ヒストリックハウス名:ストアヘッド

所在地域:イギリス、ウィルトシャー

訪問:2016年8月29日

典型的な新古典主義様式ながら、どこか地味

ホア・バンクは、今につづくプライベート・パンクで、その歴史は、国立銀行バンク・オブ・イングランドより古く、銀行の前身である「ゴールドスミス」の時代に遡ります。ストアヘッドは、14世紀から1714年まで、宮廷の廷臣であったストアトン卿のハウスでしたが、第13代エドワード・ストアトンがジェイムズ2世の亡命に伴って、フランスに渡り客死、抵当に入っていたハウスはストアトン家の手を離れ、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったホア・バンク創始者リチャード・ホアの長男、ヘンリー・ホア(1677-1725)に買い取られ、現在のストアヘッドが建てられました。そして、同名のヘンリーの息子、”偉大な”ヘンリーによって、壮大な風景庭園が造られます。

前編では、ハウスを建てたヘンリーと、金細工師の息子から一代で大銀行を築いたヘンリーの父、リチャード・ホアを書き、来月の後編では、風景庭園を造り、子孫から偉大な”ヘンリーと呼ばれているヘンリーについて書きます。

Sir  Henry Hoare  (1677-1725) ヘンリー・ホア卿

父リチャード(1648-1718)の父親(ヘンリーの祖父)は、馬の仲買人として成功していましたが、長子ではなかったリチャードは父を継がず17歳で金細工師の見習いとなります。

17世紀後半、金細工師は、「ゴールドスミス」と呼ばれていましたが、

金を細工する以外に、金細工師としての信用のもと、金や現金を預かり、その預かり証として「ゴールドスミスノート」を発行し、顧客は、発行してもらった預かり証に対して、利子を支払うという仕組みが出来上がりつつあり、これが現代の紙幣の前身とされます。

王政復古のチャールズ2世時代は、まだ銀行はなく、そして、王族・貴族は、借金をしてでも、心ゆくまで豪奢な生活を楽しむという風潮でした。

チャールズ2世のオランダ戦争、インフラ整備政策、豪奢な生活、多くの愛人は、ゴールドスミスからの借金ありきで行われていたようですが、借金が大きくなりすぎて、国王は利息を払えなくなり、多くのゴールドスミスは、破綻。

20代前半で、まだ見習いだったリチャードは、親方ロバート・テンペストのゴールドスミス業が破綻すると、親方から、ビジネスを買い取り、同業他社と連携してゴールドスミスビジネス「ホアバンク」を発展させます。そして、国立銀行、バンクオブ・イングランドの設立には、同業者のフランシス・チャイルド、チャールズ・ダンコムらと、設立に反対する立場に。リチャードは、業界で指折りの存在となっていきます。(バンク・オブ・イングランドは、1694年設立)

1702年、54歳の時には、アン女王より騎士に叙爵され、1709年から4年間、ロンドン選出の下院議員に、1712年にはロンドン市長になり、南海会社設立者の一人でもありました。見習い職人だったリチャードは、イギリス階級社会を、「ゴールドスミス」ビジネスを武器に、その才覚で、駆け上り、イギリス経済の実力者となったのです。

リチャードには、18人の子供がいて、そのうち11人は息子でしたが、その中の二人だけが、父親のビジネスに参画しました。次男であるヘンリーと、一番若い息子であるベンジャミンでした。次男ヘンリーは、リチャードが29歳の時に生まれています。リチャードが70歳で死去するまで、41年間、リチャードの心強い片腕でした。

次男ヘンリーは、父がゼロから銀行業を立ち上げ、発展させ、政界に進出し、ロンドンの市長になり、そしてイギリスの経済を動かす存在になっていくのを、すぐそばでサポートしていたのでした。

リチャードは、1718年、70歳で死去します。

1714年37歳になっていたヘンリーは、父の同意のもと、抵当落ちとなったストアヘッド領地を、購入します。父リチャードは、質実剛健、地味一徹で、自分のカントリーハウスを持つなど考えたこともありませんでしたが、2代目ヘンリーは、できれば時代に合ったカントリーハウスをもち、地域貢献し、社交を広げ、ビジネスにも活かしたいと思っていました。

購入したストアヘッドには、中庭を囲んで立つ中世からのマナーハウスが廃墟同然の姿で建っていましたが、ヘンリーは迷わず、このハウスを取り壊します。

そして、ヘンリーの義理の兄弟で、政治家、アマチュア建築家であるウィリアム・ベンソン(1682-1754)、建築家コリン・キャンベル(1676-1729)の、時代の最先端をいく「新古典様式チーム」が新ハウスの設計を嬉々として、担当します。

コリン・キャンベルは、イギリスにおける「新古典主義」のいわば、代表的”マーケター”。”ローマ時代の建築こそが唯一正しいので、現代でも復活させましょう”という内容を「Viturius Britannicus」※と、ラテン語的なタイトルをつけた著作で語り、世の中に広めます。まだ、建築書があまりなかった当時、この本は、カントリーハウスを持つ領主たちに、新鮮な驚きと感動を持って、”センセーション”という感じで、受け入れられ、ローマ風の新古典主義建築が、全英のあちこちで、建設される”きっかけ”となりました。

