ花瓶(チューリップを1本ずつ挿して活けられる)を見て、ウィリアムは、ニンマリと

微笑んでいたことでしょう。

イギリスのドラマシリーズ「サンディトン」、レディーデナムのお屋敷の外観は、ディラムパークが使われています。ディラムパークのエントランスの上には、ワシの石像があり、それがはっきりとわかるので、おそらく間違いないと思います。しかし、お屋敷のバックには、ストーリーに合わせて海が合成されています。(実際は海ではなく草地が広がる)

参考 : National Trust, Dyrham Park, サミュエル・ピープス、臼田昭訳「サミュエル・ピープスの日記」第1巻