※ ローマ時代にMarcus Vitruvius Polioが著した「De Architectura」( 建築十書、最古の建築理論書とされる)に似せている。

それまで、カントリーハウスは、切妻屋根や数多くの煙突を装飾的に使ったエリザベス様式から、教会建築を起源とする尖塔アーチを特徴とするローマンゴシック、バロックへと移っていました。そこへきて、列柱を持つポルティコ、多くの窓が並んだ左右対称の建物が特徴のローマ風新古典様式は、洗練された「インテリジェントな」印象を、人々に与えたようです。(教養=古典という認識が強かった)

そして新古典様式でハウスを建てることは、そこに住む人が、「洗練された趣味をもち、古代ローマのことを知るインテリである」表現ともされたのです。

そして、”マーケター”キャンベルは、ターゲットをきっちりと絞っていました。

それは、資金力があること明らかな”ゴールドスミス”達です。

同年1714年、キャンベルは、政治家リチャード・チャイルド(1680-1750)から、エセックスのワンステッドハウス建築を受注、新古典様式のモデルハウスかと思わせる壮大なスケールで建て、またそれはエセックスというロンドン至近だったため、多くの貴族たちが、「話題の新古典様式を、一目見なくては!」という焦る気持ちを抑えきれず、見学に行ったのです。

他にも、キャンベルは、バーリントンハウス、ホートンホールなど数多くのカントリーハウスを新古典様式で建て、その中には、故ダイアナ妃の実家であるオルソープも含まれます。

キャンベルのマーケティング戦略は大成功でした。

そして、政治家ながらアマチュア建築家でもあるウィリアム・ベンソンは、キャンベルに酔心し、新古典主義推進派となります。1718年には、ジョージ1世に認められ、クリストファー・レン卿の後を継いで、建設大臣のような役割、”Surveyor-General”のポストにつきます。

ベンソンは、新古典主義建築を、「新たなイギリスの国家的スタイルである」とまで表現し、ナショナリズムまで付加。コリン・キャンベルは、ベンソンのもと、副大臣となり、ベンソン&キャンベルの「新古典チーム」が発足します。

あちらこちらで新古典様式のハウスが、雨後のタケノコのように建てられる中には、ヘンリーのホアバンクから借金をして建設する領主たちも、少なくなかったことでしょう。

また、ベンソンは、ヘンリーの義理のきょうだでもありました。

ベンソンと”時代のマーケター”キャンベルは、チャイルドの壮麗なワンステッドハウスの設計図を見せ、”当然ですよね”という流れで、ヘンリーに新古典様式を提案。ヘンリーには、他の様式の選択は、ありませんでした。

ストアヘッドは、キャンベルの代表作の一つとされ、キャンベルの著作”Viturius Britannicus”の第3巻には、ストアヘッドが紹介されています。

新古典様式の代表的マーケター、キャンベルが設計しただけあって、4本列柱のポルティコ、きっちりと左右対称な建物ではあるのですが、窓の数が少なく、全体の高さが二階建てであることから、圧倒的な迫力、というのは感じられず、様式的には正しいけれど、地味な仕上がりになっている印象です。しかも、新古典様式の肝ともいえる列柱は、当初は省いて建てられ、後世で追加されたようです。理由は不明です。

新古典様式の「核」列柱とペディメント(柱の上の三角部分)

1714年に購入してから、工事には10年以上を要し、1725年にハウスが完成。キャンベルが、細部にこだわっている間に、時間が経ったのでは、と想像します。

キャンベル「屋上手すり(balustrade)の彫刻が、右と左で、数インチ違って仕上がっていて、けしからんので、職人にやり直させます。」

ヘンリー「いやいや、いいよ、それくらいは。屋上彫刻の数インチの違いは、私は、気にせんから、もう仕上げてくれていいよ」

キャンベル「いや、それはだめです。ホアバンクの社長の家の、様式がいい加減なことでは、銀行の信用にかかわります。きっちりやらせますから、あと半年お待ちください。」

ヘンリー「・・・」

みたいなことでは、なかったでしょうか。

ハウスの完成とほぼ同時に、ヘンリーは、48歳で死亡します。父の死から7年後でした。何か、継続的なストレスでもあったのでしょうか。。

ストアヘッドを訪れた日は、快晴でした。先にハウスを訪れ、「地味だなー」と思ったのですが、ガーデンに行くと、その印象は全く変わったものになったのでした。次回は、風景庭園の代名詞ともされるそのガーデンと、ガーデンを造ったヘンリーの息子「偉大なヘンリー」について、書きます。お楽しみに!

参考 : National Trust, Stourhead House, David Watkin 「西洋建築史~18C新古典主義から現代建築まで」